山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼969号「後立山連峰唐松岳南方・大黒岳」

【序文】
後立山連峰の大黒岳は、大糸線の白馬駅あたりから眺めると大黒さ
が俵の上に座っている姿に似ています。そのため大黒の名があると
う。黒部川方面へ少し下った餓鬼谷の上流には大黒鉱山跡があり、
までも残りかすが散乱し赤茶けて台地が残っています。
長野県白馬村と富山県黒部市との境。
(本文は下記にあります)

▼969号「後立山連峰唐松岳南方・大黒岳」

【本文】
北アルプス後立山連峰白馬岳方面から南下、不帰嶮(かえらずのけ
ん)を越え唐松岳に達すると、南側に大黒岳(2393m)という山
があります。

この山は、長野県側大糸線の白馬駅あたりから眺めると岩山全体が
黒々として、大黒さまが俵の上に座っている姿に似ています。大黒
の名はそこからきています。

一方、富山県側での呼び方は赤鬼ヶ岳だったそうです。この山か
ら富山県側黒部川方面へ少し下った餓鬼谷の上流1900mの地点に
は大黒鉱山跡があり、いまでも残りかすが散乱し赤茶けています。

1906年(明治39)のこと、白馬山ろく白馬村堀之内地区の探鉱師
・中村兼松という人がここで良質な銅の鉱脈を発見しました。そ
のころは白馬山ろくは山師(探鉱師)ブームだったといいます。

中村兼松のほか、太谷豊吉(八方)ら幾人もの鉱脈を探しの人た
ちがいたそうです。だが、鉱脈はそう簡単に見つけられるもので
はありません。一生無駄に過ごすこともあります。そのためふも
とには「そら山師やるより秋の田んぼへ水をかけろ」ということ
わざもあるという。

さて、中村兼松が鉱脈を発見した場所は大黒岳から富山県側に降
り、唐松岳から祖母谷温泉へ下るコースと合わさる丘状の台地の
南側、餓鬼谷源頭の左岸にあたります。

鉱脈を見つけた中村兼松は、仲間の新田地区の松沢菊一郎と、森
上の嶺村悦治の2人にこっそりうち明け、3人でさらに詳しく調
べました。鉱脈は太く幾筋もあらわれており、また質も極上とい
うことが分かりました。

3人は喜び合い、試掘権を他の人にとられないため、早速富山県
に「試掘願い」の手続きをとることにしました。ところが3人の
うち、だれかが家族に口を滑らしたらしく、村中に鉱脈の話が広
まってしまったのです。

そのころ、佐野地区に松沢教学という有名な「ばくち打ち」がい
ました。口八丁の教学は、この話を聞き一口乗せてもらおうと富
山県の係官を抱き込み、資本家に権利を高く売るよう策略を講じ
ました。

当時三菱なども権利を欲しいという話もありましたが、結局は岩
手出身の為田文太郎という人に売ることになったという。『白馬村
史』によれば、その金額は人夫1日30銭という時代に1万余円だ
ったという。

こうして翌年の1907年(明治40)に開業されます。(資料によっ
ては1908年(明治41)ともいう)。人夫はほとんどが富山の人た
ちで、黒部川側から登って来ていたという。

こうして創業した大黒鉱山は、最盛期には百数十人もの人夫が働
き、1本30キロの銅の延べ棒が日に2、3本生産されるまでにな
りました。「大黒」の銘の入ったピカピカ光る銅の延べ棒は、牛に
よって唐松岳から八方尾根経由でふもとの白馬村まで搬出されてい
たそうです。

しかし創業間もない42年の冬に越冬者の中に奇病が流行、鉱夫6
人が相次いで死亡するという事故が起こります。当時の「高岡新
報」の新聞記事には「積雪中に埋没せる坑夫等が、初めてこの奇
病に罹りたるは一月十日にして、其姓名を記さば左の如。富山県
人秋田林蔵二十二歳、発病一月二十四日、死亡二月二十四日。同
人妻ひさ二十四歳…、発病一月十日、死亡三月十三日…」という
ありさま。

この事件は井上江花の「越中の秘密境黒部山探検」(1910年(明治43)
・高畠商会)に詳しく載っています。病気の原因は半年以上も雪に
埋もれ、またきびしい鉱山という悪条件や野菜不足による壊血病の
ためらしいのですが、あるいは当時はまだあまり知られていなか
った銅山の鉱毒である砒素が飲み水に混じっていたからの中毒で
はないかともされています。

その後鉱山の経営は、為田文太郎から神戸の鈴木某に移ってつづ
けられました。しかしまもなく鉱脈はぷっつり切れて、1918年(大
正7)に閉山、鉱脈炉の火は消え人々は山を去っていきました。
その後事務所や各飯場は、登山者に利用されていましたが、昭和
のはじめには建物も雪で倒壊してしまったということです。

鉱山あとには残りかすが散乱、鉱毒のため草木も育たず赤茶けた
台地だけが残っています。またいまでも八方尾根には当時の牛道
あとが所々に見ることができ、兎平あたりのジグザグ道は里から
も遠望できるそうです。

▼大黒岳【データ】
★【所在地】
・長野県北安曇郡白馬村と富山県黒部市宇奈月町旧地区(旧下新
川郡宇奈月町)との境。JR大糸線白馬駅からバス、八方バスター
ミナル停留所下車。歩いて15分でゴンドラリフト・アダムに乗り、
八方池山荘。さらに歩いて3時間15分で唐松岳。歩いて1時間15
分で写真測量による標高点(2393m)がある。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・大黒岳標高点2393m:北緯36度40分33.68秒、東経137度45分32.
4秒

★【地図】
・旧2万5千分1地形図名:白馬町

★【山行】
某年7月30日(木・強風、霧)

★【参考文献】
・『角川日本地名大辞典16・富山県』(角川書店)1979年(昭和54)
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『北アルプス白馬連峰 その歴史と民俗』長沢武(郷土出版社)
1986年(昭和61)
・『信州山岳百科・1』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『信州百名山』清水栄一(桐原書店)1990年(平成2)
・『富山県山名録』橋本廣ほか(桂書房)2001年(平成13)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系16・富山県の地名』(平凡社)1994年(平成
6)
・「山と博物館」長野県大町市山岳博物館(2008年(平成20)11
月25日)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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