山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼965号「生駒山・役ノ行者と夫婦鬼」

【前文】
山腹には「生駒の聖天さん」の名で親しまれる宝山寺があり、山頂
には遊園地もある観光地生駒山。奈良県側、大阪府側山ろくには鬼
取山鶴林寺や髪切山慈光寺があり、役ノ行者が2匹の夫婦鬼、前鬼
後鬼を捕まえ髪を切って改心させた地でもあります。
・大阪府東大阪市と奈良県生駒市にまたがる。
(本文は下記にあります)

▼965号「生駒山・役ノ行者と夫婦鬼」

【本文】
 奈良県・大阪府境の生駒山は、山頂部は穏やかな平坦面で、山頂に
は、遊園地や各局テレビ塔が林立、いまは近鉄生駒駅からケーブルが
通じ、同山地上を信貴生駒スカイラインが縦走した観光地。山腹には宝
山寺があり「生駒の聖天さん」の名で親しまれています。胆駒山(いこまや
ま)とか生馬山(いこまやま)、射駒山(いこまやま)、伊故麻多可禰(いこ
またかね)などとも書かれます。山名は駒山・伊駒山からの転訛したもの
といい、応神天皇(おうじんてんのう)のころ、百済(くだら)の王から献上
された馬をこの地に放牧したところからきているといいます。一般に「こま」
は朝鮮地方の高原を意味するという。

 こんなに庶民に親しまれている山も、昔は神秘な山であったらしく、生
駒山で神火がみえたとか、この山に天狗が入ったなどのうわさが流れて
いたようです。ここは『日本書紀』や『万葉集』にも登場する山です。『日本
書紀』巻第三(神武天皇即位前紀戊午(つちのえうま)年四月)の条に、
天皇の率いる軍隊が「夏四月(うづき)胆駒山(いこまのやま)を踰(こ)え
て、中洲(うちのくに)に入らむと欲(おもほ)す。時に長髄彦(ながすねび
こ)聞きて曰はく、…」とあります。

 神武天皇が胆駒山を越えて、大和に入ろうとしたとき、地元の豪族・長
髄彦(ながすねひこ)が、「天神の子らが来るのは、我が国を奪うつもりで
あろう」といって兵を起こし、孔舎衛坂(くさえのさか・大阪府枚岡市日下
町)で戦ってきたのです。流矢(いたやぐし)が、五瀬命(いつせのみこと)
の肱脛(ひぢはぎ)に当たったりして、皇帥(みいくさ)は進撃することがで
きなくなりました。

 それに対し天皇は、「私は日神の子孫なのに、日に向かって敵を討つ
のは、天道に逆らっている。いったん停止せよ。」とおおせられ、皇帥(み
いくさ)を率いて帰られた。敵もあえて攻めてこなかったウンヌン……とあ
り、軍を引いたことが書かれています。

 また同じ『日本書紀』の巻第二十六(斉明天皇元年五月)の条には、
「夏五月(さつき)の庚午(かのえうま)の朔(ついひたちのひ)に、空中
(おほぞらのなか)にして竜(たつ)に乗れる者有り。貌(かたち)、唐人(も
ろこしびと)に似たり。青き油(あぶらぎぬ)の笠(かさ)を着(き)て、葛城
嶺(かづらきのたけ)より、馳せて胆駒山に隠れぬ。午(うま)の時に及至
(いた)りて、住吉(すのえ)の松嶺(まつのみね)の上より、西に向ひて馳
せ去(い)ぬ。」の記事が見えます。

 …夏5月1日、大空に竜に乗った者が現われ、顔かたちは唐の人に似
ていた。油を塗った青い絹で作られた笠をつけ、葛城山の方から、生駒
山の方角に空を馳せて隠れた。正午頃に住吉の松嶺まつのみね(地名か)
の上から、西に向って馳せ去った、というのです。

 これは生馬仙という仙人で、『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)(虎間師
練(こかんしれん)著・元享2・1322年・鎌倉時代の歴史書)にも、「寛平年
間(889〜898)に、摂州住吉(いまの大阪府大阪市住吉区)の人、生馬
仙の住む山」だとされていたそうです。また江戸時代前期の貞享2 (168
5) 年刊の『西鶴諸国咄』(井原西鶴作)にも記載があることから、生馬仙
の存在は江戸時代まで知られていたようです。

 ここは金剛山地の北につづく山地で、岩場にも恵まれているため、修
験道発祥の地「葛城修験」の北の行場となっています(諸山縁起)。この
伝統は近世にも引き継がれ、延宝6年(1678)に般若窟で修行をした湛
海(たんかい・江戸時代前期〜中期の僧)が宝山寺(現門前町)を中興し
ています。金剛山からこのあたりにかけては、役ノ行者の生家も近く、自
ら修行した地でもあります。

 いま各地でよく見る役ノ行者の石像には、2匹の鬼がピタリとよりそって
います。前鬼、後鬼といい、役ノ行者の修行の邪魔をする敵を除ける従
者で、兄弟だとも夫婦鬼だともいいます。前鬼は赤眼でおのを持ち、後
鬼は黄色い口をしているという。酒を飲み、眼を赤くして歌を唄っている
夫鬼を、黄色い口を開けて笑う女房鬼をあらわしているのだとか。もともと
は生駒山に住んでいた盗賊だともいわれます。

 西暦673(天武元)年、役ノ行者39歳の時、奈良県平群町にある信貴
山(しぎさん)の般若窟にこもります。しかし、この修行をはばむ外敵がい
ます。牙をはやした2匹の鬼で身の丈3m。あまりうるさくつきまとうので、
怒った行者が空を飛び、鬼を追いかけ生駒山の奈良県側(いまの生駒
市鬼取の里・鬼取山鶴林寺)で捕まえ、大阪側(いまの東大阪市髪切(こ
ぎり)の里・髪切(こぎり)山慈光寺)に連れて行き、髪を切って鬼たちを折
伏(しゃくぶく)させたという(『役行者御伝記図会』(1850年・嘉平3年
刊)。

 このように行者の忠実な従者になった鬼たちは、吉野大峰山を開く時
も献身的に行者をたすけ、のち、行者の遺志どおり天狗になって前鬼の
里(奈良県下北山村)に住みつき大峰山を守ったという。いまでも前鬼の
里で、その子孫といわれる人たちが宿坊を経営しています。

 また『役公徴業録』には、次のような記事もあります。…白雉五年(65
4)、役公(役小角)は21歳のとき、断髪山(河内国河内郡にある、現東大
阪市東豊浦町髪切山(こぎりさん)慈光寺がある)に登った。山中には、
雄は赤目、雌は黄口という鬼がすんでいた。鬼一、鬼次、鬼助、鬼虎、鬼
彦の5子を生んでいた。公は方便として、その最愛の鬼彦という子を捕ま
えて鉢の中に隠した。

 2人の親鬼は顔色を土のようにして四方八方に子鬼を探してまわった
がいなかった。ついに公の所へ来て子鬼を助けてくれるよう指示を願い
出た。公は親鬼にいった。「汝らはいつも人の子を害しているのに、どうし
てわが子ばかりを愛するのか」親鬼は答えた。「わしらは、はじめは鳥や
獣を食べていたが、もはや食い尽くしてしまった。それで、ついに人の子
を食べるようになった」。

 そのとき、空中から大きな声が聞こえた。それは不動明王の声だった。
金剛の体に火焔は猛烈、眼光はきらめく稲妻のように輝き、とどろく雷の
ようだった。不動明王は手に利剣をかかげて、長い策(さく・大縄)を持っ
て悪魔をよく降伏させていた。金羽鳥(孔雀)のように力を奮って、毒龍を
討つことができた。公は、親鬼に向かって、「汝ら人を害するのをやめ、改
心せよ。もし改めないならば、不動明王の怒りにあい、汝らはあとで臍(ほ
ぞ)をかむぞ」と告げた。

 2鬼は大いに恐れ驚き、頭を地にすりつけ角を崩して最敬礼をして、
「わしらは人を食うのを禁止されると飢え死にしてしまう。どうか願わくばあ
われと思い、情けを与え給え」と願った。「われには神呪(じゅ)があるか
ら、汝らもこれを唱えよ。青虫も、ヂガ虫に変えることができるではない
か。汝らも人間に化けられる。」と役行者。そこで2人の親鬼と5人の子鬼
は、行者の言葉通り呪文を唱えて、ついに人になることができたという。

 それから彼らは、木の実を採り水を汲み、真木を拾って、行者の食事
を作るようになりました。さらに役行者は、夫を前鬼、妻は後鬼と改名する
よう命じました。そして前鬼、後鬼は出家、堂を建て増しし、また精舎を建
てて慈光寺としました。世に髪切山鬼取寺(慈光寺)と称したのだそうで
す。現在はこの慈光寺とは別に、奈良県側、生駒市鬼取町に鬼取山鶴
林寺があるのは前述のとおりです。

▼生駒山【データ】
★【所在地】
・大阪府東大阪市と奈良県生駒市にまたがる。近鉄奈良線生駒駅の南
西2キロ。近鉄奈良線生駒駅から1時間30分で生駒山。。一等三角点(6
42.0m)がある。

★【位置】
・【生駒山一等三角点642.0m】北緯34度40分42.54秒、東経135度40分4
4.42秒

【地図】
★・旧2万5千分1地形図名:生駒山。

★【参考文献】
・『役公徴業録』(えんこうちょうごうろく)(高祖徴業録とも)(宝暦のころ)祐
誠玄明著。
・『役行者御伝記図会』(1850年・嘉平3年刊・江戸後期)藤東海著。
・『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年(平成6)
・『角川日本地名大辞典29・奈良県』永島福太郎ほか編(角川書店)199
0年(平成2)
・『角川日本地名大辞典27・大阪府』竹内理三偏(角川書店)1991年(平
成3)
・『西鶴諸国咄』(さいかくしょこくはなし):浮世草子。井原西鶴作。江戸
時代前期刊。
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀』720年(養老4):岩波文庫『日本書紀』全5巻(校注・坂本太
郎ほか)(岩波書店)1995年(平成7)
・『日本歴史地名大系30・奈良県の地名』(平凡社)1981年(昭和56)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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