とよだ 時・山旅漫歩゚民俗画
山の伝承【ひとり画通信】

▼816号 「南ア・赤石岳と椹島」

【前文】
「赤石のやまのうてなに万歳を唱ふる老も有難の世や」(大正一五
年八月七日、赤石岳絶頂を極む、九十翁大倉鶴彦)。「鶴彦」とは東
海パルプの創業者で、一代で大倉財閥を築いた大倉喜八郎の狂歌の
号。赤石岳登山口椹島ロッジにある喜八郎の記念碑から。
・静岡県静岡市葵区。

▼816号 「南ア・赤石岳と椹島」

【本文】
赤石岳(3120m)は、南アルプス(赤石山脈)のほぼ中央にあり、
山脈名にもなっている山。日本で第7位、南アルプスのなかでは
第4位の高さを誇ります。

赤石の名は南面の静岡県側を遡る赤石沢に由来しているとされて
います。赤石沢は谷底に赤紅色のラジオラリアチャートがあり、
その赤い石からきているという。

そういえば赤石岳付近では赤い色の石をよく目にします。赤石岳
とは静岡県の呼び名で、長野県では、静岡県境にあるため駿河岳
と呼び、また釜沢岳や、大河原ノ岳の名もあったという。

大河原ノ岳は、西麓信州側の大河原集落からの名前だそうです。
南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王が、
南朝勢力挽回のため、北条時行、諏訪頼継、高坂高宗などを従え、
遠江国伊谷城を棄てて信濃の国に入り、大河原に根拠地をおき、
東奔西走するかたわら、しばしば赤石岳山頂に登って、足利市調
伏を祈願したという。

同親王の「家集」(個人の和歌を集めた書)「李花集・りかしゅう」
の詞書(ことばがき)には、「興国5年、信濃国大川原と申す山の
おくに籠もり居侍りしに」とあり(「信史5」)、宗良親王が当地に
入ったのは、この南朝の興国5(1344)年・北朝では康永3年か、
その前年とされているそうです。

また同書には「大河原と申し侍りし山の奧をも又立ちいで侍りし
に」とあり、正平2年前後、親王は吉野に上ろうとして当地を出
発しましたが、翌年、美濃から駿府を経て当地に戻ったという。

同親王は文中3(1374)年12月、いったん吉野に帰りますが、約30
年間にわたって当地や周辺の大草地区を根拠に駿河、武蔵、上野、
越後、美濃、尾張などを転戦し、南朝挽回を画策しました。

宗良親王の没した年代は不明ながら戦国時代の天文19年宗詢が文
永寺で、宗良親王の和歌を書き写したものの詞書に「大草と申(も
うす)山の奥のさとの奥に、大河原と申所にて、むなしくならせ
給とそ、あハれなる事共なり」と記され、ここが親王の終焉の地
とされています。

「続史愚抄(ぞくしぐしょう)」(江戸中期の公卿柳原紀光が父光
綱の志を継ぎ編修した歴史書)では1385(元中2)年8月だとし
ています。

釜沢から小河内川を上った御所平は親王隠棲の御所と伝え、現在
その供養塔である宝篋印塔が残り、「李花集」の詞書に「信濃国大
川原と申し侍りける深山の中に、心うつくしう庵一二ばかりして
すみ侍りける…うんぬん」とあるのは御所近くのことと推定され
ています。

この近くに的場という地名があり、鉄鏃(やじり)が出土してい
ます。親王を擁護したのは、大河原城主香坂高宗であり、「李花集」
の詞書(ことばがき)に高宗の忠節にふれたものがあるというこ
とです。

また赤石岳北側・西麓の大河原方面から稜線に登ったところに「大
聖寺平」という平坦地があります。大河原方面へ下る分岐があり、
指導標とケルンが建っています。

ここは大河原に籠居していた宗良親王の故事による「大小寺平」
が古名だといわれ、いまでもこの一帯には宗良(むねなが)親王
伝説が残っています。

赤石岳は、江戸時代から山岳宗教登山が行われていたとみられて
おり、明治12(1879)年はじめて測量斑が赤石岳に登頂し、測量
標を建てました。

10年後の1889年(明治22)にも、前年新設された陸軍参謀本部陸
地測量部が、内務省から測量の仕事を引きつぎ、一等三角点設置の
ため登っています。

明治12年の測量斑の登頂以後、ドイツ人の地質学者エドモンド・
ナウマン、地質調査の中島謙造、有名なイギリスの宣教師ウェスト
ン、植物研究の河野齢蔵、それに小島烏井らが続きます。明治19
年信州河野村堀越(いまの豊岡村)の敬神講の堀本丈吉や、また
同年甲州の名取直衛(江)が登頂して祈祷しているという。

加藤文太郎の「南アルプスをゆく」のなかで、小赤石岳の南、剣
ヶ峰に「蚕玉大神(こだまたいじん)」を祀ってあると書いてあり
ます。赤石岳について話のタネになるのが大倉喜八郎の大名登山
です。

1926年(大正15)夏、88歳の高齢をおして、特別注文の山カゴに
乗り、人夫200人を従えて椹島から赤石山頂に登ったというから、
ケタがはずれています。

大倉喜八郎といえば、大倉財閥を一代で築いた政商。当時、このあ
たりの山林はすべて大蔵喜八郎のもの。荒川小屋はこの時初めて建
てられたのだそうです。

1837年(天保8年)、新潟県新発田で産声をあげた喜八郎は、18歳
の時江戸に出て鰹節店に丁稚奉公3年後、上野に乾物屋を開き独立、
その後鉄砲店を開業します。

おりしも日本は幕末、維新の大動乱。官軍から幕軍からも注文殺到
です。商売とあらばあっちもこっちもありません。喜八郎は両軍に
鉄砲を売りまくり大儲け。その後、大蔵組商会を設立、貿易商と用
達事業に乗り出し財閥の基礎を築きます。

大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の三社を中核とする組織機構をつく
りあげました。一時は奴豆腐が食べたいとパーティー会場に豆腐
屋を呼んでつくらせたり、びんビールを持参させたり当時で4億
円の経費を使うという豪傑ぶりだったという。

しかし、中国大陸への進出に比重をかけ過ぎ、第二次大戦の敗戦で
そのすべてを失い衰退したという。いまの東京経済大学(大倉高等
商業学校)や、東京・虎ノ門の大倉集古館、東海パルプ、大成建設、
サッポロビールなどは大倉喜八郎が興したという。

いま南アルプスのほとんどの山小屋は東海パルプ子会社関連の施設
です。

ある年の8月、千枚岳から二軒小屋間で足を痛めてやっとたどり着
いた登山口椹島ロッジ。畑薙第一ダムまでバスに乗るには明日の午
後まで待たねばなりません。

構内をブラブラしていると隅の方にここの創業者大倉喜八郎の記念
碑があるのを見つけました。喜八郎は狂歌をよくし「鶴彦」の号ま
であったという。

記念碑には「赤石のやまのうてなに万歳を唱ふる老も有難の世や」
(大正一五年八月七日 赤石岳絶頂を極む 九十翁大倉鶴彦)と刻
まれています。そのわきをこれから登る者や下りてきた登山者たち
が次々に通り過ぎていきました。

▼【データ】
【所在地】
・静岡県静岡市。JR東海道線静岡駅からバス、畑薙第一ダムか
ら東海パルプリムジンバスに乗り換え、椹島ロッジ下車。写真測
量による標高点(1123m・標石はない)がある。

【位置】
・【椹島】:緯度経度:北緯35度25分53.64秒、東経138度12分
25.8秒(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)

【地図】
・2万5千分の1地形図「赤石岳(甲府)」(電子国土ポータルWeb
システムから検索)

【山行】南アルプス縦走
・(第5日):09年(平成20)8月17日(月・晴れ)椹島ロッジ探
訪:2009年(平成21)8月13日(木)〜20日(木)「伊那大島駅
−鳥倉登山口−豊口山間のコル−豊口山分岐−三伏峠小屋テント場
(泊)−烏帽子岳−前小河内岳−小河内岳−森林限界−瀬戸沢の頭
−板屋岳−高山裏避難小屋テント場(泊)−小広場−森林限界−前
岳−中岳避難小屋−コル−荒川岳東岳−丸山−千枚岳−千枚小屋テ
ント場(泊)−草つき−マンノー沢の頭−ロボット雨量計跡−ピー
ク1871−二軒小屋ロッジ(泊)−椹島(泊)−静岡駅(泊)−夜
行ムーンライトながら号−東京駅−下総中山駅」単独行

【参考文献】
・「アルプスの伝説」山田野利天著(株)ナガザワ
・「角川日本地名大辞典20・長野県」市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・「角川日本地名大辞典22・静岡県」小和田哲男ほか編(角川書店)
1982年(昭和57)
・「信州山岳百科・2」(信濃毎日新聞社)1983年(昭和58)
・「新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「日本山岳ルーツ大辞典」村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・「日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・「日本歴史地名大系20・長野県の地名」(平凡社)1979年(昭和5
4)
・「日本山岳風土記2・中央・南アルプス」(宝文館)1960年(昭
和35)
・「山の伝説」青木純二著(丁未(ていび)出版社)1930年(昭和
5)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

 

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