山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼993号「中央線沿線・倉岳山と雛鶴姫」

【序文】
140字
倉岳山はは山梨県大月市の「秀麗富嶽十二景」に選定、「山梨百名
山」にもその名を連ねています。山の南の無生野集落には、鎌倉で
足利直義の家臣に殺害された南北朝時代の南朝の護良親王と、その
愛妾の雛鶴姫の伝説にちなむ念仏踊りがあり、国の重要無形民俗文
化に指定されています。
・山梨県大月市と上野原市にまたがる。
(本文は下記にあります)

▼993号「中央線沿線・倉岳山と雛鶴姫」

【本文】

倉岳山は(くらたけやま)は、山梨県秋山山系(相模川(桂川)と秋
山川の間)のほぼ中央にあり、山系の最高峰です。山梨県大月市の
「秀麗富嶽十二景」(九番山頂)に選定されており、「山梨百名山」
にもその名を連ねています。東西に長い山頂は、東の端が最高峰で、
山頂からは南東方面に秋山二十六夜山、秋山集落の家なみが、北側
は大月の市街地が木の間越しに望めます。

江戸時代の地誌『甲斐国志』には「鞍岳山」とも書いてあるそうで、
そのためか二等三角点(989.97m)の基準点名は鞍岳山になってい
ます。この山は西の鞍部の穴路峠、東の鞍部の立野峠と2つの峠に
はさまれています。西側の穴路峠は、大月市の鳥沢集落と旧秋山村
(いまの上野原市)を結ぶ古い峠だったという。さらに面白いこと
に、このあたりでは北西の季節風のことを、峠の名前から「アナジ」
と呼ぶということです。

山の南の無生野(むしょうの)集落(旧秋山村)には、雛鶴神社、
雛鶴峠、雛鶴トンネルなど、雛鶴のつく地名がならんでいます。お
まけに雛鶴姫の墓というものまであります。そして集落には、南北
朝時代の南朝の親王と、雛鶴姫の伝説と結びついた財念仏踊りもあ
ります。

伝説によれば、世の中が乱れていた南北朝時代のこと。第96代後
醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)
がお供9人と、紀伊半島の山奥を旅していました。足利幕府打倒の
ため、天皇が代々参詣してきた天皇家と、関係の深い「熊野」で兵
を集めようとしましたが、どうもいまいち形勢が不利。そこで熊野
を立ち去り、自分に近い楠木正成の勢力がおよぶ、奈良県の「吉野」
で兵を集めようとしました。

いまでいう奈良県十津川村の戸野の地に立ち寄った時のことでし
た。同県五條市の豪族戸野兵衛定清は、母親の病気を治してくれた
親王に感謝し、娘を妾として親王に仕えさせました。この妾となっ
た娘が雛鶴姫だったのです。これには異説があり、雛鶴姫は北畠親
房の娘だとも、竹原八郎宗親の娘だとも、その他いろいろ混乱して
います。

ま、それはさておき、護良親王は、父後醍醐天皇とともに足利幕府
と対立が本格化、ついに捕らえられ鎌倉の足利直義(ただよし)の
監視下におかれ、鎌倉二階堂ヶ谷の東光寺の牢に幽閉されてしまい
ました。そして建武2年(1335)、とうとう直義の家臣、渕部義博
(伊賀守)に殺害されます。

首をはねられた時の親王はその時、無念さのあまり、渕部義博をグ
ッと睨みつけながら死んでいったという。そのあまりにも恐ろしい
親王の形相に渕部義博は恐れおののき、親王の首級を足利直義の前
へ差し出すどころか、牢の近くの竹薮に投げ捨てて逃げていきまし
た。

これを知った雛鶴姫は、お供とともにその首を探し出し携えて、鎌
倉から逃れ、京都を目指します。そして相州(神奈川県)の河合を
経て(神奈川県津久井の青山村に100日近く滞在したという伝説も
ある)甲州秋山に入りました。それから同地方桜井の裏山にある王
沢で一休みし、古福志の四ッ堂に7日間逗留し、神野沼田から王野
入屋敷を経由、無生野集落に着きました。

無生野にたどりついた雛鶴姫は親王の子を宿し、すでに臨月の身重
だったそうです。当時無生野には人家も少なく、宿を乞う家も見当
たりません。姫は権田橋のたもとで野宿中に産気づいてしまい、お
供の人たちは、付近の木の枝・葉を集め産所をつくり、王子を分娩
させました。その王子の名を葛城宮綴連王子(つづれのおうじ)と
いいました。

しかし、その後のいい伝えにはいろいろの説があります。雛鶴姫は
産後すぐ亡くなり、王子も間もなく他界したというもの。また王子
は、しばらく生きていましたが幼児のうちに他界、雛鶴姫もそのあ
と間もなく亡くなったというもの。また姫は産後間もなく他界した
が、皇子は12、3歳まで生存して他界した。またまた綴連王は、成
人して南朝のために戦い、姫の没後、約20年後、戦乱の中を逃れ、
この地にたどり着いたという話もあります。

無生野に来た綴連王は村の人々から雛鶴姫の話を聞かされ、無生野
と自分との不思議な因縁を感じ、この地に住むようになり、一子五
孫の繁栄を見て天寿を全うしたとの話もあります。この綴連王は、
同じ大塔宮護良親王の王子、陸良親王(赤松宮)または興良親王(お
きよししんのう)に比定されたりしていますが、その後の半生は行
方不明だそうです。このように、話がまちまちになってしまうとこ
ろが伝説の弱いところです。

雛鶴姫の出産の時の血が、付近の石を赤く染めていまでも無生野地
区には赤い石があちこちから出るという。その他の言いつたえでは、
その時、秋山村の村人は、産後間もない姫を無情にも松の葉に乗せ、
オウダミ峠(大旅峠)を越して盛里村へ移したという話もあります。
雛鶴姫が臨終の時悲しみにくれ、「ああ、無情」と嘆いたという。
そのためここを「無情の野」と呼ばれるようになり、「無情野」と
なり「無生野」の地名に変わっていったということです。

村人は姫が命を果てたところの老松の下に、墓と祠を作って姫をま
つりました。そこを雛鶴姫塚というのだという。その手前に枝を張
った「供の松」という2本の松は、里人が姫のお供を供養するため
に植えたものという。それ以来、大旅峠を雛鶴峠と呼び、護良親王
の首は馬場の石船神社にまつっているそうです。

その後、無生野の人々は、大塔宮護良親王、雛鶴姫、綴連王の3人
を神としてまつり、その供養のために、大念仏をはじめたと伝えら
れています。念仏は国の重要無形民俗文化に指定され、正月16日
と8月16日の年2回。鉦や太鼓を打ち鳴らして踊り、悪霊をしず
め病魔を払うとされています。一方、雛鶴峠については別に、昔、
右大将頼朝が金の札をつけて放った鶴がこの山(雛鶴峠)へ下り、
雛を育てたのが地名の由来との説もあるようです。

▼倉岳山【データ】
★【所在地】
・山梨県大月市と上野原市にまたがる。中央本線鳥沢駅の南東3
キロ。JR中央本線梁川駅から2時間20分で倉岳山。二等三角点
(989.97m)がある。

★【位置】
・倉岳山:北緯35度35分02秒.3898、東経139度01分11秒.3957

★【地図】
・旧2万5千分1地形図名:大室山

★【参考文献】
・『甲斐の伝説』「日本の伝説・10」土橋里木(角川書店)1976年
(昭和51)
・『角川日本地名大辞典19・山梨』竹内理三編(角川書店)1991年
(平成3)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)。
・『日本の民俗・19』土橋里木(第一法規出版)1977年(昭和52)
・『日本歴史地名大系19・山梨県の地名』(平凡社)1995年(平成
7)

 

……………………………………

 

【とよだ 時】 山と田園風物漫画
……………………………………
 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

山旅イラスト【ひとり画展通信】題名一覧へ戻る
………………………………………………………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」トップページ【戻る】