『いなかの神さま仏さま・上』(山と峠の神々)
第2章 山の妖怪

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▼02-04「群馬県・妙義山のデエラン坊」

【序文】(140字)

大昔、群馬県の妙義山のあたりに雲を突くような大男が住んでいた
という。妙義山に足を乗せて昼寝していると、イノシシどもが大男
の足をヤマイモと間違えてかじりはじめました。怒ったデエランボ
ーは、イノシシをひとつかみ、鍋料理にすることにしました。千曲
川から水を汲み、浅間山から火種をとって焚き火をはじめた……。

▼02-04「群馬県・妙義山のデエラン坊」

【本文】
奇岩怪石が名物で、日本三大奇勝に数えられている妙義山には、4
つの石門や、大砲岩、轟岩、天狗の評定岩などがあり、人の目を驚
かします。妙義山はかつては波己曽(はこそ)山といっていました。
のち、妙義山と名前が変わるにはこんな理由があったそうです。南
北朝時代、南朝方に名臣といわれた、内大臣花山院(かざんいん)
右近衛大将藤原長親という人がいたそうです。

明徳5年(1394年)、この人が出家して耕雲明魏(こううんめいぎ)
法師と名前を変えて、洛東華頂山(かちょうざん・京都,東山三十
六峰の一)の奧に隠とん生活に入ります。10年あまりも過ぎてから、
関東方面に流浪の旅、妙義山に流れ着いて、ここで一生を終えたと
いう。

この妙魏法師を慕っていた民衆や、寺僧たちが塚を建てて妙義山の
祭神とし、山の名を明魏(妙義山)と変えたというのです。ただ『妙
義山』の一節「妙義信仰」(近藤義雄)では、この説に従えば「妙
義」の名は、南北朝末期からとなり、年代的にこじつけの感がある
としています。また「白雲山妙義大権現由来」という文献によれば、
妙義大権現は比叡山十三代目の座主(ざす)法性坊尊意僧正だとし
ています。

僧正は天慶3年(940・平安時代)に逝去しましたが、のち碓氷峠
にあらわれ白雲山に来山。「われは比叡山座主(ざす)尊意僧正な
り。宿世の縁でこの山に住し、衆生を済度せん」と託宣しました。
以後妙義権現と敬われたのが山名由来だとする説もあります。

さてお話し変わって、群馬県と長野県が接するこのあたりにはとて
つもなく大きい巨人伝説があります。大昔、雲を突くような大男デ
エランボーが、どでかい足を妙義山に乗せて昼寝をしました。する
とその頭は碓氷峠にまで届いていたという。

そこへ妙義のイノシシどもが大男の足をヤマイモと間違えてかじり
はじめました。イテテテッ。怒ったデエランボーは、イノシシを一
つかみ、鍋料理にして食うことにしました。千曲川から水を汲み矢
ヶ崎山の「かまど岩」に鍋をかけ、噴火している浅間山から火種を
とって焚き火をはじめます。

鍋は煮えてイノシシ鍋ができてきました。大男は軽井沢の離山に座
りなおそうと立ち上がったとたん、足を踏み外し鍋を落としました。
煮汁がこぼれ、あたり一面の草木が枯れてしまい不毛の地になりま
した。それ以来この付近では汁のような味がある水が湧くという。

軽井沢の「塩壷温泉」などが塩辛いのはそのせいだそうな。この巨
人伝説は荒船山、八ヶ岳から富士山など広い範囲に残っています。

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典10・群馬県』井上定幸ほか編(角川書店)1
988年(昭和63)
・『山岳宗教史研究叢書8・日光山と関東の修験道』宮田登・宮本
袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『日本の民話・自然の精霊』(角川書店)1974年(昭和49)
・『妙義山』(歴史と信仰の山)(あさを社)1981年(昭和56)

 

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