山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼832号 「近畿大峰山・行者還岳」

【概略】
大峰山には行者たちが祈る75ヶ所の霊場「七十五靡(なびき)」が
ある。行者還岳はそのうちの第58番目の靡き。南面は直立した大
岩峰で、東西から望んだ姿は鋭い三角形の絶壁になっている。大峰
山の中でも屈指の行場で、役ノ行者でも引き返したために山名もそ
れに由来しているという。
・奈良県天川村と北山村の境

▼832号 「近畿大峰山・行者還岳」

【本文】
大峰山の所々には行者たちが祈る75ヶ所の霊場があり、「七十五靡
(なびき)」と呼ばれています。行者還岳はそのうちの第58番目の
靡き。南面は直立した大岩峰で、東西から望んだ姿は鋭い三角形の
崖になっています。

山頂には修験道の八大金剛童子がまつられていて、山頂東側には行
者の雫水という水場もあります。

ここは大峰山の中でも屈指の行場とされ、その昔、役ノ行者でもこ
の南面の絶壁で引き返し、東の方を回って南へ下ったといわれ(役
ノ行者が引き返したのは、熊野から金峰山へ向かう順峰のときで、
逆峰は断崖を下るので楽だとする説もある)山名もそれに由来して
いるといいます。

西行法師の歌を集めた「山家集(さんかしゅう・下雑)」に、行者
がへり、稚兒(ちご)のとまり、續(つゞ)きたる宿(すく)なり。
春の山伏(ぶし)は、屏風立(びやうぶだてと申(まうす)所を平
(たひら)かに過(す)ぎんことをかたく思(おもひ)て、行者、
稚兒(ちご)のとまりにて、思(おもひ)わ(は)づらふなるべし、
と前置きして「屏風(びやうぶ)にや心を立(た)てておもひけん
行者は還(かへ)り稚兒(ちご)は泊(とま)りぬ」と出てきます。

これは屏風立てという難所を前にして、とても無事に越えることは
難しいと思ったのか「行者は還り稚児は泊まりぬ」と地名に寄せて
戯れたものだという。(「山家集・金槐和歌集」(風巻景次郎ほか・
校注)岩波書店)より抜粋。

ここに出てくる「稚兒(ちご)のとまり」というのは行者還岳の北
方七曜岳と弥勒岳の間に稚児泊(第六十番靡)のことだそうです。

また江戸時代の天保3(1832年)、行智が著した「木葉衣・このは
ごろも」にも「石壁千丈。峨々たる所なり。桟道あり」と書いてい
ます。

いまは山頂の北側から東側を通り行者還小屋(無人)に下る道が奥
駆け道になっています。これは1877年(明治10)ごろにつけられ
た道だとか。

また行者還岳南直下にあたる行者還小屋は、1932年(昭和7)に
建てられたものだそうです。

さらに行者小屋の南にある天川辻(北山越)は吉野郡天川村と同郡
上北山村を結ぶ古い峠で、女人禁制の時代にも「幅3尺」は女性が
越えてもよいということになっていたといいます。

女人禁制のきびしいこの大峰山中でもこのくらいの「配慮」はあっ
たんですね。

▼行者還岳【データ】
山名:ぎょうじゃがえりだけ

・【異名・由来】
大岩峰の急峻さのゆえに役ノ行者すら登はんを断念、引き返したと
いう故事から山名がつけられた。

・【所在地】
奈良県吉野郡天川村と上北山村の境。近鉄吉野線下市口からバス1
時間15分天川川合下車歩いて4時間半で行者還岳電線地蔵。三等
三角点(1546.2m)がある。地形図に山名と三角点の標高のみ記載。
三角点より南方向直線約190mに行者還ノ宿(行者還小屋)がある。

・【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
【行者還岳三等三角点】緯度経度:北緯34度12分16.87秒、東経135
度56分41.35秒

・【地図】
2万5千分の1地形図「弥山(和歌山)」。5万分の1地形図「(和歌
山−山上ヶ岳)」

・【参考文献】
「角川日本地名大辞典29・奈良県」永島福太郎ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
「山家集(さんかしゅう)」西行:日本古典文学大系29「山家集・
金槐和歌集」風巻景次郎ほか・校注(岩波書店)1961年(昭和36)
「新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
「日本山岳ルーツ大辞典」村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
「日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
「日本歴史地名大系30・奈良県の地名」池田末則ほか(平凡社)1981
年(昭和56)
「木葉衣・このはごろも」行智(天保3・1832年)名著出版(昭
和60年)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

 

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