山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼961号「信濃富士・有明山の伝説」

【前文】
「なにを思案の有明山に小首かしげて出たわらび」と安曇節にも
歌われ、その形から信濃富士とも呼ばれる山。ここにも天の岩戸
伝説があり、手力雄命が岩戸を開いて、世の中が明るくなったの
で有明山というそうです。魏石鬼を田村麻呂が退治したという伝
説もあります。・長野県安曇野市と松川村にまたがる。
(本文は下記にあります)

▼961号「信濃富士・有明山の伝説」

【本文】
有明山(ありあけやま・さん)は、スズムシの里、長野県松川村
と、ワサビの里、安曇野市穂高町にまたがる山。北アルプス槍ヶ
岳への表銀座コースの前山にあたっており、その形から信濃富士
とも呼ばれています。古歌に「駿河なる富士を信濃にとりはなし
煙にまかふ秋の夕暮れ」というのがあります。

まるで富士山の上の方だけ「取りはなして」くっつけたようだと
いうわけです。有明山は地元人から親しまれた山で、「有明山の8
合目あたりに鉢巻き雲がかかると雨が降る」などと観天望気に利
用されたり、「なにを思案の有明山に小首かしげて出たわらび」と
「安曇節」に歌われています。

また古くからいろいろな歌人に詠まれており、西行法師の信濃の
国回国巡礼のとき詠んだ「信濃なる有明山を西に見て心細野の道
を行くなり」、また中世屈指の歌人といわれる後鳥羽院(ごとばい
ん)の「かたしきの衣手寒く時雨つゝ有明の山にかゝるむらくも」
(『続古今集』)などの歌があります。

その他、慈円(じえん)(平安から鎌倉時代の僧)の「おぼろなる
月は人ぬる峰にまた花に光の有明の山」(拾玉集)。さらに藤原定
家(鎌倉時代初期の公家・歌人)の「照りかはる紅葉を峰の光に
てまづ月細き有明の山」(拾遺愚草員外)などがあります。こんな
昔から信濃の有明山は、都の貴人たちの間でも知られているのは
形が富士山に似ていたからでしょうか。

有明山は戸隠山と同じように、天の岩戸伝説のある山で、手力雄
命が持ち上げた岩戸を放ったという意味の戸放山(とはなちやま)
とか、鳥放山などとも書かれます。また江戸初期の正保(しょう
ほう)年間(1644〜48)の信濃国絵図には取放山(とっぱなしや
ま)ともあります。

山名については、江戸時代中期の享保(きょうほう、きょうほ)
9年(1724)(松本藩内の総合書)『信府統記(しんぷとうき)』(第
十七、筑摩・安曇両郡旧俗伝)に、天の岩戸神話を引いて、「(有
明山ノ名ヲ戸放カ岳トモ云フ、其(その)子細ハ往昔(おうせき)
日神(日の神)岩戸ニコモラセタマヒシトキ、天下(あめのした)
暗闇トナリケルユヘ、手力雄命(たぢからおのみこと)岩戸ヲ取
リテ投ケタマヒシカバ、岩戸比所(ここ)ニ落チ止レリ、夫(そ)
レヨリ天下(あめのした)又明(あきら)カニナリケル故ニ、此
(この)山ヲ有明山トモ、戸放カ岳トモ云フトナリ、又鳥放カ岳
トモ云フ子細ハ、此山ニ鶏ニ似タル鳥アリテ、時ヲツクルユエト
カヤ、

一説ニ此(この)山月ノ比(ころ)ハイツモ陰(かげ)ナク照ス
ニ依(よっ)テ、有明山トモ云フト見ヘタリ」と山名の由来を述
べています。手力雄命のお陰で世の中が明るくなったので有明山
の名がついたという。またここには鶏に似た鳥がいて時をつくる
ので鳥放カ岳ともいう。一説にはここは月が明るく照らす山だか
らともいっています。また別に「中房辺(あたり)ニアル山ニテ
今ニ有明山ト伝へルハ古ヘ此地ニ鬼神住シトキ雲霧オホヒテ暗カ
リシガ神力ニテ鬼神モ滅ビ雲晴シガ故ニ有明山トハ称ヘシトナ
リ」。つまりむかし鬼がすんでいて、雲霧で覆い隠していましたが、
退治したあとは雲が晴れたのでこの山名にしたなどともあります。

伝説はともかく、戸放山や取放山など地元の人たちが慣れ親しん
できた山名が変わったのは、裏に、明治政府の地名を美しい名前
に変えよ、という命令があってのことのようです。明治政府はこ
んなことにまで口を出していたんですね。有明山への登山口は、
表口には、安曇野市穂高町有明宮城(みやしろ)口(いまは廃道)
と北安曇郡松川村の神戸(ごうど)口、それに裏口の中房温泉口
からの登山口があります。山頂は三角点のある北岳と、中岳、南
岳に分かれ、松川村の村境は山頂より北の端を通り、各ピークは安
曇野市に属しています。北岳には有明山社の奥社の祠があり、また
中岳と南岳には有明山神社の奥社の祠があります。この山も、明
治末年までは修験者が修行をする霊山でした。

(1:有明山社の里宮は、東北のふもとの松川村神戸(ごうど)西
原の乳川という川の近くにあります。ここには大きな岩があり「登
里奴命(とりやっこ)」と刻まれており、村人は「有明さま」とい
って崇めています。これは「有明さま」の伝説になっています(後
述)。また(2:有明山神社は、もと有明三社大権現(ありあけみ
やしろだいごんげん)といい、里宮は東南のふもとの穂高町有明
宮城口にあります。有明山神社は、明治21(1888)年に造りはじ
めたという新しい神社。大正2(1913)年、(西方の旧有明村)橋
場にあった「有明三社大権現(ありあけみやしろだいごんげん)」
という神社を合祀したことになっているそうです。明治の神仏分離
令の一端として、権現から神社に切り替えるためでしょうか。

祭神は手力雄尊、その他3神で、社伝によれば上古天表春命(あ
めのうわばるのみこと)という神の創祀となっています。この神
は「旧事本紀(くじほんぎ)」に出てくる神。思兼神(おもいかねの
かみ)の子で、天孫降臨のとき、警護のために天からくだされた32
神の1神。信濃阿智氏らの祖先神だそうです。しかしその社伝は、
明治の神社造営中につくられたものだそうです。ここには「魏石
鬼(ぎしき)の窟(いわや)」という所があります。これは古墳あ
とで有明山そのものをご神体とする斎場だったといわれています。

さて山頂東南のふもと、有明山神社里宮の近くに(3:五竜山明
王院正福寺があります。ここはもと五竜山明王院高山寺といってい
たという。だいたいこのふもとには八面大王、一名魏石鬼(ぎしき)
の伝説があります。この鬼を坂上田村麻呂が退治、田村麻呂はここ
に明王院高山寺を建立、また常念岳東ろくの安曇野市穂高町牧に
栗尾山満願寺を建てたという。さらに魏石鬼の窟(いわや)の岩
上に、高山寺の住職に命じて観音堂を建てさせ、八面大王の悪霊を
鎮めるために准堤(胝・じゅんてい)観音を安置したという。

高山寺(五竜山明王院)は、山岳信仰と深く結びついた有明三社大
権現(ありあけみやしろだいごんげん)(現有明山神社)の別当寺
だったそうです。高山寺は、明治3(1870)年に廃寺になり、のち
明治31(1898)年に再興していますが、明治のはじめ、明治政府
の神仏分離令に伴う廃仏棄釈の混乱で、ほとんどの記録を失ってし
まったという。そのため、この高山寺と深い関係にあった有明三社
大権現が、どういういきさつで、明治21(1888)年になって新し
くできた、有明山神社に合祀されることになったのかは不明にな
ってしまっています。

この山に伝わる話です。(1)魏石鬼伝説:平安時代はじめ、有明
山ろく穂高町有明宮城に「魏石鬼(ぎしき)」という鬼が住んでい
ました。魏石鬼は自らを八面大王と名乗り、妖術を使って悪行を
重ねていたという。勅命を受けた坂上田村麻呂が退治に出かける
が魔力が強く思うにまかせない。そこで栗尾村の満願寺に祈願し
たところ仏からのお告げがあった。「ヤマドリの三十三の節がある
尾羽で作った矢で射てみよ、必ず大王を退治できるであろう」。田
村麻呂が、ヤマドリの尾を探している話を聞いた矢村の若者が、
妻からもらったという三十三節ある尾羽を献上しました。ヤマド
リの尾を献上したこの男は、父親を魏石鬼に殺された身の上。十
干十二支(じっかんじゅうにし)でいう甲子(きのえね)の年の
甲子の月、甲子の刻の生まれという。

かつてある時、猟の際、捕らえたヤマドリを助けた。その後ヤマ
ドリは、女性に変身し若者のもとへ嫁ぎます。3年後、田村麻呂
が苦戦しているという話を聞いた妻は、若者に三十三節あるヤマ
ドリの尾を差し出した。さっそくその尾で矢を作り、やっと八面
大王を退治できたという。喜んだ田村麻呂は、若者に矢助の名を
与え一生の生活を保障する恩賞を与えた。翌日から妻の姿が消え
た。三十三節の尾羽は妻の尾だったという。

『日本伝説集』(高木敏雄(武蔵野書院)大正13(1924)年)とい
う本では、矢助は地元の有明村(いまの安曇野市穂高町)に住む
老人ということになっていて、三十三節の矢は、やはり以前助け
たヤマドリに貰ったものだという説を紹介(『日本伝説大系第七
集』)しています。田村麻呂はこの尾羽の矢で大合戦の末、ついに
魏石鬼を退治した。鬼の体は一緒に埋めると生き返るというので
バラバラに埋められ、いまでも耳塚(穂高町)、首塚、立足などの
地名が残っています。

先述の『信府統記』(第十七)にはこの物語について、こんな風に
書いてあります。「…中房山ト云処ニ鬼賊アリテ、国人ノ仇トナリ、
神社仏閣ヲ破壊シ、民家ヲ焼亡シ、悩乱セシムルコト年久シ、彼ヲ
魏石鬼、八面大王ト云フ、坂上田村麿是ヲ征伐スト云々、延暦二十
四年田村将軍当国ニ発向、矢原ノ庄ニ下着、中界ト云所ノ城ニ入ル、
吉祥ノ地ナレバトテ、川会ニテ、軍兵ヲ揃ヘ、翌大同元年(806・
平安初期)鬼賊退治アリ、矢沢ト云フ山ノ奧マテ攻登ラル、鬼賊所
々ニ戦フトシヘトモ叶ハス、散々ニ迯(=逃)落テ、爰(ここ)カ
シコニテ皆討捕ラルゝナリ、今ノ松川与耳塚ト云フハ彼夷賊ノ耳ヲ
埋メタル塚アル故、村ノ号ニ称ヘ来レリ、又鬼類ノ中ニ野狐ノ変化
シタル物ナトモ多カリシ、悉(ことごと)ク追詰メラレテ、本体ヲ
アラハシ、狐トナレルヲ討取シ所トテ、今ニ狐島ト云フ是ナリ、八
面大王ノ社トテ祠モアリシト云フ、一説ニ鬼王ノ首ハ庄内ノ地ニ埋
メテ塚魔ト号シ、其上ニ権現ヲ勧請アリ、今ノ筑摩ノ八幡宮是ナリ
トカヤ、鬼賊ノ剣ハ戸放大権現ニ納メラル、一説ニ鬼賊ノ剣三ツニ
折レテ、其柄ハ五竜山ノ滝坪ニ沈ミテ失セヌ、鋒(ほこ)ハ水沢若
沢寺ニアリシカ焼失セリ、央(?)ノ折レ五寸バカリ栗尾山満願寺
ニ今ニアリ、鉄ニアラズ石ノコトクナル物ニテ鎬(シノギ)アリ、
両刃形ノゴトシ、此外彼鬼賊ノ事跡ナリト云ヒ伝フル所余多アリ、
有明ノ里ヲ仁科ト号セシモ此時ナリ、鬼賊仁ノ科トナリタル義ヲ以
テ田村麿ノ名付ラレシトカヤ、…(『信府統記』第十七)。

また(2)「タラノキさま」という話もあります。有明山のふもと
に、タラノキさまと呼ばれる老木があるという。平安時代の末の
話です。京の由緒あるお姫さまが身分の低い男と恋仲になったと
いう。姫のおなかに赤子ができましたが、世間の目に京都にいた
たまれず、遠く信濃の国(長野県)に逃れていきました。やっとた
どり着いたここ有明山のふもとで、とうとう京の女は女の赤子を
生んだという。

しかし、姫の乳の出が悪く、まもなく赤子は息を引き取りました。
ふたりは大いに悲しみ、泣きながら赤ちゃんのお墓をつくり、そ
のかたわらにタラノキの芽をさしたという。そしてふたりはその
ままこのあたりにひっそりと暮らしていました。そののちタラノ
キは芽吹き、いつしか大きな木に成長していました。村人はこの
木のいきさつを知り、乳の神としてあがめられるようになり、近
在の乳のでない女性たちはこの木を「タラノキさま」と呼び、お参
りにくるようになったという。その後、この木のふもとに奈良の
春日神社を勧請して社を建立しましたが、さらにその後、有明山
神社とともに祭られるようになりました(『アルプスの伝説』。

(3)「有明山の背伸び」の伝説です。むかし、有明山は毎日少し
ずつ高くなっていたという。この調子で伸びていくとそのうち、
日本一の高さになるだろうといわれていました。ところがある日、
ひとりのお腹の大きい女性が、立ち小便をしながら山を見てせせ
ら笑ったという。「毎日、毎日、あんなに持ち上がって、つまりは
どうするつもりズラ」。すると、その日そのときから有明山は高く
なることをやめてしまったということです。

(4)「信の宮伝説」:有明山社の里宮がある松川村川からの登山
道中に天狗岩があります。むかし有明山のふもとに住む久兵衛と
いう人に信太郎という子供がいました。信太郎はある日、友達と
馬を追って芦間川にササ刈りに行きました。馬羅尾谷というとこ
ろまでくると、信太郎はなにを思ったか馬の背中に立ち上がり、
天狗岩の大岩に飛び移りました。とたんに信太郎の背丈がグング
ンのびて、頭が雲の中に入って行きます。友達はただただあっけ
にとられるばかり。

すると雲の中から信太郎の声が聞こえてきました。「さらば、さら
ば、さらば」。その声は雷鳴のようにとどろき、山にこだまして響
きわたりました。すると、天狗岩の上にある信太郎の足が動き出
し、谷をひとまたぎして、山の向こうに消えていきました。父親
の久兵衛は悲嘆にくれました。これから老いの身ひとつで広い田
んぼの植えつけや収穫などどうしたものか。

ところが、5月になると久兵衛の田んぼは、いつのまにか青々と
した早苗が風になびいているではありませんか。また秋になると
一夜のうちに、黄金色に実った稲が刈り取られ、きれいに積み上
げられています。「これは信太郎のお陰に違いない」。父親は、馬
羅尾谷に祠を建てて彼をまつりました。里人は「久兵衛は鬼にな
った子供をまつった」と、口々に噂しあった。そして「信太郎の
宮」というのを略して「信の宮」と呼び伝えたという。いまでも
この「信の宮」は里の方に背を向け、山に向かって建っていると
いうことです。

(5)「有明さま」:昔、川西に住む想兵衛という人が、家に帰る
途中「とりやっこ」(岩の多い河原のこと)というところまできま
したが、よほど眠かったのかつい昼寝をしてしまったという。す
ると家に帰ったとたん想兵衛は病気になってしまいました。これ
は「とりやっこ」の神さま(有明さま)の祟(たた)りに違いな
いと思い、そこに社(やしろ)(有明山大明神)を建てました。す
ると病気はすぐに治ったという。いまもその場所に「登理奴命(と
りやっこのみこと)」刻んだある大岩があります。村人はいつのこ
ろからか、この岩の前で登理奴命をまつり、有明山を遙拝するよ
うになりました。のち、ここに社殿を建てて有明山社としたそう
です。

▼有明山【データ】
【所在地】
・長野県安曇野市(旧穂高町)と松川村にまたがる。大糸線有明
駅の北西10キロ。JR大糸線穂高駅からタクシー中房温泉下車、
さらに歩いて5時間で有明山北岳(2等三角点2268.4m)がある。
さらに中岳があり、南岳には写真測量による標高点(2248m)が
ある。北岳には有明山社の奥社(里宮は松川村西原)が、中岳と
南岳には有明山神社の奥社(里宮は穂高町有明(現安曇野市)の宮
城(みやしろ))がある。

【名山】
・「日本二百名山」(深田クラブ選定):第160番選定(日本百名山
以外に100山を加えたもの。日本三百名山にも含まれる)

【位置】
・【有明山・南岳標高点2248m】北緯36度23分15.47秒、東経137
度46分15.60秒(住所:長野県安曇野市穂高有明)
・【有明山・北岳2等三角点2268.4m】北緯36度23分28.00秒、
東経137度46分14.41秒(住所:長野県安曇野市穂高有明)

【地図】
・旧2万5千分1地形図名:有明

【参考文献】
・『アルプスの伝説』山田野利天著 (株)ナガザワ
・『北アルプス白馬連峰 その歴史と民俗』長沢武(郷土出版社)
1986年(昭和61)
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『北アルプス物語』朝日新聞松本支局(郷土出版社)1982年(昭
和57):
・『信州山岳百科・1』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『信府統記』(しんぷとうき):享保9(1724年)(松本藩内の総
合書)松本藩主4代水野忠恒の命により、鈴木重武・三井弘篤が
編修した。
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝説大系7・中部』(長野・静岡・愛知・岐阜)岡部由文
ほか(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・『日本の民話・10』(信州・越中編)(未来社)1974年(昭和49)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979年(昭和54)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)
・『柳田国男全集6』柳田國男(筑摩書房)1989年(昭和64・平
成1):(p335・魏石鬼の耳塚):(p496・魏石鬼)
・『山の伝説・日本アルプス編』青木純二(丁未出版)1930年(昭
和5)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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