山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼958号「奥多摩三頭山・人里、数馬の集落と長嶺の池」

【短略文】
この山のふもとの人里(へんぼり)の集落名は蒙古語に由来してい
るという。また数馬は南北朝時代、この土地を開拓した南朝ゆかり
の中村数馬という人の名から来ているという。この山麓には美しい
娘が池のヌシになっているとか、池のヌシの子を宿したという伝説
が残っています。
・東京都と山梨県市との境。
(本文は下記にあります)

▼958号「奥多摩三頭山・人里、数馬の集落と長嶺の池」

【本文】
 三頭山は、大岳山、御前山とともに「奥多摩三山」に数えられて
奥多摩のなかでも人気がある山です。南秋川の源流になっており、
御堂峠とか御堂岳、三頭御前などの別称もあるそうです。3つの頭
(峰)の山で三頭山。3つの峰とはいうものの、どれが3つの峰
かはっきりせず、研究者の間で争われてきたという。現在は、祠の
ある東峰と、三角点のある中央峰、それに西峰の3峰からなってい
ます。

 この山も神の山。山麓の村落がそれぞれに峰の上に祠を奉納し、
毎年祭礼を行ってきました。いまも東の峰に三頭御前社の祠があり、
かつて鰐口(わにぐち)や矢じりが奉納され、山の神をまつったと
いいます。「三頭山」という名前の由来にはそれこそ「グジャグジ
ャ」になるほど多くの説があります。

 (1:山嶺三峰ヲナス故ニ三頭ノ称アリ(『武蔵通志」山岳編か
ら)との説、(2:一名三頭御前ト云フ(『多摩郡村誌』から)、(3
:御堂峠(みどうとうげ)(『甲斐國志』から)、(4:御堂嶽(み
どうだけ)(「富士見十三州輿(こし)地之全図」秋山永年撰・天
保13年(1842)から)。また(5:檜原村である人に聞いたら、
近くにある山だが見かけが遠いから見遠(みとう)だ(梅沢親光
氏「御前山塊」から)、(6:三頭(みとう)のミは多いを示す詞
で、その証拠には見る方向によって4つにも5つにも見える。す
なわちあのあたりの総称としている。

 (7:高山(甲州鶴川側での呼び方)、(8:三頭山(『新編武蔵
風土記稿』から)などがあります。このうち(3、(4について現
在でも地元の古老はこの峰をミドウと濁って発音して呼ぶそうで
す。山梨県側の猟師の話として聞くところによると、昔は旧暦の10
月7日の山ノ神祭りに、数馬・小河内・西原の猟師は、山頂に登
って宮の前で杯を交わして祝ったという。もとは各村でそれぞれ
にまつった祠があり、合計して3つあったのでミドウ(三堂)と
もいわれていたようです。

 『多摩郡村誌』という古書に「……本村(檜原村)ト河内村飛
び地界ノ嶺上に小祠アリ大山祇(おおやまづみ)ヲ祀ル、之ヲ三
頭御前ト云陰暦十月七日ニ当ル日ヲ以テ祭典ヲ行フト云」(『奥多
摩』)。これが三頭御前で、かつて奉納されていた鰐口の銘に「明
和二年(江戸時代1765年)四月一日献数馬総組中」とあるそうで
す。こんなことから三頭山は、三堂山(みどうさん)と呼ぶのが
正しく、「御堂」は山頂の峠付近に、信仰を集めていた宮があった
ためにできた名ではないかと奥多摩の研究家宮内敏雄はその著書
で述べています。そういえばいまでも御堂峠という地名があります
ね。

 さて三頭山の西峰から南に下ったところに三頭山避難小屋があり
ます。その避難小屋の東下にある三頭ノ大滝は、昔からクマやオオ
カミが出没していたそうで、山麓の娘さんが三頭山の頂上で襲われ
た話も伝えられています。またこの山麓には人里(へんぼり)など
という変わった名前の集落があります。その由来は遠い昔、大和朝
廷の施策によって都からやってきた帰化人が人里を切り開いて住み
ついたという。この不思議な地名の語源は蒙古語からきているそう
です。

 千数百年前、大和朝廷の東国開拓の施策で先進技術をもった渡来
人たちはやってきて移住してきたというのです。その一行の一部が
この檜原にやってきて土着したのがはじまりらしい。地名の「へん
ぼり」は、蒙古語で人を表す「フン」と里を表す新羅語の「ボル」
をくっつけ、フンボル(人の住む里)がヘンボリに訛っていったの
ではないかといわれています。

 また、人里は和田、事貫、上平、笛吹の4地区からなっています
が、和田の名は鎌倉時代の初頭、武家政権樹立に活躍した御家人和
田義盛が北条氏の謀略により討滅された時(和田の乱・1213)、そ
の一族がこの地に落ちて隠れ住んだことによるとしています(「郷
土史・檜原村」)。また南北朝初頭には南朝方の落人が数馬にやって
きて土着、また戦国末期には武田の落人が大勢土着しました。数馬
の地名は、その時この地を開拓した南朝ゆかりの中村数馬という人
の名前から来ているのだそうです。

 この山にはこんな伝説が残っています。三頭山のふもと、笛吹(う
ずしき)という村に、オマンジャという美しい娘が住んでいました。
足元までのびる漆黒の髪、その黒髪をとかす姿は、里の若者たちの
あこがれの的でした。ある年の夏、大雨で秋川が暴れ、娘は濁流に
流されてしまいました。両親は嘆き悲しみ途方に暮れているところ
に、旅の行者がやってきました。行者は事情を聞き入念に祈祷をく
りかえし、娘の居所をつきとめました。

 「娘さんは、三頭山の尾根の向こうにある長峰の池で、蛇になっ
て生きている」。蛇でもなんでもオマンに会いたい。両親は土産を
持って池に急ぎました。池は青くよどみ気味が悪く、ほとりには白
い花が一面に咲いています。両親が娘の名を呼ぶとよどんだ水面が
ざわめいて、ものすごい形相の大蛇があらわれました。蛇は松の木
に登り、口を開いて真っ赤な舌をのぞかせています。

 両親は足も地につかずあ然として立ちつくします。やがて蛇は松
の木を下りて水にもぐってしまいました。するとこんどはさざ波が
立ち、かわいい小さな蛇が出てきて、両親の足もとでたわむれます。
そして小さい蛇は親たちの足を舌でなめて、振りむくように池の中
に消えていったのでした。それを見て両親は涙ながらに土産を置い
て帰っていったということです(「昔々の多摩話・笛吹のオマンジ
ャ」)。

 さらにこんな話もあります。同じ笛吹の里に美しい娘がいました。
ある時、旅の男が訪ねてきて滞在している間にふたりはねんごろに
なり、娘はこどもを宿しました。そのうち、娘は男の様子がおかし
いことに気がつきました。男はいずれここから出ていくにちがいな
いと感じたのです。娘は母親に相談しました。娘は母親の教えたと
おりそっと男の足に糸を結びました。ある夜、男はどこかへ出てい
きました。

 夜が明けると、母親は糸をたどって峠を越えて山梨県側に下りま
した。林が開けなおもたどっていくと、糸は沼水のなかに消えてい
ます。母親は娘が、この沼のヌシの蛇につかれて、身ごもったこと
を知りました。娘は出産が近づいてきました。5月5日の節句がき
ました。母親は菖蒲を入れた酒を娘に呑ませました。すると娘は産
気づき「七樽七盥(たらい)」の蛇の子を産み落としました。それ
からというもの厄が落ちて、蛇男が2度と訪ねてこなくなったとい
うことです。昔から菖蒲は邪気を祓う力があるといわれていますね。

▼三頭山【データ】
【所在地】
・東京都奥多摩町と檜原村、山梨県小菅村と上野原市旧上野原町
各地区名(旧北都留郡上野原町)との境。JR五日市線武蔵五日
市駅の西19キロ。JR五日市線武蔵五日駅からバス・数馬から2
時間で三頭山(最高峰は中央峰で1531m)。

 東峰に三等三角点(1527.52m)、中央峰に写真測量による標高
点(1531m)がある(西峰にはない)。四阿がある。地形図に山名
と三角点の標高と標高点の標高の記載あり。西峰より南方向400m
に避難小屋がある。

【名山】
・「日本三百名山」(日本山岳会選定):第234番選定:日本百名山
以外に200山を加えたもの。
・「山梨百名山」(山梨県選定):第69番選定

【位置】
・三頭山標高点(中央峰):北緯35度44分20.08秒、東経139度00分
50.01秒
・三頭山三等三角点(東峰):北緯35度44分18.94秒、東経139度00
分50.59秒

【地図】
・旧2万5千地形図「猪丸(東京)」(別の図葉名と重ならず)。5
万分の1地形図「東京−五日市」

【参考文献】
・「あしなか」(山村民俗の会)
・『奥多摩』宮内敏雄(百水社)1992年(平成4)
・『奥多摩風土記』大館勇吉著(武蔵野郷土史研究会)1975年(昭
和50)
・「奥多摩町異聞」瓜生卓造(東京書籍)
・『角川日本地名大辞典13・東京都』北原進(角川書店)1978年(昭
和53年)
・「郷土史 檜原村」檜原村文化財専門委員会編著
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『多摩郡村誌』明治11(1878)年編纂。
・檜原村文化財専門委員の岡部駒橘(こまきつ)氏(秋川市在住)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『檜原村紀聞』(その風土と人間) 瓜生卓造(平凡社)1996年(平
成8)。

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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