とよだ 時 「山の伝承伝説」民俗画
山旅イラスト通信【ひとり画展】

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▼721号 「北ア・剱岳の登山者増崎藤左衛門と快天行者」

【序文】
古くから登頂不能の山とされ、弘法大師がワラジ千足費やしても
登れなかったといわれる劔岳。近づくこと能わず、登ること能わ
ずで、登山はタブーだったという。江戸後半単独で登った前田藩
の藩士と快天という行者がいました。しかし二人とも急死、虐殺
されたという。
・富山県上市町と立山町との境。

▼721号 「北ア・剱岳の登山者増崎藤左衛門と快天行者」

【本文】
立山の奧の岩峰が剣のように突き立っている剱岳。かつて弘法大
師がワラジ6千足を使っても登れなかった山といい、長く不入の
山としてタブー視、周囲に立ち入ってもならぬとされていました。

「立山曼陀羅」では奥の方に白い針の山に描かれています。中腹
以下は地獄の針の山、鬼に追われて山に逃げ登る亡者の姿を描い
ています。あの世の色彩が濃い山になっています。立山の信仰で
は登る山ではなく、遠くからあがめる礼拝の山だったのです。

しかし、遠く平安初期に登ったらしい遺跡(錫杖頭など)が発見
されました。また南北朝時代に裏剱の仙人谷洞窟に籠もって修行
した修験者があったといますが、これは庶民の信仰とは関係はあ
りません。

立山は、大宝元(701)年というから飛鳥時代、越中の国司佐伯有
若の子の佐伯有頼によって開山されたということになっています。
『古代山岳信仰遺跡の研究』(大和久震平)によれば、立山の開山
者とされる有頼の父佐伯有若は、平安初期の905(延喜5)年の文
書「越中守従五位下佐伯宿弥有若」にも署名のある実在の人。立
山山麓に荘園を持っていたという。立山開山の伝説はこの実在の
国守有頼に仮託したものといいます。

伝説はともかく、史実に近い立山の開山は、延暦寺座主・円城寺
(おんじょうじ・天台寺門宗の総本山)長吏(ちょうり・※寺の
首長)となった康済(※こうさい)が、昌泰2年(899・平安前期)
に入滅した時の記事に「越中立山建立」とあるところから、このこ
ろではないかとされています。

立山開山のあと、天台宗、真言宗の仏徒が、立山入峰の道を作り
はじめますが、天台宗は常願寺川に沿って岩峅寺(いわくらじ・
※立山町に属する地区)から、芦峅寺(あしくらじ・※立山町の
地名)を経て雄山に登頂する道。

また真言宗は、大岩山を拠点として剱岳北側の馬場島地区から大
日岳に入る道とされています。しかし、どちらの宗徒が作った道
も、立山の奥にある剱岳は避けて通っており、剱岳の周辺の山中
には立ち入っていないそうです。これほど剱岳は畏れ多い山だっ
たのですね。

近世(※江戸時代)になると立山は加賀前田藩の所領になりまし
た。天保9年(1838)、火災で江戸城の西の丸が焼失しました。幕
府は諸大名に再建手伝、万石以下に上納金を命じます。加賀前田
藩も幕府から加役(かやく・※本職以外に臨時につとめる役)を
命じられました。藩主は黒部奥山の木材を伐採して割り当てに充
てようとしました。庶民のタブーを犯しての伐木は、住民たちの
賛同は得られません。

しかし前田藩は強行しました。そんな折り、天候不順がつづいた
のです。これは入ってはならぬ神の山に入り、伐ってはならぬ木
を切るというタブーを犯すからだとのうわさが立ち、農民たちに
不穏な空気が流れました。これはまずいと幕府も伐採作業を中止
することになりました。

この時、伐出方をつとめた藩士の増(松)崎藤左衛門という武士
は、せっかく剱岳の近くに来たのだし、またそんなタブーなんか
本当か、うそか。ちょっと登ってみようというわけで単身剱岳に
登りはじめました。やっとのことで山頂のたどり着き、登頂成功
といさんでふもとに降りましたが、途中で急死してしまったとい
う。これはおそらく藩令違反の廉(かど)で処分されたものか、
それとも庶民によるものなのか?。

これに前後して、快天という行者も剱岳山頂に登りました。快天
は長い間禁忌である剱岳に登頂したのをあちこち自慢して歩いた
ため、何者かに虐殺されてしまったということです。当時はきび
しい掟が守られていたのですね。

・【データ】剱岳(つるぎだけ)
・【所在地】
・富山県中新川郡上市町と富山県中新川郡立山町との境。富山地方
鉄道立山線立山駅の北東19キロ。富山地方鉄道立山駅からケーブル
美女平からバス・室堂から歩いて6時間30分で剱岳。三等三角点(2
997.07m)と写真測量による標高点(2999m・標石はない)と、須
佐之男神をまつった剱岳神社の小祠がある。地形図に山名と三角点
の標高と標高点の標高のみ記載。付近に何も記載なし。

・【名山】
「日本百名山」(深田久弥選定):第48番選定(日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる)
「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第42番選定

・【位置】
標高点:北緯36度37分23.76秒、東経137度37分00.7秒
三等三角点:北緯36度37分24.09秒、東経137度37分17秒

・【地図】
2万5千分の1地形図「剱岳(高山)」or「十字峡(高山)」(2図葉
名と重なる)。5万分の1地形図「高山−立山」

▼【参考文献】
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『山岳宗教史研究叢書10・白山・立山と北陸修験道』高瀬重雄編
(名著出版)1977年(昭和52)
・『新稿日本登山史』山崎安治著(白水社)1986年(昭和61)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『富山県山名録』橋本廣ほか(桂書房)2001年(平成13)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系16・富山県の地名』(平凡社)1994年(平成
6)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)
・『和漢三才図会』寺島良安(江戸時代1712年(正徳2)の図入り
百科事典):東洋文庫「和漢三才図会10』(巻第66〜巻第68)島田
勇雄ほか訳注(平凡社)1988年(昭和63)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

 

 

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