山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼937号「日の子と天狗の山・英彦山」

【前文】
修験道と天狗の山、英彦山。新潟県の弥彦山、兵庫県の雪彦山とと
もに「日本三彦山」に数えられています。日の子である神をまつ
っていたので「日子山」。それがヒコサンになり彦山に。さらに江
戸時代天皇から「英」尊号を受けて英彦山になりました。ここに
は日本を代表する天狗、豊前坊もいます。
・大分県中津市と福岡県添田町とにまたがる。

・【本文】は下記にあります。

▼937号「日の子と天狗の山・英彦山」

【本文】
英彦山(ひこさん・えいひこさん)は、彦山とも書き、九州地方
の北東部・大分県中津市(なかつし)と福岡県添田町(そえだま
ち)にまたがる山(山頂の境界は途切れています)。北九州第一の
高峰で、南北約3.5キロ、東西約5キロの山塊。主峰群は最高峰の
南岳(みんまいだけ・1199.6m)、中岳、北岳(1192m)のピーク
が連なる尾根からなっています。三角点は南岳に、英彦山神宮の上
宮は中岳にあり、西方中腹の添田町に英彦山同宮奉幣殿があります。

その周囲には岳滅鬼山(がくめきさん・1037m)や鷹ノ巣山(979
m)、釈迦ヶ岳(844m)などがあり、英彦山火山群を形づくって
います。全山が植物の宝庫。英彦山は九州修験の総本山として、
また天狗の山として有名です。また新潟県の弥彦山、兵庫県の雪
彦山とともに「日本三彦山」にも数えられる名山でもあります。

県北第一の山国川は、この山の水を集めて流出、名勝として名高
い耶馬渓(やばけい)の渓谷をつくっています。耶馬渓、日田と
ともに1950年(昭和25)耶馬日田英彦山(やばひたひこさん)国
定公園の指定を受けました。英彦山の中岳頂上には英彦山神社の
上宮があり、日の子である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこ
と)をまつっています。そのため古くは「日子山」と書かれてい
ました。

天忍穂耳命は天忍骨尊(あめのおしほねのみこと)ともいい、天
照大神(あまてらすおおかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)
のウケヒ(占いの一種)によって生まれた神だそうな。(神が占うと
いうことは、神の上にまた神がいることになりますが?)。この神
がこの山に天下ったからとも、大己貴命(おおなむちのみこと)が
日胤尊(ひこたねのみこと)にこの山を譲ったからとも伝えていま
す。「日子山」がやがてヒコサンになり、「彦山」になっていきます。
(平安時代前期の嵯峨天皇のころだったという)。

それが寛文年間(1661〜1673年・江戸前期)霊元天皇(れいげん
・第112代)とも、享保14年(1729)、霊元上皇になってからとも
いいますが、とにかく宸筆(しんぴつ・天皇自筆の文書)で、英彦
山と書かれた尊号を受けたため、それからは「英彦山」が定着しま
した。「英」は美称です。

ここは早くから霊山として信仰の対象になり、山域に洞窟など修
験の道場が営まれ、平安時代には彦山権現社、霊仙寺を中心とした
一山組織として整備されたという。中世(鎌倉・室町時代)には豊
前六峰とよばれた傘下の諸山(英彦山霊泉寺、求菩堤山護国寺、桧
原山正平寺、松尾山医王寺、福智山、普智山等覚寺)を足がかりと
して当山の修験は九州九国二島(筑前国、筑後国、肥前国、肥後国、
豊前国、豊後国、日向国、大隅国、薩摩国の9国と、対馬、壱岐の
2島)に勢力を拡げました。

幕末期には山ろくに宿坊250、檀家は九州全土で42万戸を数える
ほどだったという。大和の大峰山、出羽の羽黒山とならんで「日本
三大修験道場」とされていたそうです。この山の歴史はというと、
鎌倉時代前期の建保元年(1213)撰述されたとされる縁起書『英彦
山流記』(『流記』ともいう)によれば、継体天皇(けいたいてんの
う・第26代天皇・在位507〜531年)の25年(西暦531)に藤原
恒雄という人が開山し、のちに、坊さんの法蓮(ほうれん)が法統
を継いで中興したということになっています。

ところが、安土桃山時代の元亀3年(1572)の『鎮西彦山縁起』(『元
亀縁起』ともいう)によれば、開山したのは中国魏国の善正という
坊さんで、豊後の国日田郡の狩人藤原恒雄が善正に帰依、出家して
忍辱と号し、霊仙寺を開き、上宮3社を建立したことになっていま
す。この藤原恒雄とは、一説に朝鮮神話で始祖神とされる檀君(だ
んくん)の父桓雄(かんゆう・帝釈恒因(かんいん)の子)の投影
ではないかという見方もあります。

そのほかこんな伝承もあります。欽明天皇(きんめいてんのう)の
3年(安閑天皇元=534)、彦山権現が中国天台山の王子晋(おう
ししん)の旧跡を経てこの山に登りました。そして当山の地主神に
この山を譲って貰ったという話もあります。そのほかに役ノ行者も
からんできます。文武天皇の慶雲2年(705)に大和の葛城山で修
行した役ノ行者(小角=おづぬ)が当山に入山しました。その時、
彦山権現の霊があらわれたという。そしてここを拠点に何度も三
唐(から・韓)の国へ渡っていったそうです。

さらにのち、熊野の別当(寺務を治める)増慶が入山して松会神事
(まつえしんじ)を創始したなどと伝えます。『彦山流記』、『鎮西
彦山縁起』には上宮三社に関して、南岳に天降った神が伊弉諾尊(い
ざなぎのみこと)で、本地は釈迦如来、中岳は伊弉冉尊(いざなみ
のみこと)で、本地は千手観音、北岳は天忍骨尊(あめのおしほね
のみこと)で、本地は阿弥陀如来だとしています。

明治時代になると、新政府の出した「神仏分離令」によって改革が
おこります。僧侶としての籍にあったものすべて、座主(ざす)以
下還俗させられ、みな神祇官(じんぎかん)管下に移されて英彦山
神社の支配下になってしまいました。それにともない「廃仏棄釈」
の嵐が吹き荒れます。これは一時どこかの国で起きた「文化大革命」
のようなもの。

仏像の首は容赦なくもぎ取られ、塔や堂、伽藍など建物は破壊され
ていきました。こうして千年の星霜を経てつづいてきた英彦山の法
灯は、明治政府によって容赦なく消されてしまったのでした。しか
し、わずかながら、そこここに逆鉾岩、鬼仙酔、鬼が残した材木が
石になったという伝説のある材木岩などの奇岩、磨崖仏、佐賀藩主
清久が幼少のころ転落したという稚児落など、修験者の足跡をしの
ぶ見どころは残っています。

さて、山頂北岳の北方に豊前坊(ぶぜんぼう)という場所がありま
す。この山で有名なのが豊前坊という名前の天狗。そもそも天狗に
は大天狗、中天狗、小天狗、カラス天狗、木の葉天狗、水天狗など
いろいろいますが、ここの豊前坊は大天狗の中でも豊前坊という名
前のある大物天狗で、日本を代表する天狗を集めた「日本八天狗」
に入っているほどの天狗です。

豊前坊バス停近くにある高住神社が豊前坊天狗がまつられていると
ころ。近くの岩壁の洞くつが豊前坊のすみかということになって
います。「豊前坊同木練(きねり)坊)寂しければ酒ほがひせむこ
よひかも彦山天狗あらはれて来よ。彦山はおもしろき山杉の山天狗
すむ山むささびの山」……。大正、昭和期の歌人で脚本家の吉井勇
も英彦山の天狗について詠っています。ここに出てくる木練坊とは
豊前坊の眷属です。

豊前坊天狗の由来について『彦山縁起』は次のように記していま
す。「太古、天津日子忍骨尊(あまつひこおしぼねのみこと)の霊、
蒼鷹(あおたか)に化して此嶺に降止し、水晶石に影向(えいこ
う・神仏が仮の姿をとって現れること)し、本体を顕し給ふ。之
を高住(たかすみ)宮と申す。役行者小角、高住宮旧跡を求めて
登山の時、更に少年の姿を現して行者の大願を賛嘆し給ふ。行者
云々の言によりて、忽ち夜叉の形に変じ、大身憤怒の相を現し給
ふ。則ち今の豊前坊、天行夜叉の尊体なり。然りしより霊験日夜
にあらわる。時に或は山岳を鳴動し、厳岳を辟易す。故に世の人
之を天狗倒しと云ふ」とあります。


つまり「大昔、神が蒼鷹(あおたか)に姿を変えて英彦山に降臨し、
本体を水晶石(高住宮)になってあらわれました。そして役ノ行
者が高住宮の旧跡を求めてこの山に登ってきた時、神は少年の姿
であらわれ、行者の大願を称賛。こんどは夜叉の姿に変身して憤
怒の相をあらわしました。これが豊前坊天狗の本体だというので
す。

また『彦山記』という文書には「豊前崛(くつ)、一ニ鷹栖ノ宮ト
云フ。高天原ノ奧ニ有リ。主神ヲ憐愍(れんみん・れんびん)童
子ト称ス。大日霊貴尊の変身ナリ。脇士(わきじ)ヲ火明命火返
命ト云フ。行者峰ノ時出現ナリ。唱和ノ言有リ。行者慈善ノ難キ
ヲ以テ、忽チ変ジテ夜叉ノ形ト作ス。威容畏ム可ク、勇猛素尊(す
さのおのみこと)ノ如シ。大イニ霊験ヲ現シテ、山岳鳴動斉ク作
ス。其ノ威神神(いしんじん)ヲ豊前坊天行夜叉飛行夜叉ト称ス」
とあります。

ここの天狗はよく人をさらうという。その昔、天狗にさらわれた話
はよくあったそうですが、たいていは天狗のすみかがある英彦山
まで連れて行かれたといい、ほとんどが豊前坊天狗の仕業だとさ
れていたそうです。ここをもとにつくったとされる、謡曲『花月』
にも、7歳の花若(はなわか)が彦山に登って、天狗にさらわれ、
天狗のすむ山々を引き回される話があります。

豊前坊についての話は、豊臣秀吉朝鮮攻めの際、軍船をつくる材
料に英彦山のご神木の杉を切ろうとした小早川隆景が豊前坊天狗
にこっぴどく脅かされた話も残っています(『陰徳太平記』)。ちな
みに小早川隆景は、毛利元就の子で従三位、権中納言まで登りつ
めた人物です。

英彦山豊前坊天狗をまつった高住神社は、いまは彦山神社から独
立して、鷹ノ巣山の岩窟内に本殿があります。社殿の背後の大き
な岩窟が本殿で、岩に木組みをして廂(ひさし)がかかっています。
そこの岩窟に豊前坊がすんでいるというのです。境内に大きなトチ
の老木があって、その入り口のところに、「橡(とち)の実のつぶ
て颪(おろし)や豊前坊」(杉田久女)という句碑が建っています。

先にも書きましたが、豊前坊の眷属に木練坊という天狗がいるこ
とになっています。この荒山伏の木練坊は、ある日天狗になろう
としてもっとも難行といわれる「千日臥(が)行」をはじめまし
た。臥したまま千日間辛抱するという苦行です。

やっとの思いで荒行を遂行、満願成就を果たした木練坊は大あく
びをしながら、目の前の2本の大木を両手で縄をなうようによじ
り合わせてしまったという。いまもそのより合わされた、2本の
大木が奇妙な形で残っています。木練坊はいまも時々姿を見せる
という。ただ、彦山神社の熊懐(くまだき)権宮司は、木練坊は
山伏ではなく、中国清僧の出で、モクレン坊と呼ぶのが本当だと
いっているそうです。

▼英彦山【データ】
【所在地】
・大分県中津市(なかつし・旧下毛郡山国町)と福岡県田川郡添
田町(そえだまち)にまたがる(山頂の境界は途切れている)。J
R日田彦山線彦山駅の南東6キロ。JR日田彦山線彦山駅からバ
ス、銅鳥居停留所下車、さらに歩いて2時間で英彦山中岳。英彦
山神宮上宮がある。

・さらに南方へ10分で最高峰南岳。1等三角点(1199.49m)があ
る。中岳から西南へ30分で北岳。標高点1192m。さらに北へ逆鉾
岩を経由して1時間で高住神社がある。

【名山】
・「日本二百名山」(深田クラブ選定):第195番選定(日本百名山
以外に100山を加えたもの・日本三百名山にも含まれる)
・「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第90番選定

【位置】
・三角点:北緯33度28分34秒.4905、東経130度55分33秒.5026

【地図】
・旧2万5千分1地形図名:英彦山

【参考文献】
・『角川日本地名大辞典44・大分県』竹内理三(角川書店)1991年
(平成3)
・『角川日本地名大辞典40・福岡県』竹内理三(角川書店)1991年
(平成3)
・『山岳宗教史研究叢書15』「修験道の美術・芸能・文学」(U)五
木重編(名著出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書・18』(修験道史料集・2)五来重(ごら
いしげる)編(名著出版)1984年(昭和59)
・『修験道の本』(学研)1993年(平成5)
・『修験の山々』柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系41・福岡県の地名』(平凡社)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系45・大分県の地名』(平凡社)1995年(平成
7)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
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