『いなかの神さま仏さま・上』(山と峠の神々)
第1章 山・谷・峠の神と怪物

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▼01-04蔵王権現

【序文】(140字)

蔵王という文字もよく目にします。蔵王権現は、役行者が奈良県吉
野金峰山で修行の末感得したもの。山形県と宮城県の境の蔵王山は、
この権現を蔵王山の不忘山山頂に祭ったことからこの名がありま
す。権現とは、仏や菩薩が人々を救うため、「権(かり)」に神にな
って現れた姿だという。

▼01-04蔵王権現蔵王権現

【本文】
蔵王という文字もよく目にします。三省堂の『日本山名事典』で調
べてみると蔵王山(愛知県)、蔵王山(広島県)、蔵王岳(鹿児島県)、
蔵王峠(大阪府と和歌山県の境)、蔵王山(新潟県)など6ヶ所も
あります。なかでも樹氷でおなじみ、山形県と宮城県の境にある蔵
王山が有名です。ここは680(天武9)年僧行願が奈良県の吉野金
峰山(きんぷせん)の蔵王権現(ざおうごんげん)を不忘山山頂に
祭ったことから蔵王山と呼ぶようになったといいます。

蔵王権現の権現は、仏や菩薩が人々を救うため、「権(かり)」に神
になって「現(あらわ)」れた姿だという。そのもとの仏を本地(ほ
んじ)、その化身した神を垂迹(すいじゃく)と呼ぶそうですが、
蔵王権現の本地は弥勒菩薩だという。蔵王権現は奈良時代、修験道
の祖役ノ行者が、苦しむ人たちを救うにふさわしい神を求めて、吉
野金峰山に籠もり、苦行のうちに感得し、その姿を行者自ら桜の木
に彫った悪魔降伏の菩薩なのだそうです。金剛蔵王菩薩ともいうそ
うです。(胎蔵界曼陀羅虚空蔵院にも金剛蔵王権現があるそうです
がこちらは「ぞうおうごんげん」と読み、別のものだそうです)。

そのほか蔵王菩薩・金剛蔵王菩薩・金峰菩薩・金峰山権現とも呼ば
れるそうです。「ざおう」の方の蔵王権現は一面三目(額にもう一
つ目がある)の顔で二臂、青黒色の憤怒の相。怒髪天をつき、右手
に三鈷杵(さんこしょ・取っ手の両端が三つまたになっている)ま
たは独鈷杵(とっこしょ・両端が分かれていない)を高く振り上げ
てにぎり、左手は剣印(けんいん)という印を結んで腰にあててい
ます。(三鈷杵は古代インドの武器の金剛杵の一種。杵の形をして
いる。取っ手の両端がまたに分かれた数で種類が変わる。独鈷、二
鈷、三鈷、四鈷、五鈷、九鈷、人形杵、羯磨杵(かつましょ)、塔
杵、宝杵など種類が多いですが、一般用いられるのは独鈷杵・三鈷
杵・五鈷杵の3種だという。

蔵王権現はまた右足を高く蹴り上げ、左足で岩の上に立つ舞い姿を
しています。これは仏典には説かれていない日本独自の神だそうで
す。平安時代以降密教が盛んになるにつれ全国に広がり、東北の蔵
王連峰や木曽御嶽山はじめ、日本各地の名山、霊山にまつられはじ
めます。ご利益は魔障除去、怨敵退散、所願成就、商売繁盛、事業
繁栄と書かれています。

蔵王権現の最初の記録は『今昔物語』(巻第十一、第三 役優婆塞
誦持呪駈鬼神語第三・えのうばそくしゅをじゅぢしてきじんをかる
ことだいさむ)で、「金峰山(みたけ)の蔵王菩薩は、この優婆塞
(うばそく・役ノ行者)が祈った結果、生じなさった菩薩である」
とあり、まだ「蔵王権現」とはいっていません。

鎌倉時代の『沙石集』(しゃせきしゅう)(巻一)には「昔役ノ行者、
吉野ノ山上ニ行ケルニ、釈迦ノ像(かたち)現ジ給ヘケルヲ、「此
御像ニテハ、此国ノ衆生(しゅうせい)ハ化(け)シガタカルベシ。
隠サセ給ヘ」ト申サレケレバ、次ニ弥勒(みろく)ノ御姿ヲ現ジ給
フ。「猶是モ叶ジ」ト申サレケレバ、其時当時ノ蔵王権現トテ、オ
ソロシゲナル御形ヲ現ジ給ケル時、「是コソ我国ノ能化(のうけ)」
ト申給ケレバ、今ニ跡ヲ垂(たれ)給ヘリ」と出ています。

室町時代の『三国伝記』(さんごくでんき)(撰者・沙門玄棟・さも
んげんとう)には、行者は岩屋のなかに座し「この山の権現として、
金峰鎮護の霊神となるべき端相をあらわし給え」と祈ったところ、
はじめに弥勒菩薩があらわれました。「この柔和で慈悲のお像では
争いに叶うべきか」と追い返し給うたという。

さらに祈っていると次に千手観音が湧出しました。「この宝山を守
護するためには、この御像ではとても叶うまい」とまた追い返し給
うた。さらに祈り続けると、今度は釈迦如来があらわれました。行
者は「このお像でも六種の魔境(衆生が生死輪廻する魔境、天上・
人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の6種)を退け、後のち百歳の悪業
深重の民衆に利益があるようには叶うことはとても難しい」とまた
また追い返し給うたという。

すると次に堅固不壊の身の金剛蔵王が化現しました。行者は今度は
「善なるかな」とその像を安置したとあります。蔵王権現は「わが
形がいかようであれば行者が用い給うか」といい、手でそばの岩の
面を磨いて御影を写して見せると、岩の面は浄らかな瑠璃のように
明々と光って御影が写ったという。これを鏡石という。行者は蔵王
権現の像を山上より五里の去る金峰に移した。今の蔵王堂がそれで
ある。中は釈迦、東は千手、西は阿弥陀であると出ています。

また一方、江戸時代宝暦年間の『役公懲業録』(えんこうちょうご
うろく)(僧・祐誠玄明著)には、(701年)行者68歳、公がまさ
に大峰山を辞されようといわれた。後五百年、わが跡を慕って山に
入る人も多くいよう。神明の助けがなければ誰がこの畏れ多い途を
侵すことができよう。公は段を登り尊を選びたいと請いました。す
ると最初に弁財天があらわれました。

行者は「威力はあるけれども女性である」。公はまだまだと思いさ
らに祈ると、天女は天河に去っていきました。(これが奈良県天川
村の天河弁財天だそうです)。次に地蔵菩薩が出現しました。しか
し「温和で厳しさがない。どうして悪魔を制することができようか。
もっと荒々しい仏が欲しい」と祈りました。菩薩は吉野の川上に去
りました。

すると突然凄天地が振動して大地からこんどは蔵王権現が湧出しま
した。その勢いは大きな峰も動かすほどでした。忿怒の相をしたそ
の像は釈迦と観音と弥勒が合体した神でした。行者は「偉大なるか
な神の威徳。必ずやこの名山を鎮め護り、ますます民衆を集めて竜
華会にいたらせたい」と讃え、大いに喜大いに喜んだといいます。
また、今度は十五童子が地面から湧き出てきました。行者は8人の
童子(大峰八大金剛童子)を大峰に留めました。残りの7人の童子
を葛城に送ったという。

夏5月1日。行者は錫杖を振るって箕面山に移り、ここで入滅しよ
うと心に決めました。山の神は泣き、草木もその色を変えたといい
ます。6月7日、行者は落ち着きはらって安らかに入寂しました。
しかし、まだ幾日も経っていないのに「公が老母を鉢に乗せ五色の
雲に乗って飛び去るのを見た」という人が現れました。大騒ぎにな
った人々は墓を掘って棺を見たところ、中にはただ金策と鉄の下駄
だけが残っていた、というエピソードもあります。このように役ノ
行者が感得した蔵王権現をまつったのが吉野の金峯山寺蔵王堂で、
いまでも蔵王権現三体がまつられ多くの人の信仰を集めています。

1993(平成5)年9月、熊野本宮から大峰山を縦走する機会がありま
した。葛川辻・前鬼の里・弥山小屋・行者還小屋・五番関・新茶屋
跡にそれぞれ泊まる8泊のテント山行でした。和歌山県みなべ町の
久保正一さんが前鬼の里まで同行してくれました。5日目の釈迦ヶ
岳のあたりだったでしょうか、登山道わきの岩に10センチほどの
かわいい蔵王権現の石像が無造作に置いてありました。

あッ、これ欲しい。家宝にするんだけどな。変な誘惑に駆られなが
ら弥山の小屋についたらシノつくような大雨。テントを張る間にび
しょ濡れ。おまけに小屋に水を買いに行くとき、ぬかるみで思い切
りすべって転び、着てるものが泥だらけ。ちょっとした罰が当たっ
たようです。

▼【参考文献】
・『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年(平成6)
・『今昔物語』:「日本古典文学全集24・今昔物語」(1〜4)馬淵和
夫ほか校注・訳(小学館)1995年(平成7)
・『修験道の本』(学研)1993年(平成5)
・『日本大百科全書10』(小学館)1986年(昭和61)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)

 

 

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