山の伝承【山岳はがき画】(01)
とよだ 時(2015年とよた 時から改名しました)
山岳漫画・農山村の風物画文 (主に画文著作で活動)

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▼さいぎさいぎ・青森県岩木山

【序文】140字
♪さいぎさいぎ、どっこいさいぎ、お山さはつだい、金剛どうさ、
一に名のはい、南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)……。津
軽の人たちが毎年、旧暦8月1日、山頂の岩木神社に集団登拝のお
山かけの際唱えるおまじないです。このお山かけは「ついたち山」
といい、登らない人は一人前ではないという。岩木山の神は「安寿
と厨子王」の安寿姫。安寿姫を責め殺した山椒大夫の国、丹後(京
都)の人が登ると山が荒れるという。
・青森県弘前市と同県鰺ヶ沢町の境。

郵便はがき画

山のはがき画の会

▼さいぎさいぎ・青森県岩木山

【本文】

♪さいぎさいぎ、どっこいさいぎ、お山さはつだい、金剛どうさ、

一に名のはい、南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)……。津

軽の人たちが毎年、旧暦8月1日、山頂の岩木神社に集団登拝のお

山かけの際唱えるおまじないです。このお山かけは「ついたち山」

といい、五穀豊穣、家内安全を祈願してカンナガラといい、5mも

の大きな御幣をかざして登拝する集団。登らない人は一人前ではな

いという。



岩木山は青森県弘前市と同県鰺ヶ沢町との境にある山(三角点は弘

前市)。1等三角点名「岩木山」1348.6m。すそ野がなだらかに広が

るその美しい姿は津軽富士とも呼ばれます。『和漢三才図会』第65

巻(江戸中期初頭・寺島良安著)にも「ふじみずばふじとやいはん

陸奥のいはきのそれと詠(なが)めん」と出てきます。



山頂は3つに分かれ、北の峰は巌鬼山(がんきさん)(1485m)と

いい、外輪山になっています。真ん中の峰は一等三角点のある岩木

山(1625m)で新しくできた中央火口丘だという。さらに南にある

のが鳥海山(1502m)です。岩木山は「いわきさん」、「いわきやま」

ともいい、岩城山、巖城山、巌鬼山(がんきさん)、赤倉岳(あか

くらだけ)、往来(いゆき)山、磐椅(いわき)山、また居住山、

奧富士とか津軽不二(ふじ)などとも書かれています。



「岩木」とは、その山の様子から「石の城」という意味で、「岩城

(いわき)山」の字に「岩木」をあてたものらしい。またアイヌ語

の「イワーケ」(岩の多い所)説や、「カムイ」(神のすむところ)

が「カムイ・イワキ」と呼ばれ、次第に「イワキ」になったとする

説などがあります。



「岩木山」の文字が文献に登場するのは江戸時代のはじめからだそ

うな。この山は、江戸時代初期の1597年(慶長2)、1600年(慶長

5)、1856年(安政3)、1863年(文久3)など、過去21回の噴火の

歴史があるというから相当な暴れ山です。



岩木山は春の残雪、夏は花咲高山植物、また秋の紅葉と四季折々の

景色が美しい山。1965年(昭和40)には八合目まで岩木スカイライ

ンが開通。鳥海山噴火口(鳥ノ海)までリフトができてからは老若

男女簡単に登れ、すっかり観光の山になりました。



岩木山山頂には岩木山神社(下居宮・おりのみや)の奥宮本宮がお

かれています。もともと岩木山神社は、明治初年神仏分離令により

百沢寺から岩木山神社となったもの。岩木山神社の拝殿は3代藩主

信義が寛永17年に建立した大堂だという。また本殿は下居宮(おり

いのみや)のものであり、岩木山神社社務所は百沢寺の本坊だった

そうです(『日本歴史地名大系2・青森県の地名』)。



先述の通り岩木山の3つの峰があります。北の峰巌鬼山(がんきさ

ん)は、いま南部にある岩鬼山観音院西方寺の奥ノ院。中央の岩木

山は、いま弘前市にある岩木山光明院百沢寺(ひゃくたくじ)の奥

ノ院。南の鳥海山は、鳥海山景光院永平寺の奥ノ院だったところで

永平寺はいまは廃寺になっています。このうち岩鬼山西方寺と岩木

山百沢寺は、もと岩木山北麓の十腰内村(とこしないむら)(いま

の弘前市十腰内)にあったそうです。ここ十腰内地区はかつては岩

木山の登拝口だったのだそうです。



神社の伝承にはつじつまの合わないことが多いですが、いま岩木山

といえば岩木山神社とされるこの神社のいい伝えです。奈良時代の

782(延暦5)年、坂上田村麻呂が開基となり岩木山北麓(十腰内

村)に下居宮(おりのみや)と、山頂に奥宮本宮を建て、鎮守府将

軍であった父の坂上苅田村麻呂(さかのうえのかりたむらまろ)を

合祀。のちに下居宮は平安時代の寛治5年(1091)に南麓に移り百

沢寺と称したというのです。



しかし、これでは百沢寺は下居宮と同じになってしまいます。百沢

寺は下居宮(岩木山神社)の別当寺(神社の経営管理を行った寺)

だったのであり、下居宮と同一ではありません。別の伝承もあるそ

うです。同じ782(延暦5)年、坂上田村麻呂が開基となり、僧施

暁(せぎょう)が開山として岩木山北麓の十腰内に寺院を建立。そ

の後寛治5年(1091)、南麓に移ったという。この時、100の沢を越

したので百沢寺(ひゃくたくじ)と寺名を改めたというもの。



そもそも岩木山に対する信仰は、津軽に人が住みつくとともに生じ

たものだという。そんな山を神体とする自然崇拝に、天台密教や熊

野信仰などの要素が加わって、やがて神仏混淆の岩木山三所権現と

なり、人々の信仰を集めるようになったものだという。



百沢寺は、江戸時代には下居宮(岩木山神社)の別当寺で岩木山信

仰の中心であり岩木山一帯を支配していたわけです。しかしそんな

百沢寺も1868年(慶応4)に発令された神仏分離令(神仏判然令)

と、それに伴い全国に吹き荒れた廃仏棄釈の嵐の中で、明治4(18

71)年に廃寺、岩木山神社となってしまいました。



下居宮(おりいのみや)は、岩木山神社と改められ、霊地すべては

岩木山神社の境内地になってしまったのです。仏像、仏具、経巻類

なども「どさくさ騒ぎ」の中で失われたのです。いまの岩木山神社

は実は昔は百沢寺だったのです。明治政府の愚かな宗教政策に憤り

を覚える人は多くいます。



さて、この山頂の岩木山神社(下居宮・おりいのみや)の奥宮本宮

の創立についてはいろいろな伝説があります。そもそも神代のはじ

め国常立(くにとこたち)の命が、芦原の雑草を切り開いて1500ヶ

所の土地を造成、津軽もそのひとつとしてできたという。その後、

大元命という神がここに入り、国になるべき所を定め、日隅の宮と

呼んだという。



その長男洲東王(しまつかみ)がこの地を「東日流(つがる)」と

名づけたという。その後、この神の子孫が引き継いでいましたが、

日本武尊が侵攻、ついに降伏し改めていまの津軽と秋田の国王にな

ったという。昔は神同士が争っていたのですね。国つ神と天つ神と

の争いでしょうか。



そんなある時、竜飛(たっぴ)岬の沖から竜女があらわれ、大きな

玉(田光の珠・国安の珠)を洲東王(しまつかみ)に献じて妃にな

ったという。竜女は、のちに岩木山に登り神となったとするのは江

戸中期の『東日流(つがる)開滄物語』です。



一方『岩木山縁起』(江戸後期)によると、大昔、大己貴命(おお

なむちのみこと・大国主とも大元命ともいう)がこの国に降臨し、

津軽はよく土地が肥えていて多くの子供(180人もの子供がいたと

いう)を遊ばせるによいというわけで、阿曽部(あそべ)という地

名ができたという。



ある時土地の女神の竜女が、田光(たっぴ)沼から「国安の珠」を

取りだして大己貴命に献上しました。命は喜んで竜女を国安珠姫と

名づけ、ふたりは夫婦になって国を治めました。ある時、大津波が

押し寄せたことがありました。しかし阿曽部の森だけが残ったので

した。



そこで772年(宝亀3年・奈良時代)、磐椅宮を建てて中央に国常立

命(くにとこたちのみこと)、北峰に大元命、南峰に国安珠姫をま

つりました。そのほか、小栗山(弘前市)の3姉妹の末の娘が岩木

山の神となったとか、山椒大夫の奴婢であった安寿が岩木山に登っ

て神となったなどの伝説もあります。



先の伝説に出てくる「国安の珠」が一時、丹後由良(京都府宮津市

由良)の港の海賊に盗まれました。しかし花和可麿という者が、女

装して丹後由良へ赴き、珠を取り返してきました。このため、丹後

の国の人が登山すれば山が荒れるのだそうです。これを「丹後日和」

というのだそうです。



この伝説ついて、さきの『和漢三才図会』の岩城山権現の項に「当

国の領主岩城判官正氏は、永保元年の冬、京にあって讒言にあい西

国に流された。本国に二子あり、姉を安寿、弟を津志王丸という。

母とともに落ちのびて、越後の直江浦にいたり、山角太夫に勾引(こ

ういん)されて丹後由良の山椒太夫の奴婢(ぬひ)となる。姉は弟

を逃げ去らせる。姉は拷問されても行方をあかさずついに責め殺さ

れる。津志王は上洛し、帝の助けを得て世に出る。安寿は岩木山の

神にまつられた」とあります。



こんなことから、安寿姫を責め殺した山椒大夫の国の丹後の人が岩

木山の支配地に入ると神が怒り天気が荒れるのだという。それを「丹

後日和」というのだとか。実際、『藩日記』という文書の天明4年

(1784)9月12日の条にも、「このごろ悪天候続きだが、丹後者が

入国していないか、それらしい者は追い返すように、また諸勧進の

者、芝居役者も十分吟味し、家中のもの寺社在町もれなく調べるよ

う、また船乗りなどについても調べよ」とあるそうです。



この山は伝説の山でもあります。ある時、青森市の東の東岳(あず

まだけ)と、八甲田山との間に争いがはじまりました。、八甲田山

が刀で東岳の首をはねました。東岳の首は西の方に飛んでいき、岩

木山の肩のあたりに落ち、そのまま岩木山にくっついてしまいまし

た。いま岩木山の肩にコブがあるのはその時の東岳の首なのだそう

です。そしてこのあたりがよく肥えて作物が実るのは首が飛んだ時、

したたった血のおかげだということです(『日本伝説集』高木敏雄

(武蔵野書院)大正13(1924)年)。



また岩木山ははじめあそべの森という小さい森だったそうです。こ

こには鬼が住んでいたという。それが都に聞こえ、篠原の国司花の

長者の子で花若麿という人が熊野、住吉、天王寺のおつげにより、

上下6人で津軽の深浦に下りました。そして奥州勢を集めて、万字

(卍)・錫杖を旗印として鬼神を退治しました。



ふもとに下ると100歳にもなる老婆が、1人の娘を連れて現れ、こ

れからは決して人間に悪さをしません、ついては娘だけは助けてほ

しいと懇願しました。そこで約束の誓約書を書かせて山中の赤倉に

住まわせることにしたということです。老婆の入ったところを「ウ

バ林」といっています(『津軽旧事談』中道等(郷土研究社)大正1

4(1925)年)。



またこんな伝説もあります。丹後の国を逃れてきた安寿姫と津志王

の姉弟が、どちらが早く岩木山頂につくか、早くついた方が、その

山の神になると約束しました。南津軽郡柏木町(いまは 平川市)

大坊(だいぼう)の熊野神社まで来ると、獅子舞が面白く催されて

いました。ふたりはそれに見とれているうち、弟の津志王が旅の疲

れでうたた寝をしてしまいました。姉の安寿はその間に岩木山に登

り岩木山の神にまつられました。これからというもの大坊の人たち

は岩木山には参詣しないという(大坊の「熊野神社縁起」)。



さらに、弘前市の鬼沢というところに、鬼神社というやしろがあり

ます。大昔、この村の百姓弥十郎が薪を採りに岩木山ろくに入りま

した。すると、見上げるばかりの大男に出会いました。薪などいく

らでも採ってやるから、おれと相撲をとれといいます。弥十郎は仕

方なく相撲をとって山から帰ってきました。



するとその夜、大男が薪を山のように家の裏に積んでくれてありま

した。弥十郎と親しくなった大男は、村の開墾も手伝ってくれるの

でした。水不足で困っているむらの田畑を一夜のうちにあふれるば

かりの水でうるおしてくれました。水源をたどっていくと岩木山の

山中、赤倉の谷底から、水が汲み上がって激流をなしているのでし

た。村人はいまも「逆さ水」と呼んで感謝しているそうです。



ある日、弥十郎の行動を怪しんだ女房がこっそり弥十郎のあとをつ

け、弥十郎の様子を見ようと赤倉堰に隠れました。大男はこれに気

づき、自分の姿まで見られるのは困る。もうこれからは来ないこと

にすると告げるとそのまま山に入ってしまいました。弥十郎もまた

後に山に入り、大男になったといわれます(『津軽俗説選』工藤白

竜(1786(天明6)年・江戸後期)。



岩木山にも雪形が出ます。旧暦の3月中旬ころ、岩木山中腹のお蔵

石の下に、残雪が鋤(すき)の形に見えはじめると、田打ちの時だ

といいます。また苗取り爺の雪形が左向きの人の形に見えると、苗

取り時になったという。また、大石の方に苗を背負うモッコの形が

見えると、田のアラクリ(荒代かき)にとりかかる。モッコの下の

雪が消えて黒く見え、苗が入ったようになると田植に取りかかる目

安になったといいます。



岩木山は、高山植物も多く、ここの特産種として知られるサクラソ

ウ科のミチノクコザクラがあります。この植物はフランス人の植物

学者フォーリー神父が当山で採集し、明治19(1886)年にフランス

の植物学者フランシェによって記載された植物で、明治35(1902)

年に牧野富太郎博士が命名しました。エゾコザクラの変種とされま

したが、学者によってはハクサンコザクラの変種または亜種とする

人もいるそうです。



そのほか、ミヤマハンノキとヒメヤシャブシの雑種のイワキハンノ

キも発見されています。登山コースは赤倉コース、弥生コース、百

沢コース、岳コース、津軽岩木スカイライン、長平コースがありま

す。



▼岩木山【データ】

★【所在地】

・青森県弘前市(三角点)、同県鰺ヶ沢町との境。奥羽本線弘前駅

の北西15キロ。JR奥羽本線弘前駅からバス−スカイラインシャト

ルバス−八合目駐車場前−リフト、さらに歩いて40分で岩木山。1

等三角点(1624.6m)と、岩木山神社と鳳鳴ヒュッテがある。


★【名山】

・「日本百名山」(深田久弥選定):第10番選定(日本200名山、日

本300名山にも含まれる)

・「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第10番選定


★【位置】

・岩木山(三角点):北緯40度39分21.31秒、東経 140度18分11.09




★【地図】

・旧2万5千分1地形図名:岩木山(いわきさん)


★【参考文献】

・『角川日本地名大辞典2』竹内理三偏(角川書店)1991年(平成

3)

・『コンサイス日本山名辞典』徳久珠雄編(三省堂)1979年(昭和5

4)

・『山岳宗教史研究叢書7・東北霊山と修験道』月光善弘(がっこ

うよしひろ)編 (名著出版)1977年(昭和52)

・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著

出版)1981年(昭和56)

・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重編

(名著出版)1983年(昭和58)

・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)

・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)

・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)

・『日本伝説集』高木敏雄(武蔵野書院)大正13(1924)年『津軽

口碑集』内田邦彦(郷土研究社)1929(昭和4)年

・『日本伝説大系1』(北海道・北奥羽)宮田登ほか(みずうみ書房)

1985年(昭和60)

・『日本歴史地名大系2・青森県の地名』虎尾俊哉ほか(平凡社)1

982年(昭和57)

・『陸奥の伝説』盛山泰太郎(第一法規)1976(昭和51)年

・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年(平

成16)

・『和漢三才図会』寺島良安著:『和漢三才図会9』第65巻(東洋文

庫481)島田勇雄ほか訳(平凡社)1988年(昭和63)


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・ねたむな、そしるな、うらやむな。