山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼964号「比叡山と菅公(菅原道真)の怨霊」

【前文】
いまも続いている比叡山の千日回峰行。平安時代、相応和尚が始
めたという。菅原道真の怨霊が、藤原時平一派への怨みをはらす
ため、天皇のいる御所を大雷雨で荒らすので、若いときの師・比
叡山の座主尊意僧正に邪魔をしないよう懇願に行ったという話も
あります。
・滋賀県大津市と京都府京都市の境。
(本文は下記にあります)

▼964号「比叡山と菅公(菅原道真)の怨霊」

【本文】
 いまも続いている千日回峰行という難行苦行。その厳しさは1
日30から80数キロの山道を歩き続け、9日間の断食と断水を含ん
で7年間、1000日間にわたります。平安時代、薬師如来のお告げ
を受けた相応(そうおう)がはじめた修行だそうです。比叡山は
叡山、北嶺、天台山、都富士などの異名があります。古くから山
岳信仰の山でかつては大山咋神(おおやまくいのかみ)などがま
つられていましたが、平安の初期、最澄が入山し、根本中堂を建
立したのが天台宗総本山延暦寺のはじまりとされています。

 延暦寺は平安京の鬼門の丑寅(北東)にあたり、邪悪な勢力を
退治する護国鎮護の役目があったのだという。主峰の大岳(大比
叡)、四明岳(しめがたけ)、釈迦岳などの山々を含めて比叡山ま
たは日枝山(ひえのやま)とよび、そのなかに三塔一六谷といわ
れる地域にある多数の堂塔を総称して延暦寺といっています。平
安末期には雑兵を養い暴威をふるいましたが、元亀2年(1571)
織田信長に焼き討ちされ、根本中堂をはじめ、大方の堂塔が焼失
してしまいました。しかしその後、豊臣秀吉が再興し、寛永年間(1624
〜1644)にはほとんどが復元したということです。

 これだけの霊山ですから不思議な話が尽きません。ここには比叡
山法性坊(ほうしょうぼう)という大天狗がいることになっていま
す。この天狗は実在の人で、それも比叡山第13代座主・法性坊尊
意僧正というからただごとではありません。尊意僧正は、天慶3年
(940)、正月、平将門の謀反を調伏(ちょうぶく)するため護摩を
焚くうち、護摩壇の火炎のなかに、将門の姿があらわれました。そ
してちょうどその日に将門が伏誅(ちゅう)されたというのです。
その呪願に心身を消耗しつくしたのか、僧正はその一ヶ月ばかり後
に亡くなっています。尊意僧正は、かねて念願の往生の日が近づい
たことを弟子たちに告げたという。その日、いつもの勤行(ごんぎ
ょう)に出仕し、なんらの病もなしに示寂したのでした。享年81
歳(75歳ともいう)。しかし埋葬のとき、棺(ひつぎ)のなかに遺
骸がなく、装束だけが残っていたのです。まさに尸解(しかい)(仙
人や天狗になり遺骸が残らない)だったのです。葬送の日、数百羽
もの山のカラスが悲しい声で鳴き、天空を舞っていたという。林羅
山の『神社考』はその情景を、「尊意ハ群鳥ト同ジク、横川ノ杉ニ
翔(かけ)リ」と記しています。

 尊意は、当時聞こえた呪願師だったという。日照りつづきには勅
命により、降雨を祈ったり、豪雨を止めたり、疫病を退散させたり、
天皇の御悩平癒などに効験をあらわしたという。突然ですが、菅原
道真が道真が筑紫で憤死したとき、その怨霊が雷公になり彼を讒奏
(ざんそう・※事実でないことを悪くいって讒言すること)した、
藤原時平一族の公卿(くぎょう)どもを雷死させようと企てたこと
があったという。菅公(菅原道真)の雷が、時平一族をねらってゴ
ロゴロ大暴れしているとき、もし天皇から雷や雨を止めるよう尊意
僧正に要請があるかも知れません。たまたま尊意が菅公(菅原道真)
の若いころの師であったことを思い出し、「そんな時は辞退するよ
う」道真が黒雲に乗って比叡山に旧師を訪ねたという。

 『北野天神縁起』によると、菅公(菅原道真)の怨霊での天変地異を
治めるため、朝廷から祈祷を命じられた法性坊尊意僧正のところへ、
ある夜、突然菅公(菅原道真)の神霊があらわれました。菅公(道真)
は、「都に入って怨みを返してやりたいが、僧正(尊意)の法験のため、
それができないでいます。たとえ天皇から大雷雨を鎮めるよう依頼が
あっても調伏するのを辞退してほしい」と懇願しました。そこで尊意僧
正は「天皇からの勅命には2度は断わるけれど、それでもいわれれば
3度は断ることは出来ない」と答えました。

 それを聞いた菅公は顔色を変え、屋敷に炎を吹きかけて消えたと
いう。僧正は法力でその炎を消しました。その後3度の勅命を受け
た尊意僧正は、雷鳴のとどろくなか、菅公の怨霊調伏のため山を下
り、宮中に急ぐこととなりましたが鴨川までくると、川の水位が上
がりはじめ、とうとう水が土手を越え、町中に流れ込んできました。
尊意は手にした数珠をひともみしで祈ると不思議や、水の流れが2
つに分かれ1つの石があらわれました。その石の上に菅公の霊が姿
をあらわし、尊意僧正との問答の末、道真の霊が雲の上に乗ったと
同時に雲は飛び去っていきました。するとそれまでの荒れ狂ってい
た雷雨はぴたりとやんだということです。この霊験確かな座主・法
性坊尊意僧正がその後、天狗になったという。それからはあまり活
躍する記述が見あたりません。法性坊は、飼い慣らされ去勢され、
3千もの比叡山山法師たちに慴伏(しょうふく・屈服)された名ば
かりの天狗に、なり下がったのか、と天狗研究者は心配しています。

 しかし法性坊の霊は、群馬県妙義山の本尊、妙義大権現となって
まつられているとの説があります。江戸時代の国語辞典『和訓栞抄
(わくんのしおりしょう)』という本に、「妙義は上野国なり。妙義
権現は、叡山の法性坊の霊なりと云へり。また飯縄なりとも云ふ。
法性坊は延喜帝の時の人なり」とあります。さらに『木曽路名所図
会』にも、「比叡山延暦寺第十三代の座主法性坊尊意、菅原道真公
の左遷せられしを見て、憂悶に絶えず。遠く流れて此の山に入りし
を、遷化ののち、ここに妙義権現と崇(あが)む」との文書もあり
ます。朝廷の菅原道真に対する不公平な処遇を憤り、座主の職を捨
て群馬県の妙義山で世を終え、上野妙義坊としてまつられているの
だというのです。ただ天狗研究者は、やはり比叡の山にとどまり一
山を守っているのだろうとしています。
・滋賀県大津市と京都府京都市左京区の境。

▼比叡山【データ】
【所在地】
・滋賀県大津市と京都府京都市左京区の境。東海道本線京都駅の
北東12キロ。叡山電鉄八瀬比叡山口駅からケーブルとロープウエ
イで比叡山四明ヶ岳(標高点・838m)、京阪坂本線坂本駅からケ
ーブルで東塔。さらに京都市中からドライブウエー経由のバスがあ
る。大比叡には一等三角点(848.1m)

【位置】
・大比叡1等三角点848.1m:北緯35度3分57.66秒、135度50分
3.93秒

【地図】
・旧2万5千分1地形図名:京都北東部
【参考文献】
・『今昔物語集』:日本古典文学全集24『今昔物語・3』馬淵和夫
ほか校注・訳(小学館)1995年(平成7)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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