山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼857号 「日光・男体山の家族伝説の由来元」

▼857号 「日光・男体山の家族伝説の由来元」

【本文】
日光の男体山は、この山を神体とする二荒(ふたら)山神社(山
頂に奥社)の祭神・大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命・
大黒さま)が男神であるため、男体山と呼ばれているという。奈
良時代のえらいお坊さん、勝道上人が782(延暦元)年にこの山を
開いたと、弘法大師空海が漢詩集「性霊集」に書いています。

その時、どのコースを登ったかについてはこだわりがあるらしく、
いろいろな人の間で難しい論議が交わされてきました。勝道上人
が登ったころの山は補陀洛山(ふだらくやま)と呼ばれ、のち二
荒山(ふたらさん・山頂北東側の羅刹崛(らせつくつ)の岩穴か
ら年2回突風が吹き出るのにちなむ山名)と改称したという。

その後、空海が岩穴を結界。二荒を「にこう」と読み、日光の名
が生まれたとされています。ここも山岳修行の山、日光修験は八
十坊からなり、本山派、当山派の支配からはずれ、独自に厳しい
修行をしていたという。

ところで日光連山はファミリー山になっているというのは広く知
られています。お父さんが男体山(なんたいさん)で大己貴神(お
おなむちのかみ・大国主命・大黒さま)をまつります。お母さん
が女峰山(にょほうさん)で妃神をまつっています。

二人の間に愛子(まなこ)の意味の大真名子山(おおまなこさん
・御愛子神をまつる)と、小真名子山(こなまこさん・同じく御
愛子神をまつる)の姉妹、ちょっと離れた北側にはすでに独立し
た長男の太郎山(たろうさん・御子神をまつる)がいて、そのわ
きには小太郎山(弟?)を従えています。

この話の元になっているのは、男体山をまつる二荒山神社の二荒山
の縁起のひとつ「二荒山神伝」(林羅山)なのだそうです。それに
よると昔、有宇中将(ありうちゅうじょう・在宇中将とするもの
もある、のち大将)は、あまりにも好きな猟に明け暮れすぎたた
めに、奥州を流浪するという身におちいりました。

そして、流浪していたその地方の長者・朝日長者に取り入れられ
たそうです。そこで長者の朝日姫をめとり、一子「馬王」を儲け
るまでになったという。その後さまざまな功徳があり、中将一家
は二荒山神になったとというのです。その息子「馬王」(馬頭とす
るものある)の子は、猿に似ていたため猿麻呂と呼ばれ、また陸
奥国小野に住んだため小野猿麻呂とも称されました。

さて、二荒山中には湖(中禅寺湖)があります。その領有権を争
って、二荒神(下野の神)と群馬県の赤城山の神(上野の神)が
戦うことになりました。二荒神は大蛇になり、赤城山の神は百足
(ムカデ)に返信しての戦い、世にいう神戦です。

しかし、なかなか勝敗がつかず、二荒神は、孫に当たる「猿麻呂」
に加勢を頼みました。弓の名人である猿麻呂の活躍でついに、赤
城神を打ち払うことができたといいます。その功により猿麻呂は
二荒山を賜ることができ、山麓で二荒山神の申口(もうしぐち・
神主)になったというのです。

その後、猿麻呂は小野神となり、登具示良(とくじら・宇都宮市
徳次良)から更に宇都宮に移りました。その結果、男体本宮(現
在の二荒山神社・男体山)は有宇中将、滝尾女体中宮は朝日姫、
新宮太郎明神は馬王、宇都宮は猿麻呂になったのだそうです。

またこのほかに「日光山縁起」というものがあります。これも先
の「二荒山神伝」とよく似たあらすじで、これも二荒山の縁起の
ひとつになっています。

しかし、この「日光山縁起」については、その成立年代について
柳田國男は「(「日光山縁起」の)巻末に至徳元年(1384)金剛仏
子貞禅とあるも、それほど古きものにあらず」(ちくま文庫「柳田
國男全集・7」神を助けた話)とし、「日光山縁起」の記述は信用
できないとしています。

ところが、「日光山の信仰伝承」(「山岳宗教史研究叢書16」所収)
の筆者である飯田真氏は「貞禅は至徳〜応永年代に実在したと思
えるものを筆者が見とどけているのでそれを疑う余地がない」と
いって反論しています。

それはさておき、この一連の話に本地垂迹(ほんぢすいじゃく)
説(神仏同体説)がからんできますから面倒になります。すなわち、
父・男体山の神(大己貴命(おおなむちのみこと)・本地仏千手観
音菩薩・二荒山神社)、母・女峰山の神(田心姫命(たごりひめの
みこと)・本地仏阿弥陀如来・滝尾神社)、子・太郎山(味耜高彦
根命(あじすきたかひこねのみこと)・本地仏馬頭観音・本宮神
社)。

こんなことからちまたでの家族論が次第に発展し、いまのような
一大家族連峰ができあがったのかも知れないというのが大方の説
です。

さらに日光の山々を細かく観察します。光徳温泉北の山王帽子山
(さんのうぼうしやま・名前に子がつく女山)は庶子だとも太郎
山の女房だともいわれています。?ン、男体山には愛人までいた
んだァ。

また奥日光志津の宿には、御婆様(オンバ様)とか「姥神様」と
呼ばれる、異様な姿の石像があります。そのオンバ様は長男の太
郎山に乳を授けた乳母だったといいます。この乳母は非常に子育
てが上手で、以前は付近の住民から子育ての神として厚く信仰さ
れていたそうです。

さらに女峰山の東方にある赤薙山(あかなぎさん)は女峰山の妹
山。その東にある丸山(まるやま)は赤薙山の年下の夫山。女峰
山のすぐ西にある帝釈山(たいしゃくさん)は女峰山の双子の弟
だという。また山王帽子山の西南に三岳(みつだけ)があります。
これは太郎山と山王帽子山の間にできた子どもという。

奥日光にも山があります。白根山(しらねさん)は、男体山と兄
弟だとか女峰山の兄妹ともいわれ、太郎山の叔父さんだという。
前白根山(まえしらねさん)は白根山の子どもらしいのですが、
白根山は妻(どの山か不明)を北方にある金精さまをまつる金精
山に奪われたというのですから大変です。それ以来、白根山は暴
れ山になり、何回も爆発を繰り返しています。

▼【参考文献】
・「角川日本地名大辞典9・栃木県」大野雅美ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・「古代山岳信仰遺跡の研究」大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・「山岳宗教史研究叢書1・山岳宗教の成立と展開」和歌森太郎編
(名著出版)1975年(昭和50)
・「山岳宗教史研究叢書8・日光山と関東の修験道」宮田登・宮本
袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・「山岳宗教史研究叢書16・修験道の伝承文化」五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・「山岳宗教史研究叢書・17」(修験道史料集1・東日本編)五来
重編(名著出版)1983年(昭和58)
・「新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・「日本神話伝説総覧」(新人物往来社)1992年(平成4)
・「日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・「日本山岳ルーツ大辞典」村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・「日本神社総覧」別冊歴史読本(新人物往来社)1991年(平成3)
・「日本伝奇伝説大事典」編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・「日本伝説大系4・北関東」(茨城・栃木・群馬)渡邊昭五ほか
(みずうみ書房)1986年(昭和61)
・「日本の民話5・栃木篇」日向野徳久編(未来社)1974年(昭和
49)
・「日本歴史地名大系9・栃木県の地名」寶月圭吾(平凡社)1988
年(昭和63)
・「柳田國男全集・7」ちくま文庫(筑摩書房)1990年(平成2)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

 

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