山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼884号 房総・天富命の富山と天狗の伊予ヶ岳

房総半島の南部にある富山と伊予ヶ岳は双方ともに双耳峰。両方と
も360度の展望で、御殿山から鋸山など房総の山々、東京湾をはさ
んで富士山、伊豆大島まで一望できます。富山は房総を開拓した天
富命から、伊予ヶ岳は愛媛県(伊予の国)の石鎚山に山容が似てい
ることに由来しているという。
(本文は下記にあります)

【本文】

房総半島の南部に位置する富山(とみさん・349.5m)と伊予ヶ岳
(いよがたけ・336.6m)。両方とも360度の展望で、御殿山から鋸
山など房総の山々、眺望のきく日には東京湾をはさんで富士山、
伊豆大島まで一望できます。

とくに富山は、別名天富山(あめのとみさん)、遠見山ともいい、
古くから航海の目標とされてきました。形のよい双耳峰は、JR内
房線岩井駅からも東側に眺められます。双耳峰は、山頂にまつって
ある本尊から観音峰と呼ぶ南峰と、鞍部を隔てた金毘羅峰と呼ば
れる北峰があります。北峰の広場には展望台もあります。

富山とは、『日本後紀』(平安初期)の弘仁2年紀に「安房ノ人大
伴直勝麻呂、姓ヲ大伴登美宿祢(とみのすくね)ト賜ル」とあるこ
とから登美宿祢に因んだものとも、また、古代に阿波忌部(いんべ)
の一族を率いて安房にやってきて、房総を開拓した天富命(あめの
とみのみこと)がここで死んだという伝説にちなむ(『安房志』明
治41・1908年)ともいわれています。ここの観音堂には天富命の
神霊がまつられていたそうです。

一方、ここが天富山とするのはここに天富命の墓地があり神霊をま
つってあったからで、その神霊は、成務天皇(記紀による13代天
皇・在位131~190年)の時、末裔である久登美が安房神社(千葉
県館山市)に移したという説もあります)。

富山や二ツ山(ふたつやま・鴨川市)には雷とともに落ちてくる雷
獣という小獣がいて、雷獣狩りをしたという(『房総雑記』)。これ
は鼬?(ゆうえん・ネズミに似て尾がなく体黒く長鼻、四肢短く土
中にすみ、ミミズや虫を食べる)のようなものを捕まえ殺すとその
夏は雷が少なく、狩りをしないと雷が多くおこるという(『和漢三
才図会』)。この雷獣は各地の山でも多く目撃され、丹沢大山、奥秩
父金峰山でも捕まえたりしたそうです(『同書』)。

さて富山南峰にはもと天平3(731)年、行基(ぎょうぎ)菩薩創
建といわれる観音堂があったので観音峰の名がありますが、昭和38
(1963)年の失火で焼失。いまは仮堂がポツンと建っています。
以前は壊れかかった仁王門で仁王様が迎えてくれましたがなくな
ってしまいました。いまはやぐらに羅漢さま、そのほか十一面観
音像、石祠などがあるだけです。

しかし江戸時代には、境内で雨乞いの降雨祭が行われていたといい、
また鐘楼のほか、浅間社や、石尊社、熊野社などの祠もまつられ、
宿坊まであったと副満寺の古い記録にあるそうです。

観音堂仮堂わきには巖谷小波の詩碑があって「山高きが故に尊から
ず、この山馬琴の麗筆によりてその名永(とこしえ)に高く尊し」
の文字も刻まれています。南峰からの鞍部には「西国観音」碑があ
り、北峰入り口には金毘羅神紋である丸金の字を彫った自然石もあ
ります。

北峰は金比羅堂があるので金比羅峰とも呼ばれます。文久年間
(1861〜1864)、江戸の講中によって金毘羅堂が勧請されたものだ
そうです。お堂の裏山頂に三等三角点があります。その付近に「金
毘羅大権現」石碑、弥陀(キリーク)の種子を彫ったらしい「弥陀
三尊」の碑、「金山毘古命」の碑、「東照大権現」碑などが江戸期の
面影を残してくれています。

その先の北峰広場は「十一州展望台」と呼ばれ、展望塔の階段を登
ると眼下の東京湾に浮かぶ船、海岸にそって走る電車。また富士、
箱根をはじめ、鋸山から伊豆大島など360度のパノラマ。まさに「遠
見山」とも呼ばれたのも納得できます。

この山は滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の「富山(とやま)の洞
(ほら)に畜生菩提心を発(おこす)流行(ながれ)に泝(さか
のぼり)て神童未来果を説く」の舞台としても有名で、鞍部を西
側に下った所に「伏姫の籠穴」があります。

入口には観光名所として看板が立ち、「仁・義・礼・智・忠・信・
孝・悌」の文字をつかっての説明文もあります。洞窟の中には、
祠や石塔があって異様な雰囲気が漂っています。ところが作者の
馬琴は、ここに来たことがないというから面白い。実は現地取材
なしの創作洞窟が、後世になりそれこそ偶然に発見されたものと
いうのですからおもしろいものですね。

この富山と西にそびえる伊予ヶ岳とをセットにして登る人も多い。
伊予ヶ岳はまた雨乞いの山でもあります。山頂は南北2峰の双耳
峰で三角点は北峰にあります。

ここは千葉県内ではめずらしく岩峰の山で、上州の妙義山にちな
んで「安房妙義(あわみょうぎ)」の異名を持ちます。伊予ヶ岳と
伊予(愛媛県)の大岳(石鎚山・いしづちさん)は関係があると
いう人もいます。昔から安房地方は四国や南紀地方との関わりが
深く同じ地名も多い。

また伊予ヶ岳には、天狗伝説が多く修験道の山らしいのも石鎚山
と共通するところです。この山には、毎晩のように山頂から天狗
の話し声が聞こえ、一番鶏の鳴くまで続くという。

921年(延喜21)(「房総の伝説」)というから平安時代も前半。あ
の菅原道真公のたたりがどうのこうのという数年前の話です。安
房の国司小松民部正寿が千倉に小松寺(現在の南房総市千倉)を
建立し落成祝いの真っ最中。突然、稚児舞いをしていた息子の千
代若が天狗にさらわれました。

そして遠く離れたここ伊予ヶ岳で遺体が見つかったというのです。
また幕末から明治時代の教育者嶺田楓江が著した『千葉縣古事志』
には延喜11(911)年としています。

しかし、小松寺は文武天皇(683〜707)のころ役行者小角によっ
て小庵が建てられ、天長8(831)年になり慈覚大師により堂塔が建
て替えられますが、平安時代前期、火災で寺院が全焼。

しばらく廃墟のままでしたが、延喜20年(920年)、国司安房守住
吉朝臣小松民部正寿により再建されると小松寺の由緒にありますか
ら事件のあったのは921年(延喜21)の方が正しいようです。

伊予ヶ岳の頂上には「伊予大明神」をまつったとするもの(『房総
志料続編』天保4(1833)年)、「飯縄権現」をまつったとするもの
(『房総遊覧誌』弘化2(1845)年)、少彦名命(すくなひこなのみ
こと)をまつった小祠があるとするもの(『大日本国誌・安房』明
治19(1886)年)と、年代に下がるにしたがい変わってきていま
す。さらに山頂南面直下に青龍権現の石の祠があります。竜といえ
ば「雨」がつき物。ここが雨乞いを行う場所だったそうです。

▼富山北峰【データ】
【所在地】
・千葉県南房総市富山地区(旧安房郡富山町)。JR内房線岩井駅
の東3キロ。JR内房線岩井駅から歩いて1時間半で富山南峰。
さらに10分で北峰。南峰に観音堂の仮堂があるが地形図には地名
標高ともに記載なし。北峰に三等三角点(349.5m)と電波塔があ
る。

【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・三角点:北緯35度05分55.82秒、東経139度52分53.48秒

【地図】
・旧2万5千分の1地形図「保田(横須賀)」or「金束(横須賀)」(2
図葉名と重なる)。

▼伊予ヶ岳【データ】
【所在地】
・千葉県南房総市富山地区(旧安房郡富山町)。JR内房線岩井駅
からバス、天神郷バス停から歩いて1時間で伊予ヶ岳。二等三角
点(336.56m)がある。地形図に山名と三角点の標高の記載あり。

【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・三角点:北緯35度06分26.27秒、東経139度54分50.35秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「金束(横須賀)」

【山行】
・2002年(平成14)年1月12日(土・快晴)

【参考文献】
・「小松寺」HP
・「角川日本地名大辞典12・千葉」川村優ほか編(角川書店)1984
年(昭和59)
・「新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「南総里見八犬伝」(第二輯巻の一、第十二回)曲亭馬琴(小池
藤五郎校訂)(岩波書店)1985年(昭和60)
・「日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『房総山岳志』内田栄一(論書房出版)2005年(平成17)
・「房総の伝説」平野馨著(第一法規刊)1976年(昭和51)
・「房総の山」千葉県山岳連盟(千秋社)1977年(昭和52)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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