『日本百名山の伝説・神話』

………………………………………………

■017・朝日岳 「姉妹姫と役行者と天狗のすもう」

 山形県と新潟県の境界の一帯を占める朝日連峰。その中心は、主
峰大朝日岳から西朝日岳、竜門山、寒江山(かんこうざん)、以東
岳へとつづく主稜と、枝分かれしたそれぞれの支尾根上に多くの山
々があり、その山域は南北60キロ・東西30キロにおよびます。

 朝日岳にはこんな伝説があります。大昔、お天道さまのこどもに
2人のお姫さまがいました。ある時、父の神はこの2人を朝日岳と
月山の神として、鎮座させることにしました。その話を聞いた姫た
ちは、どちらも月山にいきたいといってゆずりませんでした。困っ
た父のお天道さまは2人に桜の木を1本ずつ与え、「どちらが早く
咲くか、早い方が月山に行くがいい」といいました。日に日に桜の
木は大きくなっていきました。ある日、姉姫の桜のつぼみがふくら
みはじめました。

 それを知った妹の姫は、夜中にこっそり、自分の桜の木と植え替
えてしまいました。やがて桜の花が咲き、妹の姫は「木花開耶姫」
という名をもらい、月山にまつられました。姉の姫は朝日岳にまつ
られることになりましたが、それ以来、姉姫はことごとく盗みをす
る人を嫌い、この山には絶対近づけないということです(『山岳宗
教史研究叢書16』)。


 朝日連峰も昔は信仰の山として栄え、各登山口には坊とか神社が
多くあり、修験道も盛んだったそうです。秋田県側山ろくの部落大
沼にある大行院(いまの浮島稲荷神社・山形県朝日町大字大沼)は、
朝日岳山伏の総元締めだったそうです。朝日修験が次第に盛んにな
り、勢力が強大になっていくにつれ、となりの出羽三山の修験者た
ちはおもしろくありません。ことあるごとに意地悪をし、邪魔だて
します。

 時には、朝日修験のお堂をこわしたり、仏像を朝日川に投げ捨て
るという腹黒さ。そして裏でひそかに暗躍し、ついに執権の最明寺
時頼(北条時頼)の弾圧にまでもっていきます。その後も朝日修験
つぶしはつづき、ついに朝日修験の行者たちをことごとく出羽三山
参詣へと誘導してしまったというこです。室町も末期のことであり
ます。

 話は前後しますが、朝日修験盛んなころ、その総元締めの大行院
には「大沼大行院系図」というものが残されています。それには、
斉明天皇(さいめい)6年(西暦660・飛鳥時代)に、役行者小角
が開基したと系図で記しています。また「大行院法脈書(お血脈書)」
という文書には、役行者が白鳳9年(白鳳とは白雉年間の美称)に、
出羽国(山形・秋田県)に来て大沼の池に大沼大明神をまつったと
あります。しかし白雉は5年までで、9年はなく記述の間違いです。
この手の文にはこのような間違いが多いので注意です。


 また「朝日岩上来由記」という文書には、朝日岩上山(いまの祝
瓶(いわいがめ)山)は、天武天皇(673〜686年)の白鳳年中に、
やはり役ノ優婆塞(うばそく・役行者)が開山したとなっています。
そもそ役行者は、白鳳時代このあたりに来たとき、最も早く朝日が
あたる山を探し「朝日岳」と名づけ、「朝日権現」をまつったとい
います。そしてこの山のまわりを見ると、いまの山形県朝日町大沼
地区にある沼が目に入りました。そしてその水面に浮いている浮島
(国指定の景勝地)に神意があると感じたのです。行者はここに弟
子の覚道をおいて、自身は朝日岳と浮島の間を飛行して通ったとし
ています。

 そこでこの話に信憑性があるかと調べてみました。室町時代以降
にできたとされる『役行者本記』(えんのぎょうじゃほんぎ)とい
う本は、行者が開山した全国の山々を年代別の記載しています。そ
の「第四 小角 経歴の部」の項に、「飛鳥時代の天智天皇九年(670)、
庚午(かのえうま)、小角は37歳。7月大峯を出発して、3日のう
ちに出羽の国の羽黒山に着いた。…

 …それから、出羽の国の月山・湯殿山・金峯・鳥海山、奥州の秀
峯(このなかに朝日岳があるか?)などを巡って、22日の後に大
和に帰ってきた。およそ里数にして三千百里…」という文がありま
す。上記『大沼大行院系図』の斉明天皇6年(660)や、『朝日岩上
来由記』の天武天皇(673〜686年)とは少し違っていますが、も
との参考書自体に誤記があって、年数がずれており、そんなところ
を考慮すると大体合っています。


 ところで浮島が浮かんでいるこの池には、ヌシとしてお姫さま(正
体は白い大蛇)がすんでいるというのです。このお姫さまはけがれ
を嫌い、掃除しているのでいつも沼のまわりはきれいなのだそうで
す。しかし、このお姫さまを見たものはすぐ死ぬといい、早朝は、
沼へ行かぬようにといういましめがあるそうです。ここに建つ大行
院(いまは浮島稲荷宮)は、干ばつには雨乞いの場所になっていま
した。かつては銅でつくった「の」の字型の輪にした竜をつくって
沼に沈めて祈願したそうです。

 こんな修験が盛んだった朝日連峰も、鎌倉幕府に弾圧されてから
は急激に消滅。この山地で、神社や祠などの信仰のあとはほとんど
なくなっています。いまその後をうかがわせるものは、鳥原山の朝
日神社と、1955年(昭和30)に大朝日小屋に分祀されたものと、
連峰の一番南にある祝瓶山(いわいがめやま)の祈祷壇の跡だけに
なっています。


 それはともかく、この山域には天狗が相撲をとる山があります。
北寒江山(かんこうざん)北の三方境から派生する尾根を二ツ石山
経由で、北東に行くと天狗角力取山(てんぐすもうとりやま)とい
うのがあります。ここには土俵のようなところがあり、地元のいい
つたえでは、正月の10日未明に、置賜地方(おきたまちほう)と
庄内、村山地方の天狗たちが相撲をとるためここに集まるといいま
す。

 そして、またはるばる京都の鞍馬山から行司をつとめる天狗がや
って来るというのです。そして相撲が終わったら餅をついて食べる
ため、村人は間違っても正月の10日はこの山に登らないよう固く
戒めているということです。

さらに、天狗角力取山の手前にある「二ツ石山」という山は、昔、
ここは朝日権現の天狗と、月山権現の天狗が法力くらべをした所だ
そうです。秘術をつくし、ありとあらゆる技でわたりあいましたが、
勝負がつきません。ついに両方とも精根が尽き、それぞれに石にな
ってしまいました。それがここにある二ツ石で、本当は「天狗石」
というべきなのだそうです。


 ある年の7月末、山形県朝日鉱泉への林道手前の白滝から鳥原山
へ登りはじめました。ことしの暑さは特別で、鳥原山までの樹林帯
の中のつづら折りの登山道。流れる汗は一通りではありません。や
がて朝日鉱泉、朝日岳神社からの道に合わさります。鳥原山を過ぎ
ると、日光をさえぎるものもなく、あまりの暑さにへばり気味。同
行者が途中で寝ころぶ始末。

 仕方なく大朝日岳手前の小朝日岳にテントを張りました。夕方、
赤トンボの群れがやけになれなれしく頭や手に止まります。前方に
大朝日岳がそびえています。翌日、銀玉水で水筒を満タンにし大朝
日小屋へ。さすがお花畑が広がる金玉水の水源あたり。花々をめぐ
る昆虫が多く、小屋の入り口の戸は虫で真っ黒になっていました。



▼大朝日岳【データ】
【所在地】
・山形県西村山郡朝日町・同県西村山郡西川町と同県西置賜郡小国
町との境。JR左沢線寒河江駅バスターミナルからバス、宮宿待合
所からバス乗り継ぎ、朝日鉱泉下車歩いて5時間で大朝日岳。二等
三角点(1870.3m)がある。

【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステムから検索」
・三角点:北緯38度15分37.85秒、東経139度55分20.3秒

【地図】「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・2万5千分の1地形図「朝日岳(村上)」



▼【参考文献】
・『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年(平成6)
・『朝日岩上来由記』:1『山岳宗教史研究叢書16』に所収。
:2『山岳宗教史研究叢書17』に所収。
・『大沼大行院系図』:『山岳宗教史研究叢書7」に所収。
・『角川日本地名大辞典6・山形県』誉田慶恩ほか編(角川書店)1981
年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書7」(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書17』(修験道史料集1・東日本編)五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『修験の山々」柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「大行院法脈書」(お血脈書)『山岳宗教史研究叢書16』に所収
・『日本山岳風土記5・東北・北越の山々』(宝文館)1960年(昭
和35)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

 

………………………………………………………………………

目次】へ