『伝説と神話の百名山』

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■010岩木山 「相撲の好きな大男」

 岩木山は、青森県弘前市と同県鰺ヶ沢町との境にある山(三角
点は弘前市)。1等三角点名「岩木山」1348.6m。いわきさん(や
ま)ともいい、岩城山、巖城山、巌鬼(がんき)山、赤倉岳、往
来(いゆき)山、磐椅(いわき)山、居住山、奧富士。

 またすそ野がなだらかに広がるその美しい姿から津軽不二(ふ
じ・富士)などとも書かれています。江戸中期初頭に書かれた図
入り百科事典『和漢三才図会』(寺島良安著)にも「ふじみずばふ
じとやいはん陸奥のいはきのそれと詠(なが)めん」と出てきま
す。「岩木」とは、その山の様子から石の城という意味で、岩城(い
わき)の字に「岩木」をあてたものらしい。

 ♪さいぎさいぎ、どっこいさいぎ、お山さはつだい、金剛どう
さ、一に名のはい、南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)…
…。津軽の人たちが毎年、旧暦8月1日、山頂の岩木神社に集団
登拝のお山かけの際唱えるおまじないです。このお山かけは「つ
いたち山」といい、五穀豊穣、家内安全を祈願してカンナガラと
いい、5mもの大きな御幣をかざして登拝する集団。登らない人
は一人前ではないという。


 岩木山の神は「安寿と厨子王」の安寿姫だそうです。この伝説
から安寿姫を責め殺した山椒大夫の国(丹後)の人が岩木山の支
配地に入っても神が怒るのだという。これを「丹後日和」という
のだそうです(これについては後述します)。山頂は3つに分かれ、
北の峰は巌鬼山(がんきさん)(1485m)といい、外輪山になって
います。

 真ん中の峰は一等三角点のある岩木山(1625m)で新しくでき
た中央火口丘だという。さらに南には鳥海山(1502m・※山形県
の鳥海山とは別)がそびえています。

 「岩木山」の文字が文献に登場するのは江戸時代のはじめから
のようです。この山は相当な「暴れ山」で、江戸時代初期の1597
年(慶長2)、1600年(慶長5)、1856年(安政3)、1863年(文久
3)などと、過去21回もの噴火の歴史があります。しかし四季の
自然に恵まれ、春の残雪、夏の高山植物、秋の紅葉と美しい。196
5年(昭和40)には岩木山八合目駅まで津軽岩木スカイラインが開
通。九合目の鳥ノ海噴火口駅までリフトができてからは、簡単に
登れるようになりいまは観光の山になりました。


 岩木山山頂には岩木山神社(下居宮・おりのみや)の奥宮本宮
がおかれています。もともと岩木山神社は、明治初年神仏分離令
により百沢寺から岩木山神社となったもの。岩木山神社の拝殿は
3代藩主信義が寛永17年に建立した大堂だといいます。また本殿
は下居宮(おりいのみや)のものであり、岩木山神社社務所は百
沢寺の本坊だったそうです(『日本歴史地名大系2・青森県の地
名』)。

 先述の通り岩木山の3つの峰があります。北の峰巌鬼山(がん
きさん)は、いま南部にある岩鬼山観音院西方寺の奥ノ院。中央
の岩木山は、いま弘前市にある岩木山光明院百沢寺(ひゃくたく
じ)の奥ノ院。南の鳥海山は、鳥海山景光院永平寺の奥ノ院だっ
たところで永平寺はいまは廃寺になっています。

 このうち岩鬼山西方寺と岩木山百沢寺は、もと岩木山北麓の十
腰内村(とこしないむら)(いまの弘前市十腰内)にあったそうで
す。ここ十腰内地区はかつては岩木山の登拝口だったのだそうで
す。


 神社の伝承にはつじつまの合わないことが多いですが、いま岩
木山といえば岩木山神社とされるこの神社のいい伝えです。奈良
時代の782(延暦5)年、坂上田村麻呂が開基となり岩木山北麓(十
腰内村)に下居宮(おりのみや)と、山頂に奥宮本宮を建て、鎮
守府将軍であった父の坂上苅田村麻呂(さかのうえのかりたむら
まろ)を合祀。

 のちに下居宮は平安時代の寛治5年(1091)に南麓に移り百沢
寺と称したというのです。しかし、これでは百沢寺は下居宮と同
じになってしまいます。百沢寺は下居宮(岩木山神社)の別当寺
(神社の経営管理を行った寺)だったのであり、下居宮と同一で
はありません。

 別の伝承もあるそうです。同じ782(延暦5)年、坂上田村麻呂
が開基となり、僧施暁(せぎょう)法師が開山として、岩木山北
麓の十腰内(とこしない)も地に寺院を建立。その後寛治5年(1
091)、南麓に移ったというもの。この時、100の沢を越したので百
沢寺(ひゃくたくじ)と寺名を改めたという。


 そもそも岩木山に対する信仰は、津軽に人が住みつくとともに
生じたものだという。そんな山を神体とする自然崇拝に、天台密
教や熊野信仰などの要素が加わって、やがて神仏混淆(こんこう)
の岩木山三所権現となり、人々の信仰を集めるようになったもの
だということです。

 百沢寺は、江戸時代には下居宮(岩木山神社)の別当寺で岩木
山信仰の中心であり、岩木山一帯を支配していたわけです。しか
し、そんな百沢寺も1868年(慶応4)に発令された神仏分離令(神
仏判然令)と、それに伴って全国に吹き荒れた廃仏棄釈(はいぶ
つきしゃく)の嵐の中で、明治4(1871)年に廃寺、岩木山神社
と変えられてしまいました。

 下居宮(おりいのみや)もまた、岩木山神社と改められ、霊地
すべては岩木山神社の境内地になってしまったのです。仏像、仏
具、経巻類なども「どさくさ騒ぎ」の中で失われたのです。いま
の岩木山神社は実は昔は百沢寺だったのです。明治政府の愚かな
宗教政策に憤りを覚える人は多くいます。


 さて、この山頂の岩木山神社(もと下居宮・おりいのみや)の
奥宮本宮の創立についてはいろいろな伝説があります。そもそも
神代のはじめ国常立(くにとこたち)の命が、芦原の雑草を切り
開いて1500ヶ所の土地を造成、津軽もそのひとつとしてできたと
いう。

 その後、大元命という神がここに入り、国になるべき所を定め、
日隅の宮と呼んだという。その長男洲東王(しまつかみ)がこの
地を「東日流(つがる)」と名づけたという。その後、この神の子
孫が引き継いでいましたが、日本武尊が侵攻、ついに降伏し改め
ていまの津軽と秋田の国王になったということです。

 昔は神さま同士が争っていたのですね。国つ神と天つ神との争
いでしょうか。そんなある時、竜飛(たっぴ)岬の沖から竜女が
あらわれ、大きな玉(田光の珠・国安の珠)を洲東王(しまつか
み)に献じて妃になったといいます。竜女は、のちに岩木山に登
り神となったとするのは江戸中期の『東日流(つがる)開滄物語』
です。


 一方『岩木山縁起』(江戸後期)によると、大昔、大己貴命(お
おなむちのみこと・大国主とも大元命ともいう)がこの国に降臨
し、津軽はよく土地が肥えていて多くの子供(180人もの子供がい
たという)を遊ばせるによいというわけで、阿曽部(あそべ)と
いう地名ができたという。

 ある時、土地の女神の竜女が、田光(たっぴ)沼から「国安の
珠」を取りだして大己貴命に献上しました。命は喜んで竜女を国
安珠姫と名づけ、ふたりは夫婦になって国を治めました。ある時、
大津波が押し寄せたことがありました。しかし阿曽部の森だけが
残ったのでした。

 そこで772年(宝亀3年・奈良時代)、磐椅宮を建てて中央に国
常立命(くにとこたちのみこと)、北峰に大元命、南峰に国安珠姫
をまつりました。そのほか、小栗山(弘前市)の3姉妹の末の娘
が岩木山の神となったとか、山椒大夫の奴婢であった安寿が岩木
山に登って神となったなどの伝説もあります。


 先の伝説に出てくる「国安の珠」が一時、丹後由良(京都府宮
津市由良)の港の海賊に盗まれました。しかし花和可麿という者
が、女装して丹後由良へ赴き、珠を取り返してきました。このた
め、丹後の国の人が登山すれば山が荒れるのだそうです。これを
「丹後日和」というのだそうです。

 この伝説ついて、さきの『和漢三才図会』の岩城山権現の項に
「当国の領主岩城判官正氏は、永保元年の冬、京にあって讒言(告
げ口)にあい西国に流された。本国に二子あり、姉を安寿、弟を
津志王丸という。…

 …母とともに落ちのびて、越後の直江浦にいたり、山角太夫に
勾引(こういん)されて丹後由良の山椒太夫の奴婢(ぬひ)とな
る。姉は弟を逃げ去らせる。姉は拷問されても行方をあかさずつ
いに責め殺される。津志王は上洛し、帝の助けを得て世に出る。
安寿は岩木山の神にまつられた」とあります。


 こんなことから、安寿姫を責め殺した山椒大夫の国の丹後の人
が岩木山の支配地に入ると神が怒り天気が荒れるのだという。そ
れを「丹後日和」というのだとか。実際、『藩日記』という文書の
天明4年(1784)9月12日の条にもこんなことが出ています。

 「このごろ悪天候続きだが、丹後者が入国していないか、それ
らしい者は追い返すように、また諸勧進の者、芝居役者も十分吟
味し、家中のもの寺社在町もれなく調べるよう、また船乗りなど
についても調べよ」とあるそうです。

 この山は伝説の山でもあります。青森市の東に、東岳(あずま
だけ)という山頂の首のないような山があります。また、弘前市
の西には岩木山があり、ふたつの山の中間に八甲田山が控えてい
ます。しかし困ったことに、昔から東岳と八甲田山が仲がよくな
いのです。


 ある時、なにがあったのか八甲田山が怒り出し、刀で東岳の首
をはねるという事件がありました。首は血潮をふきながら西の方
に飛んでいき、岩木山の肩のあたりに落ちました。そしてそのま
ま、岩木山にひっついてしまったのです。いま岩木山の肩にコブ
があるのは、その時の東岳の首なのだそうです。そしてこのあた
りの土が肥えていて、作物がよく実るのは首が飛んだ時、したた
った血潮のおかげだということです(『日本伝説集』)。

 また岩木山は、はじめあそべの森という小さい森だったという
話しもあります。ここには鬼が住んでいたといいます。そのうわ
さが京にも聞こえ、熊野住吉天王寺で占い、そのおつげの結果、
篠原の国司花の長者の子で、花若麿という人が上下6人で津軽の
深浦に下りました。

そして奥州勢を集めて、万字(卍)・錫杖を旗印として鬼神を退治
しました。それからふもとに下ると100歳にもなる老婆が、1人の
娘を連れて現れ、これからは決して人間に悪さをしません、つい
ては娘だけは助けてほしいと懇願しました。そこで約束の誓約書
を書かせて山中の赤倉に住まわせることにしたということです。
老婆の入ったところを「ウバ林」といっています(『津軽旧事談』)。


 またこんな伝説もあります。丹後の国から逃れてきた安寿姫と
津志王の姉弟がいました。ふたりは、どちらが早く岩木山頂につ
くか競争、早くついた方が、その山の神になると約束したのです。
南津軽郡柏木町(いまは平川市)大坊(だいぼう)地区の熊野神
社という神社まで来ると、境内でおもしろい獅子舞が行われてい
ました。

ふたりはそれに見とれているうち、弟の津志王が旅の疲れでうた
た寝をしてしまいました。姉の安寿はその間に岩木山に登り、岩
木山の神にまつられました。これからというもの大坊村の人たち
は、姉の安寿が気に入らないのか、岩木山には参詣しないという
(大坊の「熊野神社縁起」)。

 さらに、弘前市の鬼沢村というところに、鬼神社というやしろ
があります。大昔、この村の百姓の弥十郎という男が薪を採りに
岩木山ろくに入りました。すると、突然、見上げるばかりの大男
に出会いました。薪などいくらでも採ってやるから、おれと相撲
をとれといいます。弥十郎は仕方なく相撲をとり、山から家に帰
えりました。


 するとその夜、大男が薪を山のように家の裏に積んでくれてあ
りました。弥十郎と親しくなった大男は、村の開墾も手伝ってく
れるのでした。水不足で困っているむらの田畑を一夜のうちにあ
ふれるばかりの水でうるおしてくれました。水源をたどっていく
と岩木山の山中、赤倉の谷底から、水が汲み上がって激流をなし
ているのでした。村人はいまも「逆さ水」と呼んで感謝している
そうです。

 ある日、弥十郎の行動を怪しんだ女房がこっそり弥十郎のあと
をつけ、弥十郎の様子を見ようと赤倉堰に隠れました。大男はこ
れに気づき、「自分の姿まで見られるのは困る。もうこれからは来
ないことにする」と告げると、そのまま山に入ってしまいました。
弥十郎もまた後に山に入り、大男になったそうです(『山岳宗教史
研究叢書16』)。

 岩木山にも雪形が出ます。旧暦の3月中旬ころ、岩木山中腹の
お蔵石の下に、残雪が鋤(すき)の形に見えはじめると、田打ち
の時だといいます。また苗取り爺の雪形が左向きの人の形に見え
ると、苗取り時になったという。また、大石の方に苗を背負うモ
ッコの形が見えると、田のアラクリ(荒代かき)にとりかかる。
モッコの下の雪が消えて黒く見え、苗が入ったようになると田植
に取りかかる目安になったといいます(同『山岳宗教史研究叢書
16』)。


 岩木山は、高山植物も多く、ここの特産種として知られるサク
ラソウ科のミチノクコザクラがあります。この植物はフランス人
の植物学者フォーリー神父が当山で採集し、明治19(1886)年に
フランスの植物学者フランシェによって記載された植物で、明治3
5(1902)年に牧野富太郎博士が命名しました。

 エゾコザクラの変種とされましたが、学者によってはハクサン
コザクラの変種または亜種とする人もいるそうです。そのほか、
ミヤマハンノキとヒメヤシャブシの雑種のイワキハンノキも発見
されています。登山コースは赤倉コース、弥生コース、百沢コー
ス、岳コース、津軽岩木スカイライン、長平コースがあります。


▼岩木山【データ】

★【所在地】
・青森県弘前市(三角点)、同県鰺ヶ沢町との境。奥羽本線弘前駅
の北西15キロ。JR奥羽本線弘前駅からバス−スカイラインシャ
トルバス−八合目駐車場前−リフト、さらに歩いて40分で岩木山。
1等三角点(1624.6m)と、岩木山神社と鳳鳴ヒュッテがある。

★【名山】
・「日本百名山」(深田久弥選定):第10番選定(日本200名山、日
本300名山にも含まれる)
・「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第10番選定

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・岩木山(1等三角点1624.6m):北緯40度39分21.31秒、東経 140
度18分11.09秒

★【地図】
・2万5千分1地形図名:岩木山(いわきさん)


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典2』竹内理三偏(角川書店)1991年(平成
3)
・『山岳宗教史研究叢書7・東北霊山と修験道』月光善弘(がっこ
うよしひろ)編 (名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝説集』高木敏雄(ちくま学芸文庫・筑摩書房)2010年(平
成22)
・『日本伝説大系・1』(北海道・北奥羽)宮田登ほか(みずうみ書
房)1985年(昭和60)
・『日本の民俗2・青森』盛山泰太郎(第一法規)1976年(昭和51)
・『日本歴史地名大系2・青森県の地名』虎尾俊哉ほか(平凡社)
1982年(昭和57)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)
・『和漢三才図会9』第65巻(東洋文庫481)島田勇雄ほか訳(平
凡社)1988年(昭和63)

 

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