山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼813号 「北アルプス・剱岳点の記」

【前文】
昔から「人登る能はず、人登るべからず」といわれた剱岳。明治40
年、三角測量選点のため柴崎芳太郎一行が苦労の末やっと登った山
頂。しかしそこには平安初期の行者のものと思われる錫杖の頭と鉄
刀があった。実際に三角点を設置したのは平成16年だった。
・富山県上市町と同県立山町との境。

▼813号 「北アルプス・剱岳点の記」

【本文】
映画「劔岳 点の記」(原作・新田次郎)で話題なった剱岳。映画
では「劔岳」となっていますが、いまは「剱岳」に統一されている
ようです。剱岳は「万葉集」巻十七などに多知夜麻(たちやま・立
山連峰の総称)として、また大伴池主(生没年未詳。没年はおそら
く757(天平宝字1)年)の「こごしかも 巌の神さび」などと歌われ
てはきました。

しかしツルギの名があらわれるのは安土桃山時代になってからとい
う。天正13年(1585)、羽柴秀吉が佐々成政を討つため越中にきた
とき、京都に宛てた書状「東は立山うは堂・つるぎの山麓迄(焼い
て打ち従えたとする)」とあるのが最古の文献だろうといわれてい
ます。

剱岳の字は江戸時代の文献では「劔ヶ岳」が一番多いそうです。し
かし劔山、劔峰、劔ノ御嶽、劔御前といろいろです。文字も「劔」
やその異体字(劔の偏に刃)が多いが、「剣」や「劒」も使われて
いるらしい。なかには山廻役がつくった古地図のように金偏の「釼」
を使う例まであります。

剱岳(2999m)は北アルプス黒部渓谷西側富山県立山連峰の中心を
なす岩山。山頂から南へ派生させる別山尾根は、前剱、一服剱、剱
御前をへて別山乗越に至ります。

これに対して北へ延びる北陵は、小窓ノ王、池の平山、大窓ノ頭か
ら白兀(しらはげ)、赤兀(あかはげ)方面へ。東側には八ツ峰、
源治郎尾根を突き出しています。西側にはあの長大な早月尾根が馬
場島まで派生しています。

剱岳は立山連峰中最も険しく、山名は「針の山」ともたとえられる
ように、岩峰が剣のように突き立っていることに由来するといいま
す。かつて弘法大師がワラジ6千足を使っても登れなかったといわ
れています。

「立山曼陀羅」では奥の方に白い針の山の形でその急峻さが描かれ
ています。立山の信仰ではここは登る山ではなく、遠くからあがめ
る礼拝の山。長い間、不入の山としてタブー視され、その周囲にも
立ち入ってもならぬとされていました。

「山の姿峨々(がが)として険阻(けんそ)画(え)のごとくなる
は越中立山の剱峯(けんぽう)に勝れるものなし…最も高く聳え、
たがひに相争ふ程なる峯五ツあり、剱峯も其一也」。江戸後記の医
者で文人の橘南谿の「名山論」(「東遊記」巻末)の剱岳に関する一
節にあるほどです。

ここも伝説の山で、江戸時代の中期初頭の1712(正徳2)年に大阪
の医師・寺島良安が著わした「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」
には、剱岳の地主神は刀尾天神(たちおてんじん)とし、また信州
側には長野県戸隠村の戸隠明神の本体は九頭竜でその尾は、ここ剱
岳を七巻き半しているとの言い伝えもあります。

江戸時代、このあたりは加賀前田藩の所領でした。1838(天保9)
年、江戸城西の丸が消失。その再建にあたり、幕府は前田藩に課役
の命を下します。それを受けて加賀藩は黒部奥山の木の伐採を試み
ます。その時、伐木担当の役人・増(松)崎藤左衛門が調査のつい
でに?単身で入ってはならぬ剱岳に登ったという。

しかし帰途急死しています。これは彼の行為が藩命違反と判定され、
秘密裡に処分されたのだろうとうわさされたそうです。

これに前後して快天という行者も剱岳登頂に成功したという。とこ
ろがこの行者、それを自慢して歩いたため村人の反感を買い、反逆
者として縛られ山中の岩場に放置されたため餓死してしまったとい
う伝説も残っています。

その後、明治40(1907)年7月、三角測量点設置のため、参謀本部
陸地測量官柴崎芳太郎一行が苦労の末、やっと山頂に立ちました。
ところが、山頂で修験者が持っている錫杖(しゃくじょう)の頭と
鉄刀を見つけたのです。さらに山頂わきの石窟でたき火の跡の木炭
も発見しました。

錫杖を鑑定した結果、平安時代初期のものと判明して大騒ぎ。いま
は国の重要文化財に指定されています。自分たちが初登頂だと思っ
ていたにもかかわらず、すでに平安初期に山伏が登頂していたのを
知ってガクゼンとした話はあまりにも有名。

また南北朝時代に裏剱の仙人谷洞窟に籠もって修行した修験者の遺
跡も見つかっています。木炭のあった石窟は、山頂の斜め下のとこ
ろにあります。そこは山頂の祠を見上げる位置で、高さ約2m、底
幅2mくらい。奥行き3mくらい。奥壁の上部がせり出しています。

かなり以前の夏に登ったとき、山頂の祠の下方、木炭のあったとさ
れる石窟の底をのぞいてみました。中は空き缶やゴミで埋まってい
ます。ここで一夜を過ごしてみたいと興味をもっていましたが、さ
すがに泊まる気にはなりませんでした。

柴崎測量官たちが見つけた錫杖の頭の模造品が早月尾根登山口・馬
場島の馬場島荘で売っているらしいのです。かつて馬場島から登っ
たとき、早朝のため手に入らなかったことをいまでも悔やんでいま
す。

民間登山者としてはじめて剱岳に登ったのは1909年(明治42)、富
山県高岡市の吉田孫四郎と同県西礪波郡福光町の石崎光瑶ら。これ
らの登頂には宮本金作、宇治長次郎らの名ガイドが案内。このとき
ガイドの名をとり登路の雪渓を長次郎谷と命名したという。

1913年(大正2)には小暮理太郎、田部重治が別山尾根からガイド
なしで発登頂。さらに2人は2年後、北陵から登頂、西側早月尾根
からは、1917年(大正6)冠松次郎がはじめて登頂したという。

このような「人間登る能わず、人間登るべからず」という神聖不可
踏の山でも時代にはかなわず、大正9(1920)年、竹内イサが夫と
ともに長治郎谷・剱岳・小窓、馬場島(ばんばじま・いまの富山県
中新川郡上市町)のコースを踏破。

また翌年、大正10年(1921)には小倉貞という女性が塚本繁松とと
もに小黒部谷(こくろべだに)を遡行して剱岳に登頂しているそう
です。ちなみに剱岳の山頂には、三等三角点(2997.1m)と標高点
(2999m)、須佐之男神(すさのおのかみ)をまつった剱岳神社の
木の祠があります。

▼【データ】
山名:剱岳(つるぎだけ)

・【所在地】
富山県中新川郡上市町と富山県中新川郡立山町との境。富山地方鉄
道立山線立山駅の北東19キロ。富山地方鉄道立山駅からケーブル美
女平からバス・室堂から歩いて6時間30分で剱岳。三等三角点(29
97.07m)と写真測量による標高点(2999m)と、須佐之男神をま
つった剱岳神社の小祠がある。地形図に山名と三角点の標高と標高
点の標高のみ記載。付近に何も記載なし。

・【名山】
「日本百名山」(深田久弥選定):第48番選定(日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる)
「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第42番選定

・【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
【標高点】緯度経度:北緯36度37分23.76秒、東経137度37分00.7秒
【三等三角点】緯度経度:北緯36度37分24.09秒、東経137度37分1.
7秒

・【地図】
2万5千分の1地形図「剱岳(高山)」or「十字峡(高山)」。5万分
の1地形図「高山−立山」

・【参考文献】
「古代山岳信仰遺跡の研究」大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
「黒部奥山と剱岳」広瀬誠:「山岳宗教史研究叢書・10」(名著出版)
所収
「山岳宗教史研究叢書10・白山・立山と北陸修験道」高瀬重雄編(名
著出版)1977年(昭和52)
「山岳宗教史研究叢書16・修験道の伝承文化」五記重編 (名著出
版)1981年(昭和56)
「東遊記」橘南谿(「東西遊記・1」所収)(東洋文庫・宗政五十緒校
注)(平凡社)1986年(昭和61)
「日本歴史地名大系16・富山県の地名」(平凡社)1994年(平成6)
「名山論」橘南谿:東洋文庫248「東西遊記1」宗政五十緒校注(平
凡社)1986年(昭和61)
「和漢三才図会」(巻第68)寺島良安:東洋文庫「和漢三才図会・1
0巻」島田勇雄ほか訳注(平凡社)1988年(昭和63)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

 

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