『いなかの神さま仏さま』(改訂版・上)
第9章 路傍の石碑

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▼09-14「巳待塔」

【序文】(140字)

▼09-14「巳待塔」

【本文】
水は

 

 

 

▼中 扉

【路傍の石碑】 このページの目次
 ・石神 ・要石 ・川の神 ・甲子 ・庚申
 ・青面金剛 ・百庚申 ・金比羅(金毘羅)
 ・猿田彦神 ・地神 ・十王 ・日待塔 ・月待塔
 ・巳待塔 ・天社神 ・道祖神 ・馬頭観音
 ・出羽三山供養塔 ・木曽御嶽講碑

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■石 神

 古代から石には神霊が宿るという信仰があり、石神(しゃくじん)、
高石神、石神井という地名があちこちにあります。石神は「いしが
み」とも「しゃくじん」ともいい、「延喜式」内の古い神社にも石
をご神体とする石神(いわがみ・いしがみ)があります。石神には、
神の依代(よりしろ)としてまつる石と、石そのものに霊力がある
とするものがあります。

 神の依代として、神が座って休息した御座石や腰掛石、休み石。
神の像が石に影を落とした影回石などが全国的にあり、それぞれ神
聖視されています。

 石の霊力は天平の昔の「出雲国風土記」楯縫郡(たてぬいごおり)
神名備(かんなび)山の条にも説かれています。山の西麓に百を越
えるほどの石神、小石神があり、これらを古老が伝えるには、その
昔天御梶日女命(あめのみかじひめのみこと)という神がやってき
て多岐都比古命(たきつひこのみこと)という子を産んだという。

 これらの「いわゆる石神はこれ多岐都比古のみ魂(たま)なり。
ひでりに当りて雨を乞う時は、必ず零(ふ)らしめ給う」とありま
す。

 その他、村や峠の境界にあって外からくる疫病を防ぐ役目の石神
もいます。これは後々道祖神や地蔵などにつながる信仰だそうで、
丸い石や自然石をまつっています。

 また石の形から男女そのものをあらわし、その結合によって豊作
を祈る生産の神としての石神の信仰もあります。これも道祖神につ
ながっています。

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 石神が道祖神につながるものが多いのは、「古事記」に出てくる
岐神(クナドノカミ)が道祖神だとすることによります。イザナギ
・イザナミの二神が夫婦分かれの時、その間に置いた杖が岐神だと
いう。このクナこそ、二神に和合の方法を教えたクナ(男性そのも
の)であり、これがなにあろう石神なのだそうです。

 石でさわった手で病気の箇所をなでて治るように祈る石神もいま
す。また耳の病気を治すため穴のあいた石を奉納する耳の神、いぼ
神やぜんそくの神も石を神体とするものが多くあります。

 房総半島のほぼ中央、千葉県君津市亀山湖の近くにある三石山は、
直下の三石観音堂の奥の院になっていて、名前のとおり三つの大石
に食い込むようにお堂が建っています。奥の院に行くにはこの大岩
の狭い間を体を横にしてくぐり抜けます。

 この大岩が年々大きく育っているといいます。そういえば以前は
それ程でもなかった通り抜けの窮屈さが最近は骨が折れます。昔は
傘をさして通り抜けられたという人も実際にいます。このままでは
あと何年通れるか心配です。

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■要 石

 肝心要(かんじんかなめ)と申します。広辞苑には極めて肝要な
ことと出ています。地震、雷、火事、おやじ……。昔からいわれた
こわいものの順番です。おやじの威厳が消滅したいま、一番こわい
ものやはり地震かも知れません。

 いまの世でも地震といえば連想されるのがナマズです。グラリと
くるのを予知するといわれ、「地震の前に起こる地電流の変化にナ
マズが敏感に反応する」という学者の論文も発表されています。事
実、ナマズを水槽で飼い、朝夕観察、記帳、地震との関連を調べて
いる地方自治体もあるくらいです。

 こんな事から、「地震がくるからナマズが騒ぐ。地震がくるとき
はナマズが騒ぐ。ナマズが騒ぐから地震がくる。ゆえに地震はナマ
ズのせいだ」と昔の人は考えました。地下にいるという「地震ナマ
ズ」の首根っこをおさえつけられたらどんなに安心できるだろう。

 そこでナマズのいそうな所に釘を打ち込み、動けなくしようとし
たのが要石(かなめいし)で、地震除けの神になっています。この
石は全国各地の神社にあり、なかでも有名なのは茨城県鹿嶋市の鹿
島神宮の境内にある要石。高さ十五センチの丸い石で、大きな杉の
木の間の囲いの中に地中深く根を張っているという話です。

 鹿島神宮のいい伝えによると、日本の国土の地下には地震を起こ
す大ナマズが横たわっていて、どういうわけか首と尾が、ここ鹿島
神宮の下で合わさっているというのです。

 それをこの要石が押さえつけている、まさに肝心要の要石なので
す。そして「ゆるぐともよもやぬけじの要石、鹿島の神のあらんか
ぎりは」と三度唱え、災害除けを祈願します。「鹿島宮社例伝記」
では鹿島の大明神が降臨したとき、この石に座ったとあり、古くは
御座(みまし)の石と呼ばれていたということです。

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 また水戸黄門が要石がどこまで深く刺さっているか確かめようと
試み、7日7晩この石のまわりを掘らせましたが、掘った穴が次の
日には埋まって元に戻ってしまい、確かめることできませんでした。
その上ケガ人が続出したため、掘ることをあきらめたという話も伝
えられています。

 そんな有り難い地震の神鹿島神宮の話があります。北アルプス鹿
島槍ヶ岳(2289m)が天文年間(1532〜55・戦国時代)、
大きな地震があって大崩壊し、ふもとの集落が被害を受けたという。

 村人は地震の神である鹿島の神を勧請して鹿島神社を建て、山の
名を鹿島山、村の名を鹿島集落、集落の中を流れる川を鹿島川と改
めたといいます。それがいまの長野県大町市鹿島槍のふもとの鹿島
集落なのだそうです。江戸時代の「信府統記(しんぷとうき)」と
いう本にあるお話です。

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■川の神

 一般に「カワ」という言葉は、川の意味だけではなく、池や泉、
井戸などを含めた広い意味に使われます。そのため水神と共通の性
格で、水のある場所により川の神になったり、泉の神、滝の神、池
の神、井戸神などの名で信仰されています。

 川の神はとくに九州地方で多く聞きます。長崎県の壱岐島では、
毎月29日は川の神が水筋を通ってほかの井戸や池に通う日だとい
います。神が水筋を通る時は、「ヒュー、ヒョー」という声が聞こ
え、生臭い臭いがするといいます。またこの神には羽があり空中を
飛ぶとも伝えます。

 そのなかでも正月、5月、9月の29日のカワマツリには、竹の
棚に日形や月形のシトギ(米の粉でつくった餅)と、竹の樽12本
などを供える風習があります。川の神は河童に性格的が似ていると
いいます。

 熊本県天草のカワマツリは春の彼岸に行うもので、竹を使って川
の中に棚をつくり、ご弊やお神酒といっしょにシトギを月の数だけ
わらの器に入れて供えという。また長崎県の平戸市でも神主などが
川祭り、土用祭りを行っているそうです。

 川の神と河童。そういえば川天狗というのもあり、河童に近いも
のだといわれています。川天狗は宮天狗、海天狗、道天狗などの天
狗の一種で、くちばしがとがった形で河童の口に似ています。

 神奈川県西部の丹沢湖畔にある川天狗は、ダム工事で丹沢湖がで
きる時、水没する集落から山の神や馬頭観音、庚申などの石仏を移
転したもの。小さな沢沿いに石碑が建っています。

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■甲 子

 畑の農道わきなどに「甲子」と書かれた塔を見かけます。これは
「きのえね」と読み、甲子講にまつられる神の石塔です。

 甲子とは、甲、乙、丙、丁、……と続く十干(じっかん)の甲(き
のえ)と、子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)……と続く
十二支の子にあたる年月日をいっています。よくカレンダーや暦に
書いてある「きのえね」「きのとうし」「ひのえとら」などのあれで
す。

 この日は、大黒天の縁日とされ、60日に一度訪れる甲子の夜、
同信のものが集まって大黒天の掛け軸拝んだのち、当番の家がつく
ったごちそうを、食べながら楽しく子の刻まで過ごすのが甲子講で
す。甲子待(こうしまち)ともいい、掛け軸に二股ダイコン、ダイ
ズ、クロマメを供えます。

 これは現世の福を得るためだそうです。甲子の日でも記念すべき
講のときには「甲子」とか「大黒天」と刻んだ石塔や、福神の姿を
した像を建てたりしました。それが道ばたで見かける石塔です。

 大黒天はインドでは憤怒の形相のこわーい神でしたが、日本では
大国主命(おおくにぬしのみこと)と音が似ているために混同され
福の神になり、また田の神や家の神にもなっています。

 大黒天が甲子さまの主尊になったのは、北方子の神が大黒さまだ
からとか、大国主命・大黒さまのお使いがネズミであり、子(ね)
であるからだといわれています。

 甲子塔には大黒天の像を彫ったものと文字塔があり、像塔には恵
比寿さまと対になって建っているものもあります。また、文字塔で
は「子待塔」「甲子塔」「大黒天」「甲子塚供養」「甲子大黒天」など
と彫ったものがあります。

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■庚 申

 村はずれでよく見かける石仏に庚申塔があります。庚申は、「か
のえ(庚)」と「さる(申)」。これは十干十二支(じっかんじゅう
にし)(カレンダーの日にちのところにも記入されている)という
ものの一つです。

 十干と十二支の組み合わせは60回に1度まわってきます。この
60日に1度めぐってくる「かのえさる」の日の夜を眠らずに過ご
し、健康で長生きしようとするのが守庚申(しゅこうしん)とか、
庚申待ちとかいわれる信仰です。

 中国の道教に、人間の体には三尸(さんし)の虫(上尸・中尸・
下尸の三匹)がすんでいて人間に害を与えるという思想があります。
これは中国の「紫微宮降太上去三尸法」という本にあるもので、上
尸の虫は人の頭に宿り、眼を暗くし、面皺(しわ)をたたみ、髪の
色を白くする。

 中尸の虫は腸(はらわた)の中に住み、五臓を損なわしめ、悪い
夢を見させ、飲食を好む。下尸の虫はというと、足にいて命を奪い、
精をなやますというから厄介です。

 このやっかいな虫が「かのえさる」の夜、人の寝ている間にひそ
かに抜け出し、玉皇天帝(北極星・仏教では帝釈天)のところに行
き、その人の悪事罪科を報告。天帝は鬼籍という台帳に書き込み、
罪が500条に達するとその人の死を決めるという。

 そうはさせまいとするのが庚申待ちの行事です。「かのえさる」
の夜、お堂に集まり飲んだり食べたりし、1晩中眠らず、三尸の虫
を封じ込めようというわけです。

 そして庚申塔に彫ってある三猿のように「見ざる、聞かざる、言
わざるで頼むよ」と三尸の虫に祈ります。

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 この守庚申の行事は、平安時代初期、承和(じょうわ)5(83
8)年を少しさかのぽるころから行われたという。その後、守庚申
は、主に宮中や宮廷貴族などが宴遊を行っていましたが、鎌倉時代
になると武家たちにも広まっていきます。

 室町時代のなかばになると、僧侶や修験者が関わるようになり、
呼び方も「守庚申」から「庚申待ち」に変わります。そして仏教色
が濃くなり、僧侶の手で『庚申縁起』もつくられ、講的結集が組ま
れ、礼拝本尊も考え出されて庚申待ちの信仰として一般の人たちに
普及していきました。

 一方、この庚申待よりも以前から行われていた行事に、日待ち、
月待、念仏講などがあります。これらの講はすでに供養塔を建立し
ていました。庚申待もこれにならって塔を建てるようになったとい
う。

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 日本でいちばん古い庚申塔は、室町時代後期、戦国時代になりは
じめの文明3(1471)年に建立された、埼玉県川口市領家にあ
る実相寺の庚申板碑(こうしんいたび)(石塔婆の一種)なのだそ
うです。

 この庚申塔にも種類があります。塔の型のちがいでは、宝塔型、
陀羅尼(だらに)のお経を納める宝篋印塔(ほうきょういんとう)
型、六角や八角の柱状幢身の石塔の石幢型、燈籠型、層塔型や五輪
塔型、板碑型、また自然の岸壁に彫刻した磨崖仏型、石祠型などが
あり、なかには自然石のものまであります。

 仏像を彫ったものでは、青面金剛(しょうめんこんごう)が全国
でいちばんよく見られる像です。たいていは雲がたなびく日月が左
右に刻んでいて、青面金剛が邪鬼を踏んづけています。なかには北
斗七星、富士山、ニワトリの像まであります。一晩中眠らずに過ご
す庚申の夜が早く明けて欲しいからでしょうか。

 また庚申の「申」はさると読むため、猿田彦神(天孫降臨の際、
道案内をしたという神)の像もあります。さらに帝釈天のお使いは
猿であり、日吉山王七社のお使いも猿というので三猿を刻んだもの
もあります。その他、大日、阿弥陀、釈迦、薬師や観音、地蔵さら
に田の神や道祖神像の庚申塔まであります。

 また、文字塔のたぐいには、庚申とだけ書かれたもの、百庚申、
千庚申、五庚申、七庚申、庚申供養塔、庚申像、青面金剛尊、猿田
彦大神、帝釈天などなど。その他、庚申堂や庚申の祠に青面金剛や
帝釈天を安置したものもあります。

 ところで古川柳に「庚申はせざるを入れて四猿なり」というのが
あります。庚申は夜を徹して身を慎む行事です。とくに女性を避け
なければならないという。

 もしこの日にできた子供は泥棒の性格をもって生まれるなどと戒
めています。そこで、庚申の日は見ざる、言わざる、聞かざるのほ
かに「せざる」が入って四猿になるというわけです。

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■青面金剛(庚申)

 青面金剛(しょうめんこんごう)の石塔は、たなびく雲と太陽や
月、下段に三猿が彫られ、憤怒の顔、六臂(ろっぴ)(6本の手)
で合掌型、剣人持型があり、六臂(ろっぴ)や索縄(さくじょう)、
棒などをにぎり邪鬼を踏みつけた形をしています。

 「青面」はセイメンとも読み、もともとは帝釈天の使者だったと
いう。顔の色が青い金剛童子のことで、病魔や病鬼を払い除くとさ
れています。

 初期(鎌倉時代)の作といわれる、東大寺にある木製の青面金剛
は六臂で、ハスの台の上に立っており、持ち物は剣以外は失われ何
を持っていたか不明です。

 「陀羅尼(だらに)集経・第九」というお経には四臂だと書かれ、
青面金剛呪法に「もし、骨蒸伏連伝尸気病を患らう者、呪を誦(よ
う)すること千遍せば、その病すなわち癒ゆ」とあり、青面金剛は
伝尸(でんし)病(肺結核)を治す神です。

 この伝尸が庚申の三尸の虫の三尸(さんし)と語音が似ているた
め庚申信仰と結びつけられます。その結果、人間の体にひそむ三匹
の虫(三尸の虫)の本体は青面金剛だということになります。

 一番最初の青面金剛像を彫った石塔は、神奈川県茅ヶ崎市の八幡
社にあるもので、四臂の青面金剛と二猿が刻まれた1654年(承
応3)の塔です。また同市金山神社のものもよく似た形で1655
年製です。

 このような青面金剛像の石塔は、時代が下がるに従い数が多くな
り、各地で建立されはじめ、像の形も二臂、四臂、八臂などができ
てきて、持ち物も多種多様になります。また三猿、二鶏の像など合
わせて彫られるようになっていくのでした。

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■百庚申

 庚申講の行事は、すでに平安初期からあったといい、庚申塔建立
など庶民の信仰となったのは室町から江戸時代になってからだとさ
れています。ここ千葉県船橋市鈴見町の行々林(おどろばやし)集
落の青面金剛像は三猿がまだ新しい。塔の文字は「平成三年十一月
吉日」とあります。

 健康で長生きを願う庚申待ちの行事でも、長く行っていると欲が
出てきます。江戸時代後期、なるべく多くの願いを得たいため、た
くさんの庚申塔を建てる「百庚申」が千葉県下総地方で流行したと
いいます。千葉県市川市から東にのびる木下街道沿い、鎌ヶ谷市鎌
ヶ谷の天満宮境内にも「百庚申」があります。

 10基の青面金剛像の間に庚申の文字だけの塔が9基ずつはさま
ったものが9セット、合わせて100基の塔がならんでいます。ま
た印西市浦辺地区にも同じ形の「百庚申」が2ヶ所でならんでいま
す。どちらの石像も拓本をとったあとが赤茶けていました。

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■金毘羅

 金毘羅は金比羅とも書き、薬師さまの眷属である十二神将の一人
で、般若守護十六善神の一人でもあり、また、竜王、夜叉神王とも
名のり、多くの夜叉をひきいて仏法守護をします。

 そもそも金毘羅はサンスクリット語の「クンピーラ」から出た名
前だそうです。ガンジス河にすむワニなのだそうです。これがお釈
迦さまが修行した王舎城内ヒフラ山の守護神になり、山がゾウの鼻
に似ているので「象頭山(ぞうずせん)」といいました。

 この「ワニ神」信仰が日本に渡って来ると、水に住む神というの
で、いつの間にか十二神将とは別の海上の守護神、海難救済の神と
しての信仰になってきます。

 コンピラさんといえば、香川県琴平町の金刀比羅宮(ことひらぐ
う)の金毘羅権現が中心です。祭神は大物主神で相殿(あいどの)
に崇徳天皇(すとくてんのう)をまつっています。この金刀比羅宮
の境内には松尾寺というお寺があり、本尊をお釈迦さまとしていま
した。

 そこで釈迦に関係のある金毘羅を寺の守護神として勧請し、裏山
を「象頭山」と名づけたという。時が過ぎるにしたがい神仏習合、
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の影響で象頭山金毘羅大権現
というようになり、松尾寺が別当を努めていました。

 室町時代に入り海上交通が盛んになると、豊漁、海上安全の神と
してあがめられ各地に神社を建立。また水神、雨乞いの神として農
村にまで伝播します。

 こうして全国に広がった金毘羅信仰は盛んになる一方。「金毘羅
参り」は伊勢参りとならんで一生一度の庶民の願いになります。江
戸時代に入ると講が組織され、こんぴら船をチャーター、♪追い手
に帆かけてシュラシュシシュ……と金毘羅詣での列がつながりま
す。

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 ところがこの船、当時大阪港や岡山県の下津井港と、香川県の琴
平近くの丸亀港や多度津港の間を毎日2便、快速航行する定期便だ
ったというのです。

 船元との特約に赤字を出さないように、各地の講元は旅行代理店
よろしく営業活動しなければなりません。旅行積立金を徴収してく
じや輪番で選ばれた代表人を送り込んでいたのですから大した組織
力だったのです。

 やがて明治の廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れます。
仏と見ればぶっ壊す、お寺には火をつけて焼失させるとやり放題。
こんな時代、まつっている神が神仏習合のままの金比羅大権現では
いつ襲撃されるか分かりません。

 そこで別当の松尾宥暁(ゆうぎょう)はいち早く祭神を大物主命
と崇徳天皇に変更しました。しかし民衆は相変わらず金刀比羅宮は
金毘羅サンとして崇め続け、祭神とは関係なしに、金毘羅さまは全
国に683社、小祠も入れれば数知れずという隆盛をみたのであり
ました。

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■猿田彦神

 山里の村はずれに、猿田彦神の石碑が建っています。「日本書紀」
によると猿田彦は、鼻あくまで高くして、口元明るく、目は赤く鏡
のように輝き、眼力に優れ赤ら顔で相手をおびえさせる怪異な風貌
…とあります。よく神社の例祭のみこしを先導する鼻高で赤ら顔の
神をみかけますが、あれが猿田彦神です。

 「古事記」天孫降臨の条では、天照大神から「天孫日子番(ひこ
ほ)のニニギノ命は、豊葦原(とよあしはら)中つ国(日本)へ降
りよ」と命ぜられ、三種の神器を携え、神々を従えて雲を押し分け
て日向の高千穂の峰に降臨します。

 このとき天の八衢(やちまた)(八方に道のある間違いやすい分
岐点)で高天原と豊葦原中つ国を明るく照らしている異形の神がい
ました。天鈿女命(あめのうずめのみこと)が行って問いただすと
「われは国つ神の猿田彦神という。ニニギノ命のご先導を申し上げ
ようと出迎えていたのだ」と答えます。

 こうして一行は心強い道案内のお陰で無事、高千穂に降りること
ができました。「日本書紀」では無事道案内の役目を果たした猿田
彦は、天鈿女命に見送られ伊勢に帰りましたが、天鈿女命は猿田彦
の猿をとって猿女君と呼ばれたというからどうやらふたりは結婚し
たらしいのです。

 このことから、猿田彦は道祖神にも通じ、天鈿女命と二神を彫っ
た塔もあります。また庚申の申がサルとも読むところから、庚申さ
まにも置きかえられています。

 また伊勢の海で猿田彦がヒラブ貝に手をはさまれて溺れかかった
話も残っています。

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■地 神

 天神がいるからには地神(じしん)がいなくてはなりません。し
かし天神に対して地神の信仰はイマイチ地味な感じです。でも関東
ではチジン、静岡あたりでは地の神、関西、四国から九州にかけて
は地主(じぬし)サマと呼ぶ地神信仰が、農民の間で根強くありま
す。

 古くは、屋敷の西北の隅にホコラを建ててまつるような屋敷神で
あったらしいのですが、次第にムラや集落の共同のものとなり、田
谷畑のすみや、辻にまつるようになったといいます。

 村の辻にまつるというので、あの世とこの世の境に立つという勝
軍地蔵(地蔵信仰のひとつ)とも習合します。また勝軍地蔵は悪疫、
悪神を防ぐといので塞(さい)の神とも結びつきます。

 宮崎県では田や畑を最初に開拓した人を地主さまとしてまつり、
静岡では、人が死んで三十三年たつと地の神になるといいます。

 地神とは祖霊信仰がもとになった田の神、作神、農業神だと考え
られています。

 田の神といえば、冬の間は山の神として、春、山を降りて田の神
になり、そして作物の育成をつかさどり、収穫が終わるとまた山へ
帰っていくといういい伝えのある神です。

 日本の民俗神はあっちに結びつき、こっちに習合する便利な神さ
ま。地神の地は痔に通じており、こんなことから小田原にある痔神
社は、尻の方ではなく地神から来ているという例もあります。

 地神講という地神をまつる講中もあり、講は彼岸前後の戊(つち
のえ)の社日の日に行われ、石塔にも地神塔、堅牢地神や土后神と
刻まれたものもあります。

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■十 王

 村はずれのお堂の荒壁を背にして十王の石仏がならんでいます。
これは死後の世界の冥府(めいふ)で亡者の罪状を裁く10人の判
官のことだそうです。

 十王とは、秦広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宋
帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、閻魔王(えんまおう)、
変成王(へんじょうおう)、太山王(たいざんおう)、平等王(びょ
うどうおう)、都市王(としおう)、五道天輪王(ごどうてんりんお
う)の10神です。

 死後、未来の生を受けられないものや、中有(ちゅうう)(次の
生を得るまでの四十九日間)の亡者は、初七日から二七日、三七日、
四七日、五七日、六七日、七七日、百ヶ日、一ヶ年、三年の10回
まで、各王のもとで順番に罪の重さを判定され、次に生まれる場所
を決められるという。

 しかしちゃんと抜け道があり、生前に十王に供養を行ってあるも
のは罪を軽くしてもらえるのだそうです。

 これは中国で仏教と道教の混ざってできた思想で、日本には平安
時代末ごろ禅宗とともに入ってきたとされています。ちなみに奪衣
婆(だつえば)はこの信仰が日本に入ってきてから誕生、さらに十
王にそれぞれ本地仏(ほんじぶつ)が割り当てられるようになりま
した。

 十王の石仏は、各王をそれぞれ一体ずつ、別々に彫ってあるもの
や、石塔の一面に十体全部刻んであるもの、また石塔の各面に十体
をそれぞれに分けて刻んであるものなどがあります。

 忌日と十王(垂迹(すいじゃく))・本地仏はそれぞれ次の通りで
す。初七日(垂迹秦広王・本地不動明王)、二七日(初江王・釈迦
如来)、三七日(宋帝王・文殊菩薩)、四七日(五官王・普賢菩薩)、
五七日(閻羅王・地蔵菩薩)、六七日(変成王・弥勒菩薩)、七七日
(太山王・薬師如来)、百ヶ日(平等王・観世音菩薩)、一周年(都
市王・大勢至菩薩)、三周年(五道天輪王・阿弥陀如来)。

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■日待塔

 よく道ばたや神社、お寺の境内で「日待塔(ひまちとう)」「月待
塔(つきまちとう)」の石碑を見かけます。仏像を刻んだものや文
字塔のもの、また庚申塔のものなどまでさまざまです。

 かつては決まった夜、近所が集まって一夜を明かし、翌朝の日の
出を拝む「日待」の行事がありました。

 「日待塔」はその供養や祭礼のしるしとして建立されたものだと
いいます。日待のマチは、待つという意味だとも「祭礼り」のこと
だともいわれます。そういえば私の生まれた千葉県でも祭りのこと
を「マーチ」とか「マチ」といっていました。

 日待は行う目的で庚申待(こうしんまち)、巳待(みまち)(弁天
日待)、風日待、蚕日待、天王日待、榛名日待などの名前で呼ばれ
たりします。日待はかつては旧暦の15日の夜(満月)に行われた
らしく、日の出を待つ間、満月への崇拝や祈願を行い、「日待・月
待」といわれるように、このふたつは共通した行事だったのだそう
です。

 そんなことからこれらの石像物は、狭義の日待塔、二十三夜塔な
どの日待塔、庚申塔・甲子塔・己巳塔(きしとう)の類、念仏塔、
題目塔の類や、その他代参講の類は、みな日待塔(または待ごと)
に含まれるのだそうです。

 「吉田神道家」の伝承では平安時代初期の嵯峨天皇の時代に京都
の如意ヶ嶽に登り、日の出を拝んだことからはじまったといいます。
記録では、南北朝時代の本「吉田鈴鹿家記」(貞治三年一月十五日
の条)の「徹夜の酒宴が行われた」というのが最初だそうです。

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 日待塔のもっとも古いのは、1596年(文禄5)安土桃山時代
の塔で名古屋市熱田にあるそうです。

 日待塔の形には、像を彫った刻像塔や文字塔、庚申塔などに日待
と刻んだ塔があります。

・「刻像の日待塔」には、大日如来像の塔(神奈川件津久井町など
同県北部に多い)や、観音像の塔(聖観音の日待塔、如意輪観音の
日待塔、馬頭観音の日待塔などがある)、虚空蔵菩薩像の塔、地蔵
像の塔、六地蔵像の塔・弁才天の塔などがあります。

・文字塔の日待塔には、文字の塔、日天子の塔、層塔(三重)の塔
があります。

 さらに二十三夜塔に日待の文字のある塔、庚申塔に日待の文字の
ある塔、題目講の日待塔、巳待の日待塔などがあります。

 しかし、いまではいずれもすたれて、石塔も風化されてしまって
います。

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■月待塔

 むらの辻や寺院の境内などに「二十三夜塔」などと書かれた石塔
が建っています。かつて農村には特定の月齢の夜にお堂に集まり、
月をまつって病気の平癒祈願をする講がありました。

 それは毎月ではなく旧暦の正月、5月、9月の3回とか、正月、
11月の一定の月の出を待ちます。をまつります。(月待の「待(ま
ち)」は祭の意味ともいう)。

 その講中が建てたのが月待塔(つきまちとう)です。月待塔には、
十三夜塔から二十九夜塔までのほとんど各夜がありますが、二十三
夜塔が全国に分布しています。そのほか三日月待や七夜待というの
がありますが、三日月待は三日の月に礼拝祈願、七夜待は、十七夜
から二十三夜までの「七連夜月待」をする行事だそうです。

 またなかには四十八夜塔と刻むものもありますが、これは四十八
夜念仏塔であり、分類では念仏塔に入るそうです。

 月待塔には、十三夜塔から二十九夜塔までのほとんど各夜があり
ますが、一番全国に分布しているのは二十三夜塔だそうです。三日
月待や七夜待というのもあり、三日月待は三日の月に礼拝、七夜待
は十七夜から二十三夜までの七連夜月待をする行事です。

 月待は特定の年齢や職業、組や小字(こあざ)の単位で行います
が、男性だけの二十三夜待に対し、女性だけが集まり安産を祈る二
十二夜待のようなものもあります。

 仏教で15日(旧暦)の月は弥陀の化現とされ、丸い月の形から
円満を意味するたとえにされ、平安・鎌倉時代にすでに15日の月
を礼拝する行事があり、人々は一晩中、月に向かい経を読み行に励
んだといいます。

 月待塔で一番古いは室町時代の「月待供養の板碑(いたび)」で、
1141年(嘉吉元)造立のもの。当時、経典に月は勢至菩薩の化
現とあり、月待は菩薩の有縁日の二十三夜に行うべきとされ、二十
三夜の月待を行った際、供養の板碑が造られはじめたといいます。

 月待塔には○○夜塔とあるものと○○夜念仏供養塔と彫られたも
のがあり、月待塔なのか念仏塔なのか区別するのが難しいものもあ
ます。また四十八夜塔とあるのは四十八夜念仏塔であり、分類では
念仏塔に入るそうです。

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■月待塔
(三日月待・十三夜塔・十四夜塔十五夜塔・十六夜塔)

 月の満ち欠けは人の生命力にかかわっていると信じられ、月への
願いごとも病気平癒や安産、育児など人の体に関したことが多いよ
うです。

 ▼三日月待(みかづきまち) 三日月待という優雅な名前の月待
(つきまち)行事があります。陰暦のある決まった月の3日の夜に
出る月を礼拝し、病気や厄徐(やくよ)けなどの祈願をするもので、
静岡県西部地方行われたと聞きます。

 七夜待塔というのもありが、七夜待(ななよまち・しちやまち)
は7日の夜に月を待つのではなく、17日〜23日(旧暦)までの
七日間連続して月待をしたものであり数字の順序ではないようで
す。

 ▼十三夜塔は、13日の夜、知恵、学徳をつかさどる虚空蔵菩薩
(こくうぞうぼさつ)を本尊とする十三夜待の講中が供養の記念に
建てた石塔です。十三夜の月見の中でも旧暦9月13日の夜の月見
(豆名月・栗名月)は有名で、姥月・女名月・小麦の月などの異名
もあります。

 本尊の虚空蔵菩薩は、数字の13となぜか昔から関係が深いよう
です。これは「三十日仏説」という説から来ており、それによると
虚空蔵菩薩の有縁日は13日であるという。そこから初七日から三
十三回忌までの仏事にそれぞれ仏を配した「十三仏」(十王に三仏
を加えてつくった)でも、13番目に当てられています。

 また奈良市、京都、茨城県福島県など各地の寺院で行われる「十
三参り」の行事でも厄年(やくどし)とされている十三歳になった
男女が虚空蔵菩薩に参拝しており、ここでも虚空蔵菩薩と十三の数
字が結びついています。

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 十三夜塔は山形県に多いようで、南陽市東正寺境内にもあります
が年号は不明です。飯豊町涌沼神社の自然石の塔は文化9年(18
12)の年号があります。

 また高畠町一ノ宮神社に十三夜需塔の文字のある石塔がありま
す。この「需」は「マチ」で十三夜待の「待」であり、祭りのマチ
なのだそうです。

 ▼十五夜塔は、十五夜の念仏講中で建てられたものが多く、文字
塔と像を刻んだ塔の二つがあります。像を彫った刻像塔には、聖観
音(しょうかんのん)と大日如来像があっていずれも茨城県にあり
ます。

 聖観音像の塔は取手市の不動院にあり元禄16年(1703)の
銘があります。大日如来像のものは同県守谷町の香取神社のある塔
で、江戸前期の寛文12年(1672)とあり、これが現在分かっ
ている一番古い塔とされています。また同町向崎の光背型の塔は寛
文13年とあります。

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 十五夜塔でも埼玉県小川町・能満寺の板碑は、弘安9年(128
6)ともっと古いものです。ただ、月待板碑で「小春十五日」とか
「卯月十五日」とするもののなかには室町時代の板碑があり、これ
らは十五夜塔の先行した型だろうと考えられています。

 15日は阿弥陀如来の有縁日だとか、十五夜の満月は弥陀の化現
日といわれ、平安の昔から夜を通してお経を読む行事が行われてい
たそうです。また、毎月ある十五夜の中でも旧暦8月15日の芋名
月は名高く、いまただ十五夜といえば中秋の十五夜を指しています。

 ▼十六夜塔は、北関東に多く分布しています。栃木県には「下野
の野仏」によるだけでも九基あるという。やはり文字塔と刻像塔が
あり、刻像塔には大日如来像、阿弥陀如来像、聖観音像、如意輪観
音像、地蔵像などの塔があります。

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■月待塔
(七夜塔・十七夜塔・十八夜塔・十九夜塔・廿日夜塔
・二十一夜塔・二十二夜塔・二十三夜塔)

 ▼七夜待塔 これは一番前に持っていくべき数字ですが、七夜待
は7日の夜に月を待つのではなく、17日〜23日(旧暦)までの
7日間、月待をしたものです。また十七夜待の「十」を略して、た
だ七夜待という場合もあるとのことなので十六夜塔のあとに持って
きました。山梨県大月市福寿庵に、また山形市雁島公園に七夜供養
塔があると聞きます。

 旧暦17日〜23日まで行う七夜待は、本尊を「文殊日礼」や「七
七夜待之大事」、「七夜待本尊之事」という難しいもので決められて
いるのだそうです。それも毎日違う本尊なので7日間連続、毎夜別
の本尊をまつるのは容易なことではありません。

 そこで七夜待をちゃんと7日間行うのではなく、このうちの一夜
を選びだして、行ったものが十八夜待とか十九夜待、二十二夜待に
なったのではないかといわれています。

 15日の夜から月の出は次第に遅くなりいろいろな呼び方をされ
ます。十六夜を「いざよい」といいます。遠い山の端にいざよい(た
めらう)ながら出ることだといいます。

 同じように十七夜を「立待月(たちまちづき)」といい、立ちな
がら待つうちに出てくる月とし、十八夜(居待月(いまちづき)は
差し居て待つ、十九夜(臥待月(ふしまちづき)は月を伏して待ち、
二十日は、夜も更けてから出る月なので更待月(ふけまちづき)と
いいます。これらの呼び方はみな七夜待のそれぞれの日に本尊を配
した習慣から来たのだそうです。順を追ってまいります。

 ▼十七夜塔 本尊は「文殊日礼」では千手観音、「七七夜待之大
事」では正観音。「七夜待本尊之事」では千手観音になっています。
いちばん古い十七夜塔は、名古屋市塩入町の浜神明社のもので、安
土桃山時代の天正17年(1589)のものではないかといいます。
東京都奥多摩石尾根の南麓・留浦下には江戸時代中期・宝永元年
(1704)の十七夜待の本尊である千手観音(せんじゅかんのん)
らしい刻像の十七夜塔があります。

 ▼十八夜塔 本尊は「文殊日礼」、「七七夜待之大事」、「七夜待本
尊之事」の順でそれぞれ、正観音、千手観音、正観音。十八夜待は
1月、5月、9月、11月(地方によって多少違う)の一八日に行
われ、月に餅をついて供えるのが特徴という。

 東北の青森県、岩手、宮城、秋田、福島、山形県などに石塔があ
り、また千葉県富山町でもかつては9月に行われ、新しく収穫した
米で餅をつき十八夜の月に供えて十八夜待をしたという話が残って
います。

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 ▼十九夜塔 十九夜講は大字や小字単位で行われ、ほとんどが女
性の講。当番の家またはお堂などに集まり、如意輪観音の掛け軸を
かけ、般若心経やご詠歌をあげて勤行が行われ、安産や子育てなど
の祈願をしたという。それが終わるとみんなて食べたり、おしゃべ
りに入ります。

 十九夜待の仏像を彫った塔はほとんどが如意輪観音ですが、聖観
音、女性の講だけあって子安観音のものもあります。文字塔には十
九夜、十九夜塔、十九夜供養、十九夜念仏供養と書かれており、東
北南部、関東に多く、まれに長野、奈良、京都に分布しているとい
う。

 筆者実家の隣市千葉県船橋市旭町行々林(おどろばやし)地区は
石塔の多いところで、最近造立の十九夜塔も建っています。

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 ▼廿日夜塔(はつかやとう) この月の供養塔はあまり多くは見
られなく東北地方に建立されているという。宮城県には廿日待とか
廿日需、廿日夜供養、廿日需供養などの石塔があるそうです。需は
いうまでもなくマチであり待。祭りの意味でもあるといいます。

 ▼二十一夜塔 二十一夜待はやはり女人講で月待念仏講です。群
馬県の前橋よりほぼ北側が二十一夜の塔の分布地帯だといいます。
ほとんどは「文殊日礼」での本尊・如意輪観音の掛け軸の前で念仏
をあげます。しかし、「七七夜之大事」、「七夜待本尊之事」では二
十一夜待の本尊は准胝観音になっています。そのせいか赤城地方に
は准胝観音(じゅんていかんのん)を彫った像塔もあります。

 ▼二十二夜塔 二十二夜塔の石碑も多く見かけます。如意輪観音
の像や「二十二夜」、「二十二夜供養塔」の文字が書かれた石塔が多
い。如意輪観音像を彫った塔は、二手のものが多く、四臂、また丸
彫りの像もありほとんどが座像ですが立った像もあるといいます。

 二十二夜待はただ二夜待ともいい、ほとんどが女性の講です。し
かし塔に刻んだある世話人は男の名が多い。旧暦正月の22日や7
月22日、また8月22日に「二十二夜尊」の掛け軸をかけて、月
の出を待ちます。埼玉や群馬県に多く、長野、新潟、山梨、岐阜県
などにも広く分布しています。群馬県で男性は二十三夜待を、女性
は二十二夜待をすることになっているのは女性が一日早いのは.こ
のあたりは「かかあ天下」だからとのことでした。

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 ▼二十三夜塔 いろいろな月待塔がありますが一番多いのはこの
二十三夜塔です。どこでもよく見かけますが、とくに関東と長野県
に多いようです。二十三夜塔には本尊の勢至菩薩を刻んだ刻像の石
塔が多いようです。

 ほかに阿弥陀、観音、月天、月天子、大日、地蔵、六地蔵なども
見かけます。東京都民の山・奥多摩高水三山の南麓青梅市沢井地区
には江戸前期の元禄8年(1695)の二十三夜の月待供養塔があ
ります。また「御月待供養」の如意輪観音像塔も同地区にあるとい
う。

 文字塔に多いのはだんぜん二十三夜と彫った石塔。各地の山から
下山して山麓の村を散策して目につくのは、ほとんどこれか、二十
三夜供養塔と刻まれた石塔。また大勢至菩薩とあるもの、なかには
神道の月夜見命(つきよみのみこと)と彫ったものまであります。

 二十三夜待は毎月(旧暦)の二十三夜に行うところや、また1、
5、9、11月、あるいは1、6、9月、その他、1,2月だけな
ど、地方によってさまざまです。男だけの講もあれば女だけの地方
もあるという。この二十三夜待で17日〜23日(旧暦)までの7
日間連続して月見を行う「七夜待」は終わります。

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■月待塔
(二十四夜塔・二十五夜塔・二十六夜塔・
二十七夜塔・二十八夜塔・二十九夜塔)

 ▼二十四夜塔 鹿児島県竜郷村で行われた月待。1、5、9月の
24日夜、サカキとだんごを月に供えたとの記録があります。

 ▼二十五夜塔 鹿児島県竜郷村でやはり同じ月の25日夜、だん
ごを供えて精進供養しました。椅玉県庄和村では7月25日の月に
赤飯を供えたそうです。

 ▼二十六夜塔は、二十六夜待講中で建てた供養塔です。二十六夜
待は、1月または7月の二十六夜に月を拝みながら供養、願いをか
けてみんなで飲食します。本尊は災害よけ、縁結びに霊験のある愛
染明王という仏さまで、この明王の絵像や「二十六夜尊」と書かれ
た掛け軸を掛けて礼拝します。

 農家では豊作を、商人は商売繁盛を祈ったという。また愛染明王
を守り神とする染め物業者もこの月待をしたり二十六夜塔を建てる
といいます。二十六夜の月待は近くの丘や山に登って、また海岸に
出て月を拝む風習があるそうです。ここ山梨県都留市と同県秋山村
にもそれぞれ同じ名前の二十六夜山があって、かつては供養に登っ
たそうです。

 都留市の二十六夜山(1297m)は角柱の石碑が建てられ、江
戸後期の「嘉永七年(1854)七月二十六日」の銘があります。
山麓の法能集落の人たちが造立したといわれています。

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 秋山村の二十六夜山(972m)には丸い自然石の塔が建てられ
ています。この塔は明治22年旧暦7月に建てられたもので、その
時の趣意書には、「藍膳明王(あいぜんみょうおう)ハ、万民ノ諸
悪災害ヲ防御シ且ツ養蚕ノ守護神ニシテ信シテ験アルハ弁ヲ俟スシ
テ人ノ知ル処ナリ。……毎年祭日旧三月九月二十六日と定ム」と、
浜沢地区側登山口の説明板にあり養蚕の神だとしています。

 また下尾崎側登山口にも説明板があって、それには「旧正月と七
月の二十六日の夜半に月の出を待つ…」とあります。

 ▼二十七夜塔 二十七夜待は以前、福岡県の若宮町で奇数月の二
十七夜に勢至菩薩の掛け軸を掛けて行われた記録があるという。

 ▼二十八夜塔 山形市に江戸後期の二十八夜塔があり、前出の鹿
児島県竜郷村1、5、9月の28日夜にだんごを供えて行ったとい
う。
▼二十九夜塔 福島県長沼村に江戸中期の二十九夜塔があり、埼玉
県北川辺村でもかつて二十九夜待が行われたといいます。

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■巳待塔

 村はずれの辻で蛇の絵文字のようなマークが彫られた石塔があり
ます。巳待塔(みまちとう)です。巳待塔は己巳塔(きしとう)と
もいい巳待講中が供養にしるしとして建てました。

 巳待は、暦にある十二支の巳(み)の日におこもりをする日待の
一種の行事です。巳の日だけでなく己巳(つちのとみ)の日に夜遅
くまで起きていて供養します。

 また、巳待の文字の意味から前日の戊辰(つちのえたつ)の日に
行い、巳の日を待ったところもあったそうです。かつて千葉県の富
津市の巳待講は毎月前日の辰の日にに行ったといいます。

 巳待講の本尊は、長寿・財宝・災難除けの神の弁才天で七福神の
一神。室町時代からあがめられてきたのだそうです。弁才天は十二
支の巳から蛇に対する信仰と関係しているところから宇賀神や水神
とも関連し、水をつかさどり作神にもなっています。また東北の金
華山信仰と習合して、蛇は弁才天の使者だとも考えられました。

 巳待塔で全国で一番古いものは、佐賀県鹿島市にある石祠の塔だ
という。戦国時代真っ最中の永正9年(1512)の文字があるそ
うです。また、関東で古いのは群馬県前橋市総社町日枝神社の石祠
で、江戸初期の寛永18年(1641)の文字があるといいます。

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 巳待塔には文字塔と、神の像を彫った刻像塔があります。

 文字塔は「巳待塔」とか「己巳塔」、「巳待供養塔」また「弁才天」
「弁才天宮」などと書かれています。江戸中期から後期にかけての
ものが多いのは、流行した時期があらわれているのでしょうか。

 刻像塔には、弁才天像や宝珠像、人面蛇神像があり、刻像塔には、
腕が二臂のもの、六臂、八臂像があり、右手に剣、左手に宝珠を持
っています。また琵琶を弾く形はおなじみでよく見かけます。

 人面蛇神刻像の巳待塔は、長野県北八ヶ岳白駒ノ池近くの麦草峠
付近にあり、埼玉県秩父市山田の金昌寺、群馬県前橋市などにも見
られ、頭が人の顔で、体はとぐろを巻いた蛇、まさに宇賀神の姿で
す。
 その他、栃木県日光や群馬県桐生市にあるように宝珠型につくっ
た石に宝珠型の穴を掘った石塔もあります。

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■天社神

 神奈川県の丹沢登山口大倉集落やヤビツ峠ふもとの蓑毛の鹿島神
社境内など丹沢山麓で天社神(てんしゃじん)の文字のある石碑を
よく見かます。天社神とは、神さま関係の辞典にもない、変わった
神さまなのだそうです。

 調べてみると天社は天赦で、暦に出てくる天赦日(てんしゃにち)
のことではないかとあります。天赦日は暦の雑注に入れられるもの
で、文字通り天が赦してくれる「万事を為すに触りなしという最高
の大吉日」。

 暦のなかで吉日は、天一天上(てんいちてんじょう)(天一神と
いう暦神(方角神)が天上にいるよい日)と社日、天赦の日だけ。
あとは丙午(ひのえま)、十方暮(じっぽうくれ)、庚申(こうしん)、
三伏(さんぷく)(初伏、中伏、末伏の三つの総称)、犯土(つち)
(干支の土と土とが重なる日)、三隣亡(さんりんぼう)(干支の亥、
寅、午を各月につけて選日している)など凶日ばかりです。

 これは、中国の戦国時代から漢の時代にできた陰陽五行説にもと
づく考え方で、万物一切は木火土金水(もくかどごんすい)の五つ
の要素からなっているとし、それに陰と陽をつけたものだとか。

 すなわち、木火は陽に、金水は陰に属し、土はその中間だとし、
その消長で天地の災い、人の運勢を説明しようとする、これまたや
っかいなものです。

 また、暦に社日という土地の守護神をまつる日があります。春と
秋の彼岸に一番近い戊(つちのえ)の日で、吉日とされています。
それに同じく吉日の天赦をくっつかせ天社神という神さまにしたの
だろうといいます。つまり天社神は吉吉神なのでした。

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■道祖神

 いなか道を歩いていると、村境や道路の辻、はたまた峠などで道
祖神の石像やホコラをみかけます。道祖神は元来、外からくる邪悪
なものをさえぎる役目の神です。

 村の入ってこようとする疫病や悪霊を村境で通せんぼして、村を
守ってくれています。だから別名、塞(さい)の神またはさえのか
みとも呼ばれています。

 また「さい」は幸(さい)に通じるため、人間に幸いをもたらす
神としてあがめられ、男女円満、縁結びの神、そして旅人の安全を
守る神としても信仰されます。

 関東から中部地方では道陸神(どうろくじん)ともいっています。
あの「古事記」や、「日本書紀」には、岐神(ちまたのかみ)、ふな
どの神、塞大神(さえのたいじん)などの名で出てきます。

 道祖神の石像の形はいろいろでバラエティーに富んでいます。江
戸時代も中期以後になると世の中が落ち着いてきます。また各地の
大名たちも城の建造もひととおり終わってしまい、建設に携わって
いた石工たちも失業してきました。そこで石工たちは仕事を求めて
地方の村をめぐるついでに、思い思いの構想を練って石仏を彫って
いきました。

 その形は丸石をまつるもの、地蔵さまに似た石像、石祠、変わっ
た形の石、男性女性自身をまつったもの、道祖神の文字だけを刻ん
だもの、二人の神を彫った双神像、単神像、単僧像などなどさまざ
まです。

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 双神像のなかには女神が子どもを抱いているものや、まゆ玉、幣
と鈴、銭袋を持っているもの、もちをついているもの、またまた男
女神が仲良くしているものまであります。

 これは男女円満の姿を示すことは邪悪者を尻込みさせるという考
え方からつくられたものだといいます。まさに「仲良きことは美し
き哉」なのです。

 道祖神の文字が本に出てくるのは、飛鳥・奈良時代の歴史書「続
日本紀」(しょくにほんぎ)。平安初期の「新撰姓氏録」(しんせん
しょうじろく)には道祖とあり、フナドと訓じられています。また
934年(平安・承平4)「倭名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)
には道祖の字に対して「和名、佐倍乃加美(さへのかみ)」と訓読
しています。

 道祖神は猿田彦神の神話とも習合しています。これは「古事記」
に、天孫降臨の際に猿田彦が道を照らして先導したとあり、道祖神
にも通じるようになったとあります。猿田彦はまたその容貌から天
狗の「祖」として「山の神」の信仰もうけ、また庚申のをサルと訓
ずるところから、庚申信仰にも流れます。

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 道祖神の祭は1月14、15日ころ行われるのが普通。道の辻に竹
やわらを積み上げて火をつけます。家々の門松や正月に飾ったご弊
や供物を焼くこのとんど、左義長は持ち寄ったモチなどを焼いて食
べ村人の無病息災、家内安全、五穀豊穣、交通安全などなどの祈り
がこめられています。

 千葉県印旛郡周辺にはこんな話が伝わっています。足の悪い道陸
神が、弁天さまに思いを寄せていました。ところが、弁天さまはそ
んな道陸神が気に入らず、橋を渡って逃げていってしまいました。

 道陸神は追いかけることができません。悲嘆にくれる道陸神……
しかし気をとりなおし、弁天さまは必ず戻ってくることを信じ、き
ょうもまた、村はずれで待っているのだとしています。

 道祖神といえば長野県安曇野です。なかでもJR大糸線穂高駅周
辺の辻々にたたずむ道祖神群は著名です。ならんだ男女2神が穏や
かな表情で手を握りあったり、肩を組んだりする仲睦まじい姿は、
見に訪れる観光客の心をなごませてくれます。

 穂高町観光協会発行のパンフには道祖神めぐりのコースがいくつ
か用意されていて、レンタル自転車で回る人たちも多い。ほとんど
の道祖神は屋根付きの柵のなかに収まっています。盗難や拓本から
守るためのものでしょうか。写真がうまく撮れないのが残念です。

 しかし、広がる田園地帯をレンタル自転車でめぐったの数時間。
春の安曇野はナノハナとサクラで満開。遠く雪をかぶった常念岳が
ほほえんでいるようでした。

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■馬頭観音

 山深いいなか道を歩いていると、道ばたに馬の顔を彫った石像が
こけにまみれて建っています。かたむきかけた塔に馬頭観音と文字
を彫ったものもあります。

 馬頭観音は変化観音のひとつで馬の供養塔です。文字通り馬の頭
を持つ観音さまです。形はただの文字塔だったり、馬の顔を頭に乗
せた像などいろいろです。

 馬頭観音は馬頭観世音の略で、馬頭菩薩、馬頭大工、馬頭明王と
もいい、六観音の一つでまた八大明王のひとつでもあります。魔障
を払い、慈悲を給う菩薩です。

 農業がまだ機械化されていなかった昔は、水田の耕作から作物の
運搬、人の運送まですベては馬を頼りにしていました。農家は馬を
それは大切にし、厩舎(うまや)を住まいと一緒に建て、共に寝起
きして家族同様の生活をしました。

 いまでもカの単位に「馬力」を使ったり、「馬力のあるヤツだ」
などといったりします。昔から武士は槍一筋は百石の侍、馬1頭は
200石の侍といわれてきましたが、武士の限らず農家でも馬がい
るかいないかで、その家の裕福さの度合いがわかったという。

 また祭りなどには、腹かけをかけをして着飾り、祝いの行列に参
加させるなど、馬は特別な待遇を受けていました。

 こんな大事な馬ですから、死んだら峠や山道、死馬捨て場などに
馬頭観音塔を建立して供養、同時に他の馬の無病息災を祈ります。

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 馬頭観音塔の中でも、自家で飼っていた馬を供養するために建て
た塔は概して小型です。これに対して大型のものは、馬持ち講中な
ど牛馬に関係のある職業集団や、馬頭講、観音講の講中の造った像
が多い。この場合は、不特定の馬の供養であり、馬の無病息災の祈
願が込められているのだそうです。

 馬頭観音は、馬頭金剛明王ともいい、もともとは馬の守り神とは
関係ない仏さま。観音のなかではめずらしくこわい顔をしており、
三つの顔にそれぞれ三つの目があり、は眉間にたてについています。
口からは牙までつきだしています。これは悪に染まった人々の度胆
を抜き、威力で魔性を打ちくだき、導こうとする勧善懲悪の姿だと
いいます。

 馬頭観音は、紀元前1200年にインドで編さんされた『リグ・
ベーダ』に出てくるペードウ王の神話が起源だといいます。いつも
毒蛇に苦しめられていたペードウ王を、神から授かった駿馬が毒蛇
と戦い退治してくれたという神話です。

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 馬頭観音の恐しい顔は、その時の奮闘の姿をあらわしているとい
います。また、ヒンズー教神話の、シバ神とならんで有名なビシュ
ヌ神は、悪魔を退治するため10の動物や英雄神に姿を変えるとい
い、その化身のひとつが仏教にとり入れられ、馬頭観音になったと
もいわれています。

 頭に馬をのせている馬頭観音塔もあります。これは世界を統一す
る力をもっているという転輪聖王(てんりんじょうおう)の馬が、
四方をかけめぐって魔性を蹴散らし、邪悪な心を喰いつくす意味だ
という。のち六道の畜生道救済の意味からいつの間にか馬の守り神
にされ、塔に建立されるまでになったのだそうです。

 馬頭観音は悪人をこらしめ、諸病をとり除き、天変地異を防ぎ、
悪人との論議得勝を祈るためにまつります。また天台大師の「摩詞
止観(まかしかん)」(第二)では師子無畏観世音と名づけ、六観音
のひとつ、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の中の畜
生道の救済にあたる仏尊になっています。

 しかし、こんな小ムズカシイことはさておき、農山村の馬頭観音
はあくまでもわが家の労働力であり、働き手である馬の供養と安全
と健康を祈るためのものです。

 馬頭観音の信仰は、弘法大師の入唐以来日本に伝来したといい、
大分県大分市の平安時代の五尊磨崖仏の中にも馬頭観音雪石仏があ
ったという。鎌倉時代、武家社会のなかで馬は大事な武器であった
ことからこの信仰が流行したという。

 江戸時代になると馬頭信仰はすっかり定着。馬の守り神として民
間に広まり、江戸時代中期には道ばたに石像が建てられるようにな
りました。

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 路傍の馬頭観音の像は、一面二臂、三面六臂や三面八臂像が多く、
両方ともに立像と座像があります。頭の上の馬は一頭のものがふつ
うですが、栃木県那須町には頭上に五頭刻んだ塔があるとか。

 これら複数のものは、その刻んだ頭数の供養を意味するのだとい
う。また、一基に一面二臂像を二体彫った双体馬頭観音像も山梨県
塩山市にみられます。

 馬頭観音には像だけでなく、角柱や自然石に馬頭観世音、馬頭尊、
馬頭宮、馬頭大士などと、文字だけのものも多く、これは像のもの
より新しいという。馬とならんで人間の役に立ったのがお牛サマ。
馬ばかりでは片手落ちです。

 そこで牛頭観音というのを作りまして同じように道ばたにまつっ
てあります。牛馬一緒の石碑も時折り見られ、牛馬観音と書かれて
牛、馬の絵が彫られています。なかには「豚頭観音」まであります。

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■出羽三山供養塔

 出羽三山の供養塔は山形県中央部の羽黒山・月山・湯殿山の三山
を信仰する人たちが建てた供養塔。出羽三山の最高峰は月山で、地
形的にはひとつの山ですがその三つのピークを三山としています。

 ここは6世紀末崇峻天皇の皇子蜂子皇子によって開山されたとい
われる修験道・羽黒修験の本拠です。いま羽黒山に伊?波神(いで
はのかみ)をまつる出羽神社、月山に月読命(つきよみのみこと)
の月山神社、湯殿山に大山祇命(おおやまずみのみこと)をまつる
湯殿山神社があります。

 供養塔は江戸時代中期の宝暦(1751〜64)年間ごろから盛
んに建てられるようになり、幕末のころが最盛期といいます。文字
は関東では真ん中に高く「湯殿山」、一段低く右に「月山」、左に「湯
殿山」とあるものや、また「湯殿山大権現」、「羽黒山大権現」、「月
山大権現」と掘られたものがあります。

 しかし明治時代に入り、例によっての神仏分離、廃仏棄釈の嵐が
吹き荒れてからは、大権現の文字は消え神社の文字が多くなります。
私の故郷の千葉県は供養塔がとくに多いそうで、「月山神社」、「羽
黒山神社」「湯殿山神社」と書かれた供養塔は普通に見られます。

 講中は三山講、湯殿山講、権現講、奥講などと呼ばれ、出羽三山
に参詣して五穀豊穣、家内安全、無病息災を祈願します。この講は
地域ごとに組織され、くじ引きでことしの参詣者(代参者)を決め、
参詣者は精進潔斎を行い、村の鎮守に道中の無事を祈願して出発し
たという。

 家内の祖父が出羽三山の先達で木更津市の近郊の実家に修験者が
泊まりに来たといい、よくホラ貝を吹き大勢を連れて出羽三山へ案
内していったそうです。形見分けにもらった装束を大事にしていま
す。

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■木曽御嶽講碑

 木曽御嶽山や各地の御岳神社で「御嶽山蔵王大権現」と書かれた
石碑を見ます。御嶽講の講中が建てた石碑で、「御嶽山大神」や神
像を彫ったものもあります。

 明治の神仏分離令は木曽御嶽講碑にも影響があり、権現や天王の
文字は禁止され、神道系の「御嶽山国常立命(くにとこたちのみこ
と)」など神社にまつってある神さまの名になりました。また「御
嶽神社」と書かれたものもあります。

 御嶽山は全国にある「御岳(みたけ)」のひとつ。よく国御岳と
いわれるようにその国その国のなかで一番とする山を特別に「みた
け」といっていたようです。山頂下の広場に祭神たちと一緒に覚明
(かくみょう)霊神、普寛(ふかん)霊神、一心霊神の石像があり
ます。

 江戸も後期の天明5(1785)年、いままで75日から100
日間の精進潔斎(しょうじんけっさい)を通過した道者だけに許さ
れた登拝を、覚明行者が黒沢口から水行だけの軽い精進で登ってみ
せ、一般信者も気軽に登れるきっかけをつくりました。

 つづいて1792年には江戸の修験者普寛行者が王滝口の登山道
を開き、講も組織したため信者がさらに登りやすくなり、御嶽信仰
は全国に普及、多くの御嶽講ができました。

 私の祖母と母親、伯母は木曽の御嶽山の信者で、毎年夏になると
講を組んで御嶽山に登っていました。私はこのおばあさんが好きで
よく泊まりがけで遊びに行きました。

 時々腹痛など起こすと、すぐ御嶽山の霊薬「お百草」なるものを
飲まされました。コールタールのような真っ黒な堅いもので、その
にがいことといったら……。これが苦手で「お百草」を持ち出すと
「なおった、なおった」と逃げまわったものでした。いまでも従兄
たちは毎年登っているようです。

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(第9章終わり)

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