『日本百名山の伝説・神話』

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■022・磐梯山 「空海と怪物夫婦」

 ちょっと古いですが、♪笹に黄金がなりさがる…と歌われる福
島県の会津磐梯山(1819m)。その磐梯(ばんだい)とは岩のハシ
ゴだといいます。それも天に達するような磐(いわ)の梯(はし
ご)の意味だそうです。天に達するとは大げさですが、この山は
平安時代初期、大同元(806)年の爆発前の磐梯山は標高2200m
はあったと推測されています。当時、2200mはやはり天に達する
高さだったでしょうね。

 別名を、見方によっては富士山の形に見えるというので会津富
士とか會津嶺(あいづね)というそうです。山頂は360度の展望
で、東を見れば、安達太良連峰、阿武隈の山々が、南には猪苗代
湖や那須連峰、日光連山、そして時には富士山も見られるといい
ます。さらに西方は遠くに飯豊連峰・南会津の山々、近くは猫魔
ヶ岳。北を望めば遠く朝日連峰・月山・鳥海山、眼下には裏磐梯
の湖沼群が指呼のうちです。

 高山植物としては、磐梯山にしか生育しないバンダイクワガタ、
ウスユキソウ、ミヤマキンバイ、ミヤマシャジン、イワインチン、
またハクサンチドリ、エゾオヤマリンドウ、ヤマハタザオなどの
花が見られます。

 いま山頂にある祠には、神道の皇高天原命とかかれた石碑がま
つられ、もとからの地主神である磐梯明神の石碑はその下に積ま
れた石の間にあり、風雨にさらされています。

 この山にも雪形ができます。4月中旬、表磐梯からは虚無僧の
雪形があらわれ、その下にヘビの雪形が出るといい、また頂上東
側斜面には、鉤(かぎ)の雪形があらわれるといいます。虚無僧
雪は、天蓋(てんがい・編み笠)に長着物姿で、尺八まで持って
います。

 ヘビの尾は竜ヶ沢まで伸びているといいます。南方からは虚無
僧姿でなく牛に見えるので「牛雪」と呼ばれているそうです。こ
の雪形がはっきりと見えるようになると、苗代(なわしろ)に種
をまいて、農作業を進めるのだそうです。

 湖南地方では虚無僧雪を見て種籾をまくという。4月下旬にな
っても形がはっきりせず、山肌が一面に真っ白なときは1週間ほ
ど作業を遅らせるといいます。無理にまいても低温で「苗くされ」
になるというのです(『猪苗代湖南民俗誌』・『東北の山岳信仰』)。

 そもそも磐梯山は、平安時代初期には火山活動が活発で、噴火
の際の岩屑物などの爆発被害で、農作物の不作がつづき、病脳山
(やまうさん)と呼ばれるほど山ろくの村人を困らせていました。
そこへ弘法大師空海がやってきて、民心安定、五穀豊穣を祈願し
たとのことです。

 福島県磐梯町にある「奥州会津恵日寺(慧日寺)縁起」に「磐
梯山、もとは病脳山(やまうさん)とて魔魅(まみ)住み居て常
に祟りをなし農産物を害せり。のみならず山麓に民家あまたあり
しに大同元年、大爆発を起こさせ月輪荘、更科荘が一夜に湖に化
し、溺死者数知れず。・・・

 ・・・この災害を聞きて空海この地に来たりて、八田野稲荷の森に
て秘法を行せしにより、魔魅は別峰烏帽子岳に逃げ去りぬ。この
時山神、形を現しければ空海これを祝いて磐梯明神と称し、舞楽
を奏して明神と名づく」とあります(『新編会津風土記』による)。

 そんな記述からこんな伝説が残っています。その昔、病脳山(磐
梯山)と明神ヶ岳(1074m・柳津町と会津美里町(旧会津高田
町)?)とに両足を踏ん張って立つような怪物「足長」と、猪苗
代湖の水を手ですくって会津中にばらまく「手長」という夫婦の
怪物がすんでいました。

 この怪物は、いたずら好きの乱暴者で、雲を呼んでは会津一帯
を真っ暗にし嵐を起こすわ、作物を荒らすわで、村人は困り果て
ていたという。そんなとき弘法大師空海がやってきました。大師
は村人の話を聞き、「それはお困りであろう。ひとつ拙僧が何とか
して差し上げよう」と、病脳山の頂上に登って怪物夫婦に会って
問答をしたといいます。

 大師は手長足長に向かい、「お前たちは何でもできると威張って
いるようだが大きくなることができるか」といいいました。怪物
夫婦はあざ笑い、「なにお、それしき」とばかり、見る間に天まで
届く大きさになりました。

 それを見た大師は「大きくはなれるが、わしの手の平に乗るよ
うな小さくはなれまい」。「何を言う。俺たちに出来ないことはな
い」手長足長は、みるみる小さくなって大師の手に乗りました。
大師はすかさず用意していた石の箱に入れふたをして、呪文を唱
え出られなくしてしまいました。

 「お前たちは、いままでさんざん悪いことをしてきた。本来な
ら許せぬが、み仏に免じて神として磐梯の山中にまつってやる。
これからは、人々のために尽くすのだぞ」と、石の箱を山頂に埋
め、磐梯明神として祭ったといいます(『日本伝説大系』)。

 いまでも山頂に積まれた岩の間に、磐梯明神の石碑が埋められ
ています。空海に救われた村人は、山名を磐梯山と改名。山頂の
肩にある弘法清水と空海の大使像は、この伝説がもとになってい
るそうです。

 やがて空海は山麓に恵日寺を創建し、山号を磐梯山としたとい
う。空海がこの寺にとどまること3年、大同5年(平安時代)、徳
一に寺を継がせて京に帰った(「奥州会津恵日寺縁起」)とありま
す。

 しかし、これについては何の証拠もなく、実際には磐梯山爆発
による災害鎮護のため、空海のあとを継いだとされる徳一上人が
古城ヶ峰南麓磐梯町に恵日寺を建て、磐梯山の神・磐梯明神を鎮
守(磐梯神社は恵日寺のわきにある)としたものだろうというこ
とになっています。

 またこんな伝説があります。平安初期噴火以来、11世紀も眠り
つづけてきた福島県の磐梯山が、1888年(明治21)、に突然爆発し
ました。その結果、いまの馬蹄形カルデラができたことは有名で
すよね。ところが、この爆発を予知した男がいるというのです。

 爆発当日の明治21年7月15日、磐梯山の温泉で湯治を楽しんで
いる人たちがいました。しかしその中の1人の男が夕べから何か
考え込んでいます。そして「何か胸騒ぎがする。あしたの朝早く
山を下りると」いうのです。

 翌朝、男は仲間が「せっかくきたのに」と、とめるのも聞かず
家に帰っていきました。ふだんから奇行が目立つため、ほかの人
たちは「またいつものくせがはじまった」と気にもとめませんで
した。が、その後朝飯を炊いていると、山の鳥やキツネ、ウサギ
が麓に向かって一斉に移動をはじめたのです。

 不安になった一行は急きょ山を下りることにしました。いまの
JR磐越西線翁島駅近くまできたころ、大音響とともに小磐梯山
が吹っ飛び、北麓の集落は埋没し461人もの死者を出してしまいま
した。その結果、岩屑流で裏磐梯にたくさんの沼や湖ができてい
ました。あとになって仲間たちは男にすがりつくようにして「お
前のおかげで助かった」と涙を流して喜び合ったということです。

 この地震を予知した男は、福島県湖南の秋山(いまの郡山市福
良)に住む遠藤幾太郎という人だったそうです。幾太郎はよく「稲
荷の神憑き」になる人だったとありますが、なんとも不思議な話
ですね。

 ある年の10月、磐梯山は紅葉がまっ盛り。裏磐梯五色沼近くの
キャンプ場にテントを張りっぱなしにして、五色の沼の色をめで
ながらスキー場から磐梯山に登りました。茶色になって白煙をは
き、キツイ硫黄の臭いを嗅ぎながら、登山道わきの赤く熟したグ
ミを摘んで口に運びます。

 中ノ湯あたりから地元中学生の集団登山と出くわしました。ワ
イワイガヤガヤ、歩いている登山道のを子どもたちが追い抜いて
うっとうしい。弘法清水小屋前はそのほかの登山者も混じってそ
れこそ芋を洗うようです。それからは道も一段と細くなり、押す
な押すなのにぎやかさになってしまいました。山頂へ登る階段は
順番待ちの列。足長どころか「くび長」になるありさまでした。



▼磐梯山【データ】
【所在地】
・福島県猪苗代町と同県磐梯町、同県北塩原村との境。磐越西線
猪苗代駅の北西7キロ。JR磐越西線猪苗代駅からバス、磐梯高
原駅から歩いて4時間20分で会津磐梯山。

・三等三角点(1818.6m)と皇高天原命の石碑、磐梯明神の石碑
がある。三角点より北方向450mに弘法の清水と弘法清水小屋があ
る。

【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
・三等三角点:北緯37度36分03.49秒、東経140度04分20.06秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「磐梯山(福島)」


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典7・福島県』小林清治ほか編(角川書店)
1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書7・東北霊山と修験道』月光善弘編 (名著
出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書・16』(修験道の伝承文化)五記重編 (名
著出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書・17』(修験道史料集・1)五木重編(名
著出版)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編会津風土記』:大日本地誌大系(第31)『新会津風土記2』
(雄山閣)1932年(昭和7)
・『新編会津風土記』:大日本地誌大系(第32)『新編会津風土記3』
(雄山閣)1932年(昭和7)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『日本伝説大系第三巻・南奥羽・越後編』(山形・福島・新潟)
野村純一ほか(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・『日本歴史地名大系・7』(福島県の地名)(平凡社)1993年(平
成5)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56)



 

 

 

 

 ×××開聞岳(かいもんだけ)は、鹿児島県指宿(いぶすき)市(旧揖
宿郡開聞町)にある山。『日本百名山』(深田久弥著)の099番目に
書かれています。開聞岳は神話の山であり、修験道の山でもありま
す。かつてこの山は、枚聞(ひらきき)岳と書いていました。な
ので開聞岳(ひらききだけ)と読むのが正しいといいます。

 しかし、いまはカイモンの方が一般的です。ヒラキキの名は、
北ろくにある開聞岳をまつる枚聞神社(ひらききじんじゃ)に、
その名前が残っている程度です。枚聞神社は、古代には開聞神、
中世以降は開聞宮(ひらききのみや)・開聞神社と呼ばれていたそ
うです。この神社は、平安時代の古代法典『延喜式』(えんぎしき)
にも載っているという古い神社です。

 さて次は「ヒラキキ」とは、「カイモン」とはなんだ?というこ
とになります。「開聞岳の信仰」(『山岳宗教史研究叢書13』所収)
の筆者・小川亥三郎氏は、各地の地名を例に、こんな風に検証して
います。ヒラキキの「ヒラ」とは、『万葉集』にある、滋賀県の比
良山のふもと比良地方の浦を、平の浦(ひらのうら)とある通り、
また大阪府枚岡(ひらおか)市の枚岡山(ひらおかやま・展望台268
m)の例もあるように、比較的傾斜地・崖が多い所です。

 そのほか鹿児島県指宿市にも大平山(おおひらやま)、鬼門平(お
んかどひら・307m)という山もあります。このように「ヒラ」は
坂、傾斜地、崖などを意味する語であると思う。また「キキ」は「ク
キ(岫)」で、その転音したものらしい。「クキ」(岫)は山の洞穴
を意味する語でしたが、転じて、岩山・谷・峰の意となったのです。

 明治時代編纂の国語辞典『大言海』にも、「くき(岫、洞)山ノ
洞(ホラ)アル処。転ジテ山。岡」とあります。そんなことから「ヒ
ラキキ」は「ヒラクキ」の転化で、「傾斜の急な山」の意味である
と小川亥三郎氏は結論づけています。

 この山はまた、日本神話にも登場します。北ろくにある枚聞神社
(ひらきき)の祭神は、国常立命(クニトコタチノミコト)・大日
?尊(オオヒルメノミコト)・猿田彦(サルダヒコ)など多くの神
がまつられています。

 このうち大日?尊とは、ナント太陽神天照大神(アマテラスオオ
カミ)のことだそうです。この天照大神を開聞岳にまつったのは瓊
瓊杵尊(ニニギノミコト)。

 『古事記』や『日本書紀』の天孫降臨の話です。ぞろぞろと神々
大勢ひきつれて、高天原から高千穂に天下ったニニギノミコトは、
笠沙崎(かささのみさき)(旧川辺郡笠沙町)に来て、笠沙宮を建
てました。

 ある日、開聞岳のふもとに行った時、山を仰いで、「われ今たひ
らに来たりき」と感嘆し、おばあさんの天照大神をまつりました。
そしてまたその時感嘆した言葉から、「ひらきき」が地名になった
という説もあります(『日本書紀』神代下)。

 さらにニニギノミコトは、海岸を歩いてコノハナサクヤヒメに出
会って求婚したのです。いまの川尻温泉のある川尻漁港あたりだそ
うです。これは『古事記』(上つ記)にも、「ここに天津日高日子番
能瓊瓊芸命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)、笠沙(かささ)
の御崎(みさき)に麗しき美人(をとめ)に遇(あ)ひたまひき…」
と出ています。

 そしてふたりの神の間に火照命(ホデリノミコト)、火須勢理命
(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト)の3神が生ま
れたとしています。

 枚聞神社(ひらききじんじゃ=開聞神・開聞宮・開聞神社)の祭
神は、昔から分かりにくいと先にも書きました。大日?貴命(オオ
ヒルメムチノミコト)を中心に、天之忍穂耳命(アメノオシホミミ
ノミコト)、天穂日命(アメノホヒノミコト)、その他なんだらかん
だらのほか、国常立命・猿田彦など数多くの祭神をあげています。
私が参考文献としているなかでさえ、こんがらがって書いているほ
どです。

 一方、室町時代の一宮の一覧を記した『大日本国一宮記』という
本には、和多津美(わたつみ)神社、枚聞(ひらきき)神社と号す、
とあり、塩土老翁(シオツチノオキナ)と猿田彦(ニニギノミコト
を先導した神)が祭神だとしています。塩土老翁は、開聞岳山ろく、
登山口休憩所近くにある「天ノ岩屋」にいたとする神仙です。

 こんな話も残っています。江戸中期の『薩州穎娃開聞山古事縁起』
(快宝法印作)によれば、飛鳥時代の大化5年(648)、「天ノ岩屋」
で塩土老翁が修行をしていると、雌鹿が来て法水を飲んでしまいま
した。すると鹿はたちまち妊娠し、翌春、口から美しい女の子を産
んだというのです。塩土老翁は、その子を瑞照姫(みずてるひめ)
と名づけ大事に育てました。

 姫が2歳になり読み書きを覚え、詩歌も暗唱するという才女ぶり。
その上美女とくるから、うわさは太宰府から都の朝廷に伝えられま
した。そして上京、藤原鎌足に預けられたのでした。やがて姫は、
ますますの才媛美女に成長、13歳になると、大宮姫(おおみやの
ひめ)と名づけられ、宮中に上がり、とうとう天智(てんじ)天皇
の妃になりました。

 ところがある日、宮中の雪合戦の時、足袋がぬげ、姫の足の爪が
鹿の爪であることが分かり、天智天皇の皇子、大友皇子(みこ)は
じめ、宮中の官女たちにねたまれ、大宮姫は故郷の開聞岳の流され
てしまいました。早速山ろくに仮御殿がつくられました。白鳳2年
(673)になり、天智天皇が皇后の大宮姫を恋しがり、開聞岳の山
ろくまでやってきました。

 そしてふたりはこの離宮で、幸せに暮らしましたが、天智天皇は
慶雲(きょううん)3年(706、飛鳥時代)、79歳で死亡。皇后も
翌年、慶雲4年(707・同飛鳥時代)59歳で亡くなったということ
です。この大宮姫をまつったのが、枚聞神社のはじまりだというこ
とです。

 ところで開聞岳には、筑紫富士・薩摩富士・小富士・海門山・
海門岳・蓮花山・長主山(ながぬしやま)・枚聞岳(ひらきき)・
枚聞山(ひらきき)・金畳山(きんじょうざん)・空穂島(うつほ)
・鴨着島(かもつく)・筑紫小芙蓉(つくししょうふよう)・連花
山・補陀峰(ふだ)・海門(かいもん)岳・薩摩富士・筑紫富士な
ど、うんざりするほど異名があります。

 その名前の由来を説明した本があります。江戸時代の鹿児島県
の地誌『三国名勝図会』(巻之二十三)やそのほかに、(1)長主
山とは:神代に、ここは吾田(あた)の長屋の国主であるコトカ
ツクニカツナガサ(事勝国勝長狭)の領内であり、開聞岳は領内一
の絶景ということから、国主の名前をとり、ナガサ(長狭)が主宰
の山、つまり長狭の「長」、主宰の「主」で、「長主山」にしたとい
う(これってホントかいな)。

 また、(2)鴨着島とは:やはり神代のころ、ヒコホホデノミコ
ト(彦火火出見尊)と木花咲耶姫の第3子で、火遠理命(ホオリ
=山幸彦)が、シオツチノオキナ(塩土老翁)につくってもらっ
た篭舟に乗って、なくした釣り針を探しているうちに着いた竜宮
が、ここだったという話(有名な海幸彦と山幸彦)からつけらた
ということです。昔は国を島といったのだそうです。

 (3)金畳山(きんじょうさん):開聞岳の美しさを詠んだ僧巣
松の漢詩、「神仙削出玉芙蓉、重畳黄金猶幾重……」とあり、この
山は金山だったと昔の人はいっていたという。(4)空穂島(うつ
ほじま):貞観(じょうがん)、仁和(にんな)(ともに平安時代)
の大噴火で、山のなかは空になったのではないかというところか
らつけられたということです。

 (5)海門岳:この山は鹿児島湾(錦江湾)の入り口にあり、
形がよく遠くからもよく目立ち、航海の目印に便利なところからき
ているといいます。

 開聞岳は修験の山でもあります。中世から近世にかけて、北麓
の天ノ岩屋は、修験道の修行道場の中心でした。薩摩・大隅(おお
すみ)を支配していた島津氏は、修験山伏の組織を情報収集に利用
していたと聞きます(『鹿児島県の歴史』)。開聞山ろくの修験道場
は、諜報(スパイ)関係の養成所だったのか?。

 この山にも天狗ばなしがあります。大天狗の名前は、開聞岳(海
門岳)武山魔神(たけやままじん)といいます。天狗と一口にいい
ますが、上は大天狗、中天狗、小天狗に分かれ、小天狗でもカラス
天狗・木の葉天狗・白狼(はくろう)天狗、なかには修行が未熟で
溝を飛び越すにもやっとという「溝越天狗」などというものもいま
す。上位の大天狗のなかでも、○山○○坊などと、名前のある天狗
は大した天狗です。武山魔神天狗は、開聞岳一帯を支配する魔神だ
というのです。

 以下は、地元の村人の間で言いつたえられてきた話です。江戸時
代末期のこと、鹿児島のなんという人が、竹之島に近いところの児
ヶ水に湯治にきていました。朝早く、海岸をウミガメの卵などを探
しながら散歩していると、知らず知らずのうちに、岩窟の下まで来
てしまいました。

 するとどこからともなく、法螺貝(ほらがい)の音が聞こえてき
てしつこく耳元で鳴ります。どこまで行っても一向に音は消えず、
宿まで逃げ帰ってきましたが、とうとう気を失ってしまいました。

 まだまだあります。安永元年(1772)ころ、丸山新左衛門と紋兵
衛という地元の侍が、山川の町でイッパイやってご機嫌になり、鼻
歌を歌いながら竹山の下の村を通りがかりました。そこへ突然、身
の丈2丈(6.06m)以上もある魔神が立ちふさがったのです。丸太
のように太い腕、夜叉のような恐ろしい顔をして、提灯を突きつけ
てきます。

 その恐ろしさにふたりは、イッパイ機嫌はどこへやら、家に逃げ
帰りました。それからというもの、子孫代々にまで絶対に竹山の下
を通るべからずといさめたという。その時、魔神の提灯には、木瓜
(もっこう)の紋があったということです。

 このような話は、うわさだけでなく、記録にも残されています。
ここに江戸時代後期の『薩藩神変奇録』(田原篤実著)という本が
あります。その薩摩国頴娃郡(えいちょう)山川郷の項に、「…海
辺に竹の山といふ山あり。此山は往古より俗に天狗の御在所と云ひ
傳ふる所なり」として、数々の不思議な話を載せています。

 この竹山が武山と書かれ、武山魔神という天狗の住みからしい。
だいたいこの天狗は、自分の領域内に無断で立ち入られたり、騒い
だりされるのが大嫌いだったようです。

江戸時代後期の文化8年(1811)12月2日の夜のことあるから具
体的です。地元薩摩藩島津家の御用船の神明丸(船頭・西田駒助)
は、暴風のため、鹿児島湾の入り口に当たる山川港に逃げ込もうと
しましたが、あわてて、近くの竹山下の浜辺に流れ着きました。

 すると、天狗がすむという竹山の方角から、大きな火の玉が飛ん
できたかと思うと、船の帆柱に舞い上がりました。見上げると帆柱
のてっぺんに、提灯(ちょうちん)のようなものをさげた大男が、
大あぐらをかいてすわっています。なぜか提灯にこだわっています。
乗組員たちは船底で小さくなって震えています。

 船底へ逃げ遅れた船乗りたちがウロウロしていると、豆粒のよう
なものがほおに当たったとたん、皆気絶してしまいました。そして
気がつくと帆柱がへし折られていました。これには、さすがの海の
荒くれ男たちも胆をつぶし、おののいたと書かれています。

 また同夜、4,5人の釣り人が小舟で沖にこぎだしたことも書か
れています。夜が更け、雷雨が激しくなったので、岸へ戻ろうとす
ると、かの竹山のあたりにあらわれた光りものが、みるみる大きく
なり、東南東方向の鳶の口方向へ飛び去りました。その夜は一晩中、
竹山の頂上に怪火が燃え、雷鳴が鳴っていたといいます。

 この騒動を船頭が、薩摩藩島津家の藩丁に庁に出した届書が同書
にあります。それには「御船神明丸十六反帆喜界島砂糖為積船当春
被差下上善にて山川より……」からはじまり、事の次第を詳しく述
べて、「……左候て間もなく右通の大変事御座候  文化八年未(ひ
つじ)十二月 御船神明丸船頭 西田駒助 (以下乗組員名等略之、
編者)」と結んでいます。これではそんな話、ウソだろうと一笑に
付すわけにはいかなくなります。

 武山(竹山)は(開聞岳の東方、指宿市山川にある)山というよ
り岬の丘みたいな所。海からの見通しもよい。すぐ隣に、山川・頴
娃(えい)の集落があり、近くにソテツの自生地があり、竹山神社
もあります。

 この神社の縁起にも、「隣に連なっている鳶之口峰との間は天狗
の住みかで、頂上に神灯が見えたり、太鼓・笛・法螺の音が鳴り響
き渡ったり、岩石が大きな音をたてて崩れ落ちたりする様々な霊怪
が伝えられている」とあります。

この岬の丘みたいな竹山(武山)に、よく武山魔神のような大天狗
がすみついたものと、天狗研究者は不思議がっています。このよう
な魔神天狗は、いつ、何の目的があって、どのようにしたすみ着く
のでしょうか。そしてどこからきたのでしょうかネ。


●開聞岳【データ】
★【所在地】
・鹿児島県指宿市(旧揖宿郡開聞町)。指宿枕崎線(いぶすきまく
らざきせん)開聞駅の南3キロ。開聞駅から3時間で開聞岳山頂。
三角点:922.2m。標高点:924mがある。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・開聞岳:北緯31度10分48.47秒、東経130度31分42.06秒

★2万5千分の1地形図:開聞岳


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典46・鹿児島県』(角川書店)1991年(平成
3)
・『古事記』(上つ卷):新潮日本古典集成・27『古事記』校注・西
宮一民(新潮社版)2005年(平成17)
・『薩藩神変奇録・上』田原篤実著(文化10年(1813)ころ):『幽
冥界研究資料 第1巻』友清歓眞編纂(天行居発行)大正2年(1913)
に収蔵
・『薩摩穎娃開聞山古事縁起』(開聞山古事縁起・開聞縁起)(快宝
法印作)延享2年(1745・江戸中期)
・『山岳宗教史研究叢書13』中野幡能編(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書18』五来重編(名著出版)1983年(昭和58)
・『三国名勝図会』(上巻)(天保14(1843)年刊行・鹿児島県の地
誌)五代秀尭, 橋口兼柄 共編(南日本出版文化協会)1966年(昭
和41)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀』720年(養老4):岩波文庫『日本書紀』(一)校注・
坂本太郎ほか)(岩波書店)1995年(平成7)
・『日本歴史地名大系47・鹿児島県』芳即正(平凡社)1998(平成10)

・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21)

 

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