『いなかの神さま仏さま・上』(山と峠の神々)
第5章 仙 人

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▼05-01「仙人とは」

【序文】140字

仙人峠とか仙人窟などの地名も多く目につき、仙人は天狗とともに
むら里にはつきものです。仙人には天仙、地仙、尸解仙、陸仙、仙
女などの種類があるといいます。仙人は肉食をせず、仙人になる薬
を飲んでいるという。その仙人にも落ちこぼれがいて、飛翔術が未
熟で2、3mのところをヒョロヒョロ。悪ガキどもに竿で追いかけ
られたという。

▼05-01「仙人とは」

【本文】
天狗とともに山につきものは仙人です。仙人は人偏に山。中国の神
仙思想や道教によって想像された理想的な人間像で、不老不死の術
を修め神通力で空を飛び俗世間をはなれ、文字通り山の中に住むと
いわれます。仙人の「せん」は「遷」で山に遷(うつ)りすむ人を
いうのだそうです。昔は「僊人」とも書いたそうです。

仙人は肉食をしないという。また仙人になる薬があるという。最上
薬が「金丹」というもので、以下、上薬に、「丹砂」・「黄金」・「白
銀」・「五芝」・「五珠」・「真珠」。中薬に、「雲母」・「雄黄」・「石中黄
子」・「石桂」・「石英」・「石脳」・「石硫黄」・「石飴」・「曽青」。また、
松葉や松ヤニ、松の実、茯苓、地黄、ゴマ、黄蓮、コウゾの実など
も食べるという。

仙人には天仙、地仙、尸解仙(しかいせん)、陸仙、水仙、新仙、
童仙、玉女、仙女などの種類があるといわれています。また日本で
は、仙人へのなり方で神仙(神)、仏仙(僧として修行を積んで仙
人になった)、尸解仙(死んだのち、屍ごとなくなり仙人になって
いた)と分けています。

中国の仙人の本『列仙伝』や『神仙伝』にならって、日本にも『本
朝神仙伝』という本がつくられました。この本は、平安後期の1097
(承徳元)年ごろの成立で、著者は文人官僚・大江匡房(おおえの
まさふさ・1041〜1111年)だろうといわれています。

この本にあげている仙人は、「(1)大和武尊(やまとたける)。(2)
聖徳太子。(3)武内宿禰(たけしうちのすくね)。(4)浦島太郎。
(5)役ノ行者。(6)徳一上人。(7)泰澄上人。(8)久米仙人。
(9)都藍尼(とらんに)。(10)善仲上人。

(11)善算。(12)窺詮(きせん)法師。(13)行叡居士(ぎょうえ
いこじ)(14)教待(きょうたい)和尚(15)報恩大師。(16)弘法
大師。(17)慈覚(じかく)大師。(18)陽勝仙人。(19)陽勝仙人
の弟子の仙(ひじり)。(20)河原院の大臣(おとど)の侍。(21)
藤太君(とうだのきみ)。(22)源太君(げんだのきみ)。(23)売白
箸翁(白箸を売るおきな)。(24)都良香(みやこのよしか)。(25)
河内国樹の下の僧。

(26)美濃国の河の邊(ほとり)の人。(27)出羽国石窟の仙(ひ
じり)。(28)大嶺(おおみね)の僧。(29)大嶺山の仙。(30)竿打
ちの仙。(31)伊予国長生(ちょうせい)の翁。(32)中算(ちゅう
ざん)上人が童(わらべ)。(33)橘正道。(34)東寺の僧。(35)比
良山の僧。(36)愛宕護(あたご)山の僧。(37)沙門日蔵」の37
仙があげられています。しかし、順番が下がってくるにつけ名前が
分からない人も出てきて、(35)比良山僧は、比良山に住む何某の
僧ということになっています。この僧は、仙道を学び修行を重ねて、
ならぶ人がいないほどの能力を身につけていたという。

ある日、琵琶湖を行く船に、鉄鉢を飛ばす「飛鉢の法」で托鉢に行
かせました。その船には大津に向かう米俵を積んだ官米輸送の役人
が乗っていて、飛んできた鉄鉢に、「薄汚い鉢がまた飛んできた。
米が欲しいならこれでどうだ」と、小さな鉢に米俵を乗せたところ、
空に舞い上がり比良山の向かって飛んで行きます。ところがその後
を追って船の中の俵が次々に飛んでいきます。あわてた役人が比良
山の仙人に平身低頭して謝り、米を返してもらったということです。

また36の愛宕護僧は京都愛宕山に住む僧侶のことで、やはり氏も
素性もいつからこの山に住みついたかも分からないという。この仙
人は持っている銅の瓶を飛ばす術があり、大堰川まで飛ばして水を
汲んで来させるという。比叡山に増賀上人(1003年没)という名
僧がおり、8人の弟子をこの仙人につかせて修行させたことがあり
ました。8人は修行を積み薄い板の上に乗ってもたわわない位に身
が軽くなりました。しかし仙人は、弟子たちのトイレの便を点検し、
「お前たちは米の飯を食べているのか。それでは仙人にはなれない」
とたしなめたというエピソードも残っています。

また仙人のなかには落ちこぼれ仙人もいます。(30)の竿打仙人が
その人。奈良時代、大和の国出身の「竿打(さおうち)仙人」と
いう仙人がいました。これが未熟な仙人で、仙薬を飲んで一生懸
命修行をしますが、いっこうに空を飛べません。半分あきらめか
かっていたころ、勢いをつけて飛び上がったら、どういうはずみ
か、2〜3mの所をヒョロヒョロ飛べるようになりました。それ
でも大人たちは、普通の人のできる技ではないとすっかり感心し、
うわさになりました。

しかし、喜んだのは悪ガキどもです。トンボやチョウを追うのと
同じように、竿をもって仙人を追い回します。竿打仙人はあわて
にあわてて、必死に逃げ回ったということです。竿で追いかけら
れていたので「竿打仙人」と呼ばれていましたが、いつしかいな
くなり「その終(は)つる所を知らざりけり」と『本朝神仙伝』
は書いています。

▼【参考文献】
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成
1)
・『大日本百科全書13』(小学館)1987年(昭和62)
・『東西遊記2』(西遊記)橘南谿(東洋文庫249)宗政五十緒校注
(平凡社)1988年(昭和63)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『本朝神仙伝』大江匡房著(日本古典全書・古本説話集 川口久
雄・校注)(朝日新聞社)1971年(昭和46)
〃▼『南方熊楠全集8』南方熊楠著(平凡社)1991年(平成3)

 

 

 

 

 

▼中 扉

【仙 人】 このページの目次
 ・仙人階級 ・日本の仙人 ・伊吹山飛行上人
 ・陽勝仙人 ・浦島太郎神 ・役ノ行者
 ・久米仙人 ・竿打ち仙人 ・武内宿禰
 ・泰澄上人 ・日本武尊 ・都藍尼
 ・八百比丘尼

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■仙人の階級

 仙人は人偏に山。中国の神仙思想や道教によって想像された理想
的な人間像で、不老不死の術を修め神通力で空を飛び俗世間をはな
れ、文字通り山の中に住むといわれます。仙人の「せん」は「遷」
で山に還りすむ人をいうのだそうです。

 仙人は道教でいう「神仙」と仏教でいう仏仙とに大別されます。
道教での仙人は六朝(りくちょう)時代になると服用する仙薬など
によって階級(段階)があるとされていました。中国の「抱朴子」
という古書には天仙、地仙、尸解仙(しかいせん)があるとし、天
仙は上士(徳が高くすぐれた人物)がなれるもので、白昼大勢が見
ている中を悠々と昇天でき、「仙中の仙」とされています。

 地仙は、中士がなるもので山中に住み、修行に励んでその道をき
わめて、または世のため人のためになり、やがて天宮に天仙として
迎えられるという。この仙人は街の中にいても職や名誉におぼれず
家族にも内緒でただただ仙道に邁進しているものもいるという。た
だ共通なのはきまって酒が好きだという。

 一方、尸解仙は下士がなるもので、黙々と仙道を学び、道を極め
た果てに肉体が亡び、魂が抜けたのち体もいつしか消えて魂と結び
つくのだという。これは普通の人でもそれなりの努力をすれば仙人
になれる道ながら、仙人道では天仙、地仙の次の位だというから残
念です。

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 そのほかに、陸仙、水仙、飛仙、新仙、童仙、玉仙、仙女がいる
という。この中の童仙は、絵などでよく見るように仙人のそばにい
つもいて、用事を言いつけられたりする子どもです。しかし、どこ
から連れてくるものか、その素性などは不明になっています。

 女性でも道を極めれば仙人になれるという。これにも玉仙と女仙
があるといいます。漢の「列仙伝」という仙人を選出した本に載っ
ている仙人のうち、5%は女仙だといいます。

 仏教でいう仙人は、僧として修行を積んで仙人になった仏仙で、
大仙、仙聖、仙とも呼ばれています。中国の「列仙伝」や「神仙伝」
を模してつくられた「本朝神仙伝」があります。この本は、平安後
期の1097(承徳元)年ごろの成立で、著者は大江匡房(おおえ
のまさふさ)という人だとされています。

ここでは、37人の仙人のうち、泰澄上人など僧侶が18人、仙人
が8人(うち久米仙人など3人は仏仙)、そのほかの人は11人と
なっています。そのほかの仙人の中でも聖徳太子や役ノ行者などほ
とんどが仏教系統で占められています。

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■日本の仙人

 日本の古来からの仙人を集めた最初の本に「本朝神仙伝」があり
ます。「本朝神仙伝」は、平安後期の1097(承徳元)年ごろの
成立した本で、著者は文人官僚・大江匡房(おおえのまさふさ)(1
041〜1111年)という人だろうといわれています。

 これは中国の「列仙伝」や「神仙伝」という本を模してつくられ
たもの。「列仙伝」は前漢劉向(りゅうきょう)(紀元前8年頃没)
の作で71人が、「神仙伝」は晋の葛洪(かつこう)(343年ごろ
没)作で、92人の仙人が集められています。

 それに対して「本朝神仙伝」にはわずか37人。少ないといえば
少ないですが、中国の仙人には、両手で落ちかかる大空を支えたと
される盤古大王(ばんこだいおう)のような、日本での天地創造の
神まで入っています。しかし「本朝神仙伝」には、3世紀以前の神
である伊弉諾尊や伊弉冉尊、天照大神など神話の神は載っていませ
ん。また圧倒的に仏教系が多く、神仙思想が山岳宗教や仏教に近し
い関係にあった日本の状況をあらわれているとされています。

 「本朝神仙伝」に出てくる仙人.たちは、1倭武命(大和武尊)
 2上宮太子(聖徳太子) 3武内宿禰(たけのうちのすくね) 
4浦嶋子(浦島太郎) 5役ノ行者(役ノ小角) 6徳一大徳 7
泰澄大徳 8久米仙 9都藍尼(とらんに)(女仙人) 10善仲 11
善算 12窺詮法師 13行叡居士(ぎょうえいこじ) 14教待和尚
(きょうたいおしょう) 15報恩大師 16弘法大師 17慈覚大師
 18陽勝仙人 19陽勝仙人弟子仙 20河原院大臣侍 21藤太君 
22源太君 23売白箸翁 24都良香 25河内国樹下僧 26美濃国
河邊人 27出羽国石窟仙 28大嶺僧 29大嶺山仙 30竿打仙(竿
打ち仙人) 31伊予国長生翁 32中算上人童 33橘正道 34東寺
僧 35比良山僧 36愛宕護僧 37沙門日蔵 の37人です。

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 このうち、3の武内宿禰、4の浦島子、6徳一大徳、8久米仙、10
善仲、11善算、12窺詮法師の7人の伝記は脱落しています。

 順番が下がってくるにつけ名前が分からない人も出てきて、35
比良山僧は比良山に住む何某の僧ということになっています。この
僧は仙道を学び修行を重ねて、ならぶ人がいないほどの能力を身に
つけていたという。ある日琵琶湖を行く船に、鉄鉢を飛ばす「飛鉢
の法」で托鉢に行かせました。

 その船には大津に向かう米俵を積んだ官米輸送の役人が乗ってい
て、飛んできた鉄鉢に「薄汚い鉢がまた飛んできた。米が欲しいな
らこれでどうだ」と、小さな鉢に米俵を乗せたところ、空に舞い上
がり比良山の向かって飛んで行きます。ところがその後を追って船
の中の俵が次々に飛んでいきます。あわてた役人が比良山の仙人に
平身低頭して謝り、米を返してもらったということです。

 また36の愛宕護僧は京都愛宕山に住む僧侶のことで、やはり氏
も素性もいつからこの山に住みついたかも分からないという。この
仙人は持っている銅の瓶を飛ばす術があり、大堰川まで飛ばして水
を汲んで来させるという。比叡山に増賀上人(1003年没)とい
う名僧がおり、八人の弟子をこの仙人につかせて修行させたことが
ありました。八人は修行を積み薄い板の上に乗ってもたわわない位
に身が軽くなりました。

 しかし仙人は、弟子たちのトイレの便を点検し、「お前たちは米
の飯を食べているのか。それでは仙人にはなれない」とたしなめた
というエピソードも残っています。

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■伊吹山飛行上人

 滋賀県と岐阜県にまたがる伊吹山(1377m)は高山植物の大
宝庫。その数1700種におよび、頭にイブキの名をつけた植物は
32種もあると聞きます。開山は奈良時代の開山といわれるだけあ
って「古事記」や「日本書紀」にも登場。荒ぶる山神が宿り、妖怪
や天狗も棲むといわれるなど神秘の山。

 伊吹山の「イブキ」は、古来、荒ぶる山神が山気や霊気を吐く「息
吹き」の意味の恐れられた山。日本武尊とも関係の深いとされ、ま
た鎌倉時代には、悪業を働いたとして佐々木信綱に討たれた柏原庄
(いまの滋賀県山東町)の柏原弥三郎為長の霊が伊吹山に宿ってい
るという。この山の妖怪・伊吹童子(伊吹弥三郎)は、弥三郎為長
の霊だとされるなど不思議な話がたくさんあります。

 その昔、伊吹山には三朱沙門(さんしゅさもん)飛行上人という
天狗が数百年も苦行を重ねて住んでおり、山のあちこちの峰に仏跡
を残したといいます。室町時代の説話集で、僧の沙弥玄棟(しゃみ
げんとう)作「三国伝記」飛行上人ノ事の項には、三朱沙門という
のは、上人の体重がわずかに3朱(1朱は1匁の4分の1だから3
朱は4分の3匁・それだけ身が軽かった。ちなみに1匁は3・75
グラム)。

 修行の功積んで、山や谷もちろん、岩壁であろうが、何の苦もな
く飛び越えることができたので飛行上人と呼ばれました。そして伊
吹山中に長尾、弥高、遍満の三つの寺を開いたとあります。

 ある時、都の帝が飛行上人の名声を聞いて、重い病気にかかって
いる皇后のために、加持祈祷するよう使いを出したという。険しい
道をやっとの思いで勅使が伊吹山山頂までくると、飛行上人は白雲
のかかった屏風のような大岩に足を組んですわっていました。

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 使いの話を聞いた上人は一本歯の高下駄をはいたかと思うと、勅
使を抱えて空に飛び上がりそのまま琵琶湖を飛び越えて、御所の庭
に降り立ちました。休む間もなく祈祷に入り、しばらくすると皇后
の病気はたちまちのうちに治ってしまったという話が残っていま
す。

 また「今昔物語」巻第十二の第十二に、三修禅師が学業を放り出
し念仏の功徳だけで往生を遂げようと念仏三昧。それを憎んだ伊吹
の天狗が如来の迎えが来たといってだまし、大杉の梢に裸で縛りつ
けた。

 それでもまだ念仏を続けている僧を弟子たちが見つけ助け下ろし
ましたが「仏さまが迎えに来るというのになぜ助けて往生のじゃま
をする」と恨み言をいいながら死んでしまったという。この悪戯を
した天狗は飛行上人の弟子の話ではないかと研究者はいっていま
す。

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■陽勝仙人

 「今ハ昔、陽勝トイフ人有リケリ。能登ノ国ノ人也」。「今昔物語
集」巻第十三の一文です。陽勝仙人は平安時代初期の坊さんで、日
本の仙人伝には必ず出てくる名。慈悲深く着るもののない人には自
らの着ているものを脱いで与え、食べるものがない人には自分のも
のを食べさせ、虫や蚊にまで自分の血を吸わせたというほどの人物
です。

 貞観11(869)年の生まれながら仙人だけに没した年は不明
です。母親が日光を呑む夢を見て懐妊したといわれ、生まれつき聡
明で一度聞いたことは忘れることはなかったという。11歳の時、
比叡山に登り空日律師に師事し勉学にいそしみ、ほとんど睡眠も取
らずに修行しました。

 のち、大和国(奈良県)の吉野に入り、夏は金峰山(きんぷせん)
に登ってこもり、冬は六田の牟田寺(むでんじ)に下って修行を続
け、その間穀物を絶ってアワ一粒を食べて過ごしていたという。8
0余歳でついに仙人になり、冬でも布団なしで寝て、厚着もせず、
お香の煙に乗って空を飛べたという。

 その後、山に入ってしまいましたが、大峰山山上ヶ岳(1719
m)の信仰登山の基地、洞川集落の竜門寺や熊野社あたりに時々姿
を見せ、風のような早さで雲のように軽々と飛んでいたという。

 また陽勝仙人は神通力で父の臨終を知り、その家の屋根の上に飛
んできて法華経を読経しました。それを聞いた人が外へ出て屋根の
上を見ましたが姿はどこにも見えませんでした。

 そのころ比叡山西塔で毎年8月に行われていた不断念仏には、陽
勝仙人は必ずどこからともやってきて「不断念仏を修する時だけ、
大空を焦がしている罪の業火が晴れるので空から降りることができ
る」などといっていましたがそのうちその姿も見せなくなってしま
ったということです。

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■浦島太郎神

 おなじみの浦島太郎も仙人です。あの「日本書紀」の(雄略二十
二年の条)には瑞江浦嶋子(みずのえのうらしまのこ)の名前で載
っています。「丹波の国余社郡菅川(よざのこおりつつかわ)の人、
瑞江浦嶋子が舟に乗りて釣す。遂に大亀を得たり。便(たちまち)
に女(をとめ)に化為(な)る。是(ここ)に、浦嶋子、感(たけ)
りて婦(め)にす。相逐(あいしたが)ひて海に入る。蓬莱山(と
こよのくに)に到りて、仙衆(ひじり)を歴(めぐ)り観る」とあ
ります。

 同じころできた「丹後国風土記」にも同じようなことが載ってお
り、「万葉集」にも登場するから有名な話です。その他平安初期に
は「浦島子伝」、平安後期に「本朝神仙伝」などいろいろな古書に
登場します。室町時代にできたといわれる「御伽草子」になって、
はじめて浦島太郎の名があらわれ、次第に話に尾ひれがつきはじめ
たとされています。

 それによると、釣りをしている時、ある女性に出会った太郎は一
緒に舟で沖へ出て女性の故郷へ行きました。そこは竜宮城で浦島太
郎は大歓待を受けます。二人は夫婦になって毎日を楽しく暮らしま
した。女性は以前助けた亀だったのです。こうして3年が過ぎてか
ら、太郎が故郷に帰ってみるとあたりはすっかり荒れ果て虎でもす
むような野原になっています。

 そのあたりの家の老人に事情を聞くと「そんな話は700年前に
あったそうです」とのこと。太郎は悲しみのあまり亀にもらった箱
を開けると紫の煙が立ち上りたちまち太郎は老人に変わり果ててし
まいました。そして浦島太郎は鶴の姿になって大空の飛び立ってい
ったのでした。

 のち、丹後国(京都府)に浦島の明神としてあらわれ、亀も一緒
に夫婦の明神となった。このように鶴や亀はめでたい事のたとえに
いう。浦島太郎をまつる所は京都府丹後半島の各地に多く、特に与
謝郡伊根町の宇良神社が有名。また長野県上松町の寝覚ノ床や神奈
川県横浜市にもあります。

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■役ノ行者

 修験道の祖・役ノ行者の石像も各地の岩屋や祠の中に見かけま
す。やせた体に高げた、杖を持ちこわ−い顔をしてにらんでいるあ
れです。かたわらに前鬼・後鬼という2匹の鬼を従えています。役
ノ行者は飛鳥時代の人。平安時代後期の文人・大江匡房(まさふさ)
が著した「本朝神仙伝」という本には、37人の仙人中、5番目に
選ばれています。

 役ノ行者は、本名役ノ小角(おづぬ)。役ノ公(えんのきみ)、役
ノ優婆塞(えんのうばそく)、小角仙人などとも呼ばれます。63
4(舒明6)年1月1日、いまの奈良県御所市茅原(ちばら)で生
まれたという。現在も生家(吉祥草寺というお寺)には「役ノ行者
産湯の井戸」や「腰かけ石」のほか行者堂などがあります(JR和
歌山線玉手駅から歩いて10分)。

 父は賀茂(かも)の公(きみ)大角(おおづぬ)といい、葛城山
の神のお告げを朝廷に奏上する呪術者だったそうです。茅原郷は葛
城山(いまの金剛山から大和葛城山などの一帯)のふもと。

 小角は13歳のころからこの山に入り、木の実や薬草を食料に蜂
や谷をかけめぐったという。こうして自然と一体となって成長した
小角は、17〜18歳になると鳥獣を手なづけるまでになり、つい
に山の神である一言主(ひとことぬし)の神までを自由に使役する
ことができたといいます。

 役ノ行者が開山したとされる山は各地にやたらに多くあります。
その数全国で80座とも90座ともいわれます。

 「役行者本記」によれば「飛鳥時代の天智天皇9(670)年、
小角は37歳。7月に大峰山を出発し、3日のうちに出羽の国の羽
黒山に着き、それから、出羽の国の月山・湯殿山・金峰・鳥海山、
奥州の秀峰などを巡って、22日後に大和に帰ってきたという。お
よそ里数にして三千百里」とあります。

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 以下、赤城山、日光、弥彦山、立山、白山、越智山、比叡山、愛
宕山。白峰、富士山、箱根矢倉岳、丹沢大山、天城山、筑波山、浅
間岳、甲斐駒ヶ岳、御嶽山、鳳凰山、伊吹山、笠置山。五剣山、背
振山、英彦山、高良山、石鎚山、鹿児山、高千穂ノ岳、速日岳、湯
布岳、宇佐山、阿蘇山、朝倉山、宝満山、宗像山、面影山、岩国山、
厳島、式部山、黒髪山、伯耆大山、大江山、熊野三山、三栖山、生
駒山などとならびます。67歳までの間だそうです。しかし山とい
っても名刹の山号もあるため、どこまで山の数に入れたらいいのか
迷うのが難点です。

 のち、行者は母を鉢に乗せて大空に飛び立ち唐に渡って仙人にな
ったと伝えます。

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■役ノ行者 岩橋伝説

 役ノ行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)には、奈良県の大峰山
(おおみねさん)系の吉野金峰山(きんぷせん)から葛城山(かつ
らぎさん)へ空中に岩の橋を造ろうとした伝説があります。いまで
もその橋のたもとの造りかけがあるという。ある本で「河内誌」の
こんな一文を見つけました。

 橋の造りかけは「平石村(いまの大阪府河南町平石地区)の山上
にあり。其の広さ五尺、長さ七尺ばかり。右の方少し欠けたり、上
は板を架すがごときもの四つあり。両端やや高うして欄基に似たり。
形勢南方に及ばんとす。実にこれ天造なり」。

 この造りかけたあとが、大和葛城山の北方の岩橋山の大阪側にあ
る「久米の岩橋」だという。こんな話を聞き、物好きにも登ってみ
ました。なるほど、周辺には見あたらない大岩が橋の基礎らしく金
峰山方向に築いてあるのも不思議です。

 この岩橋伝説というのはおおよそこんな内容です。

 奈良県と大阪府にまたがる葛城山系から信貴山(しぎさん)、生
駒山(いこまやま)などで修行した役ノ行者小角(えんのぎょうじ
ゃおづぬ)は、すでに神格を具え、多くの弟子を従えて、葛城山と
大峰山と交互に住みわけていました。それを見習いこの二大聖地を
目指して修行に入る人たちが次第に多くなってきます。

 行者はひと飛びで両山を行ったり来たりできますが、普通の人は
歩いて両方の山を往復するですから容易ではありません。そこで行
者は、葛城山と吉野金峰山の間の空中に岩で橋を架けて近道をつく
り、これらの人々を行き来させようと考えました。

 「今昔物語」にも「優婆塞(うばそく)諸々(もろもろ)ノ鬼神
ヲ召シ集メテ仰セテ云ワク、我、葛木(かつらぎ)ノ山ヨリ金峰ノ
山二参ル(葛城山ト金峰山トニ橋ヲツクリワタセ、我カヨフ「脱落
部分あり」)道ト為ム、ト」とあります。すぐ役ノ行者の忠実な従
者である前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)が全国の天狗や鬼神・山神た
ちを招集しました。

 集められた天狗や鬼神、山神たちは、嫌々ながら仕方なく行者の
命にしたがい、大岩で橋のたもとを作りはじめますがなかなか仕事
がはかどりません。気が短い役ノ行者は、やいのやいのとせき立て
ます。

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 天狗や鬼神たちは「私たちは姿形が見苦しいため、暗い夜に隠れ
て働きたい」というのを役ノ行者は叱りつけ、「早く作れ、もっと
働け」と責め立てました。ついに一言主(ひとことぬし)の神は「そ
れじゃ、こんなものやってられねえッ」と、仕事を放り出してしま
いました。怒った役ノ行者は一言主の神に呪文をかけて、クズのつ
るで7周り巻いてしばり、谷底に捨ててしまいました。

 それを恨んだ一言主神(ひとことぬしのかみ)が、都人(みやこ
びと)の心に取りつき「行者が謀反を謀っている」と朝廷にざん言
します。あわてた朝廷は行者小角(おづぬ)を伊豆の大島に配流(は
いる)させてしまったため、岩橋は未完成に終わったという。

 谷底に捨てられた一言主の神は、長さ2丈半ばかりの黒蛇になっ
てウロウロとさまようばかり。いまでは恨む気力もなくなり、萎え
てしまっていると書く本(「役行者本記」奈良時代・神亀元(72
4)年)まであります。この谷は「役行者本記」ではその谷こそ金
剛山東方・奈良県御所市(ごせし)の西にある「蛇谷」だとし、「本
朝神仙伝」では吉野になっています。

 ある年の4月、二上山から岩橋山・大和葛城山経由で金剛山(こ
んごうさん)を歩きました。地図に例の蛇谷の文字が目につきまし
た。しかしすでに太陽は西に傾いています。明日は紀勢本線の道成
寺駅で待ち合わせの約束があります。残念無念と今夜のテント場・
金剛山キャンプ場へ向かったことがありました。いまも心残りにな
っています。

 さて、伊豆大島に着いた役ノ行者は、昼間は刑を守っていますが
夜になると空を飛び、富士山にまで登ったり、天城・足利あたりの
山を開いたとされています。前述した各地の山々を開山したのはほ
とんどこの時だということになっています。朝廷からゆるされて都
に帰ったのは68歳、701年(大宝元)、あの大宝律令の年です。

 そしてその年6月7日、摂津国(せっつのくに)大阪府箕面山(み
のおやま・355m)から母親を鉄鉢に乗せて海へ浮かんで何処と
もなく去ったといわれています。

 その後、西遊記でおなじみの三蔵法師の弟子といわれる日本の僧
・道昭(どうしょう)が中国で修学を終え帰国の途中、高麗国で日
本語を話す行者と会い、名前を聞いたところ役ノ行者だとの事で驚
いたという話や、中国に渡って神仙になったいう話も伝わっていま
す。

 また、配流された伊豆大島に近い富士山麓では、西湖の真向かい
の十二ヶ岳も行者の修行した場所だとしています。その西にある鬼
ヶ岳は前鬼・後鬼の住処だったといわれています。いまでも山頂に
は鬼のシンボルの「角」の形をした岩があります。

 江戸中期には光格天皇から「神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)」
という贈り名を賜り、神格を備えたのでありました。

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■久米の仙人

 江戸時代の川柳に、「仙人様ァと濡れ手で抱き起こし」(空から落
ちてきた仙人を洗濯をしていた女性が介抱した)というのがありま
す。女性の太ももを見て神通力をなくした久米仙人は仏仙だという。

 天平年間というから西暦729〜749年、大和の国(奈良県)
吉野町の竜門寺に三人の仙人がいました。大伴仙人、安曇仙人、毛
堅仙人(けだちせんにん)のうち、毛堅仙人は竜門岳(904m)
の頂から葛城山の山神たちの所に通っていました。

 ある日飛行の途中、竜門岳西方、いまの明日香村の桧前川(久米
川)で洗濯をしていた女性の太ももの色を見て「通力立ちどころに
滅(き)えて、大地に落ち果てつ」と「本朝神仙伝」第八にありま
す。これが久米仙人で、川柳にも、馬鹿仙人がとから雲かへる也(仙
人が乗ってきた雲もあきれて空のまま帰っていく)とからかわれて
います。

 その後、久米仙人はその女性と結婚し俗人になって暮らしていま
した。聖武皇帝が東大寺を建立するというので、久米仙人も奈良の
都に行って人夫として働いていました。見回りの奉行が普通の人と
は違う一人に気づき、素性を尋ねたところ久米仙人だと分かりまし
た。

 そこで奉行は「まだ神通力が残っているようなら、吉野の山にあ
る材木を一晩で都に運んでみよ」と、からかって無理強いしてきま
す。久米仙人は吉野の方に向かって「鉤招(こうしょう)の印」を
結び念じると木材が後から後から飛んできて工事現場に積まれたと
いう。

 久米仙人はその後も行を積み最後は雲を呼び、妻とともに何処か
へ飛び去ったという。一説には神通力を知った帝は久米仙人に田ん
ぼ30町歩を贈与。仙人はそれを元手に橿原市に久米寺を建てたと
伝えています。

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■竿打ち仙人

 修行を積んだ不老長寿の仙人にも落ちこぼれがいます。奈良時代、
大和の国の人とだけで、氏も素性もはっきりしない「竿打ち仙人」
というのがそのヒト。

 これが未熟な仙人で、仙薬を飲み養性養生にこれ努め、一生懸命
修行をしますが、いっこうに体が軽くならず、空を飛ぶことができ
ません。生まれつき仙人には合わないのかと半分あきらめかかって
いたところ、勢いをつけて飛び上がったところ、どうにか2、3m
の所をヒョロヒョロと飛べるようになりました。

 大人たちはそれでも常人のできる技ではないので感心しきり。し
かし悪ガキ共は違います。トンボやチョウを追いかけるのと同じよ
うに、竿をもって追い回します。

 仙人は大あわてでヒョロヒョロ逃げ回ったという。竿で追いかけ
られていたので「竿打ち仙人」と呼ばれていましたが、いつしかい
なくなり「その終(は)つる所を知らざりけり」なのだということ
です。

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■武内宿禰

 武内宿禰(たけのうちのすくね)は、「日本書紀」や「古事記」
にも載る大和朝廷初期の人で日本最初の大臣。景行朝3(西暦73)
年に生まれ、景行天皇から成務、仲哀、神功皇后、応神、仁徳天皇
と六朝にわたって仕えたというからただ事ではありません。

 その子孫は巨勢氏、蘇我氏、葛城氏、平群氏などなどたくさんの
氏の始祖で、その氏族は古代の有力廷臣の半分以上を占めていると
いいます。

 景行天皇の時代には東国を巡察、成務朝で初めて大臣となり、神
后皇后を助けて新羅征討を行い、また皇后の命で忍熊王などの反乱
を鎮めたといいます。

 武内宿禰は仁徳朝78(390)年に没したとされ、317歳ま
で生きていたことになります。しかし異説も多く310歳から、な
かには380歳余りなどの説もあります。

 「本朝神仙伝」では「因幡風土記」を紹介し、難波高津宮(なに
わのたかつのみや)(仁徳帝)55年3月、大臣武内宿禰が360
余歳の時、因幡の国(いまの鳥取県東部)亀金に下向し双履(そう
り)(二つのくつ)のみを残し、お隠れのところを知らず。

 蓋(けだ)し聞く。因幡の国法美郡宇部山(別称因幡山)のふも
とに神社あり。宇部神社といえり。これ武内宿禰の御霊にます。昔、
武内宿禰、東国の蝦夷を平らげ還りて、宇部山に入りてのち、果て
ますところを知らず。

 宇部神社はいまの鳥取県岩美郡国府町にあり、因幡の国一の宮。
創立は648(大化4)年とされています。現在、宇部神社本殿の
裏には、武内宿禰が姿を消したとき残した双履にちなんだその名も
双履石という岩がならんでいるそうです。

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■泰澄上人

 白山開山の祖として知られる泰澄上人は、天武11(682)年、
越智山(おちさん)(613m)山麓・越前国麻生津(いまの福井
市)の生まれ。もとの名を「越ノ小大徳」といい、よく聞く越ノ大
徳と呼ばれだしたのは白山を開山してからだとか。

 11歳の時に北陸道を修行中の道昭上人(中国留学から帰国の途
中、高麗国で仙人になった役ノ行者に会ったという僧)に会い、泰
澄の神童ぶりをみて「敬愛を込めて育てるように」と両親に教えた
という。

 14歳の時、越智山に登り修行を重ね、21歳で鎮護国家の奉仕
に任命されます。この年に臥行者が入門、やがて浄定行者も加わり
ます。その後3人は、白山に登り白山修験道を開いていきます。

 泰澄上人は各地を遊行していましたが、奈良県葛城山では「岩橋
造り」の時、役ノ行者に反抗して呪縛されて谷底に捨てられている
一言主の神を自由にしてやろうとしたことがありました。3度目の
祈祷で呪縛が解けた時、天から「つなぎ結わえること、元の如し!」
という、役ノ行者の叱る声がし、泰澄の加持は破れたといいます。

 奈良時代の養老元(717)年、弟子の二人を連れて白山を開山
した泰澄は、白山妙理権現を感得し、その眷属一同をまとめて御前
峰にとどまっていると信じられています。また臥行者は奥ノ院に当
たる大汝峰に、そして浄定行者は別山で上人を助けているとされて
います。

 また泰澄が初めて白山に登った時の伝説があります。山上には3
千匹の大蛇がすんでいて山麓の住民を悩ませていました。大師は大
蛇たちを呼び集めて因果をふくめ、最も凶悪な1千匹を切って塚に
埋めました。これが白山の観光新道が阿弥陀ヶ原に入ろうとする所
に残る蛇塚だという。

 次の1千匹は千蛇ヶ池に、残る1千匹をかつて大師が祈祷を行っ
た付近の白山南麓の刈込池に封じ込めました。刈込池の1千匹には
逃げ出せないよう近くの峰に岩の剣を突き刺しました。それが別山
南にある三ノ峰付近の剣ヶ岩。

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 9月、南麓の福井県JR九頭竜線勝原(かどはら)駅のキャンプ
場を出るときから雨。市営バスを鳩ヶ湯で降り歩道をエンエン3時
間。刈込池付近の登山口から六本檜、剣ヶ岩付近に着くころは午後
4時をまわっていました。ダケカンバの根元に小さな平地を見つけ、
きょうはここでビバークと決めました。

 すぐ上に剣ヶ岩の看板。暖かいスープと般若湯で体を温めます。
食事をすましてテントの外に出たらナント、いつの間にか雨が上が
り満天の星。居待ち月が昼間のように明るく三ノ峰への稜線を照ら
しています。あのあたりが上人が神の夢告を受けた伊野原(石徹白)
か。神々しいというのはこんな風景をいうのでしょうか。

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■日本武尊

 「日本書紀」や「古事記」、また「風土記」などに伝承される日
本武尊も仙人として「本朝神仙伝」ではトップに選出されています。

 日本武尊が父景行天皇の命で西方の賊平定を果たし帰国すると、
今度は東方「十二の国」の荒ぶる神や従わぬ地方の王族の征討を命
じられます。「十二の国」とは、伊勢、尾張、参河、遠江、駿河、
甲斐、伊豆、相模、武蔵、総(安房・上総・下総)、常陸、陸奥をい
うのだそうです。

 早速、蝦夷東征に出発した日本武尊は伊勢神宮に参拝。この東征
で日本武尊が立ち寄った山は多い。奥秩父の雁坂峠で道に迷ってい
たところに白いオオカミがあらわれ、いまの三峰神社の場所まで案
内してくれたという。

 このことにちなみオオカミは神社の一族として「お犬さま」とあ
がめられ、秩父周辺ではオオカミの狛犬がまつられています。各地
で活躍した武尊一行は、相模の国(神奈川県)から浦賀水道を渡り、
房総半島の鹿野山の阿久留王を退治し北上します。

 山の名前がそのものの上州武尊山(2518m)。沖武尊近くの川
場武尊や前武尊にも日本武尊の像があります。上州武尊山を含んだ
群馬県利根郡には16もの武尊神社があり、すべて日本武尊を祭神
としています。

 昔、武尊山に悪者がはびこり村人を困らせていることを聞いた日
本武尊が討伐に出向きます。形勢不利とみた悪者の首領夫人は、土
出に逃げようと山麓片品村の花咲集落に下りましたがそこで息絶え
ます。その首領夫人の霊魂により石に花が咲いたと伝える「花咲石
明神」が、いまでも花咲集落中心部にあります。

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 また、武尊沢にある裏見ノ滝は「怨みノ滝」の意味で、尊がこの
山に陣を敷いたとき、妻が産気づき、看護の甲斐なく母子ともに亡
くなってしまいました。尊は悲しみ、裏見ノ滝で身を清めようとし
たところ、滝の音が急に大きくなり妖気がただよいだしたという。
これは妻の怨みのあらわれとみた尊はよりあつくとむらったと伝え
ています。

 東北まで平定し、尾張にもどった武尊は、近江の伊吹山に悪神が
いると聞き、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を美夜受比売(みやずひ
め)にあずけ、素手で立ち向かいました。しかし、たちまち山の神
の化身である大蛇の妖気当たり(伊吹山の神の降らす氷雨に惑わさ
れたとの説も)、意識を失ってしまいました。

 居寤清泉(いさめのしみず)(醒ヶ井)でいったん回復したのち、
たぎ野、杖衝坂と、杖を突きながら進むにつれ疲労は増して、三重
に着いたときは足が「三重」に折れるような状態だったという。

 そして能褒野(のぼの)(鈴鹿市)に着き、大和の国をしのんで
「思国歌(くにしのびうた)」を詠んで息絶えたと伝えています。
その後白鳥になって奈良を目指して飛び去ったという。伊吹山頂に
は、ユニークな四等身くらいの日本武尊の石像がまつられています。

 この白鳥が遠く千葉県の鹿野山に飛んできたという伝説があり、
鹿野山の一峰・白鳥峰肩には日本武尊をまつる白鳥神社があり、境
内に浦賀水道で入水した弟橘姫(おとたちばなひめ)の祠もありま
す。

 そのほか日本武尊にちなんだ山々は思いついただけでも、自分の
妻が恋しくなって「吾妻よ」といったことに由来するとの説もある
東北吾妻山、群馬県と長野県境の四阿山、茨城県加波山、筑波山か
ら八日間かけて到着したとされる両神山、秩父の宝登山、武尊が武
具・甲(かぶと)をまつったとされる武甲山、加波山、丹沢二ノ塔、
塔ノ岳、富士山、恵那山神坂峠、奥多摩御岳山など数知れず。また
各地に日本武尊をまつる神社が散在するのはご存じのとおりです。

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■都藍尼

 都藍尼(とらんに)は字のとおり女性の仙人・女仙です。大和(奈
良県)の人で吉野の山ろくに住み、仏法を修行し幾百年とも分から
ないほどの長く生きているという。ここは昔から女人禁制で、いま
でも大峰山山上ヶ岳周辺には女人結界門があります。都藍尼にとっ
てはどうも不満です。

 そこである日思い切って登りはじめました。するとたちまち雷や
稲妻が荒れ狂い、道にも迷いあわてて持っていた杖を捨てたところ、
杖がひとりでに大地に植わって大きな木になったという。踏んだ大
岩は次々に崩れて裂けてしまい、陥没したところが池になってしま
った。

 この杖が木になったところと、踏み外した大岩の下の池の2ヶ所
がいまでもあるという。その後、都藍尼は「その終わるところを知
らざりけり」と解説書にあります。なお、都藍尼は立山や白山、高
野山にも似たような登山伝説があるそうです。

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■八百比丘尼

 八百比丘尼(はっぴゃくびくに)も不思議な人です。800歳に
なっても美しい容姿が衰えず、まるで15、6歳に見えたというか
ら今どきのエステなど足もとに及びません。

 1449(宝徳元)年というから室町時代もそろそろ戦国期に入
るころの5月26日、八百比丘尼が若狭の国(福井県南西部)から
京都に出てきたという。色白で気品あり肌や姿も若々しく、「白比
丘尼」とか「八百姫」と呼ばれ、ひと目見ようとする群衆が集まり
尼が泊まっている庵に押し寄せたため、ついには入場料を取って門
の中に入れたという。

 その姿は御簾を通してしか見られませんでしたが大勢の人が列を
なしたという話があります。この時尼の年齢が800歳で、300
年余り前の源平の盛衰も目の当たりに見たし、越前(福井県中北部)
で、義経が弁慶や数人の従者が山伏姿で奥州に落ちていくのに出会
ったことがあると話しています。

 八百比丘尼は若狭の国小浜(小浜市)の生まれ。ある日父が人魚
を釣ってきました。少女だった比丘尼は、それをこっそり食べてか
ら長生きできるようになり、1千年の寿命をもらいましたが、うち
200歳を国主に譲ったので自分の分は残り800歳なのだとする
説もあります。

 比丘尼はツバキが好きで諸国を行脚の時、植えて歩き各地に普及
させたといわれています。現に比丘尼が訪れたといわれる東北地方
の海岸一帯には、ツバキの木の森が茂っておりそこは聖域になって
います。しかし長生きだけがいいことではありません。

 自分の長寿を恥じた八百比丘尼は、故郷の空印寺の洞くつににこ
もってしまい、人とも会わず静かに入定したといいます。空印寺の
うしろの山を「白椿山」といい、山頂に八百姫大明神があります。

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(第5章終わり)

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