とよた 時・山のゆ-もぁ-と(イラスト)
山旅漫歩゚
【ひとり画通信】

▼744号 「木曽御嶽七合目・女人禁制のわけ」

【概略】
御嶽山の女人禁制理由の伝説。弟の遺跡をとむらおうと御嶽に登っ
てきた姉の利生御前が七合目で腹痛で病死。そのためここから上は
女人禁制だという。しかし困ったことに八合目には女人堂がある。
ひょんなことからあるホームページに女人堂は遊郭だったとあるの
を見つけた。ホントカイナ。
・長野県木曽町

▼744号 「木曽御嶽七合目・女人禁制のわけ」

【本文】
木曽御嶽山(3067m)開山にからむものに阿古多丸(あこたまる)
の伝説があります。延長年間(923〜931)というから平安時代前期、
京都の北白川の宿衛(しゅうくえい・宿直して護衛する)少将重頼
(しょうじょうしげより)は40歳を過ぎても子どもいませんでした。

そこで御嶽神社に祈願したところ、その甲斐があったのか玉のよう
な男女の子が生まれました。男の子を阿古多丸、女の子を利生御前
(りしょうごぜん)と名づけ、大事に育てていましたが姫が6歳の
時、夫人が死んでしまったという。

乳飲み子を残された重頼は徳大寺大将の姫・北の方を後妻にめとり
ました。継母は阿古多丸を憎み、家庭内に不和が続きます。

利口な阿古多丸は10歳の時母とのいさかいを避けて家出。御嶽山に
登り父母が祈願を込めた御嶽神社に参詣しました。帰路、木曽の板
敷野(いたじきの)まで行った時、長旅の疲れで死亡したという。
延長6年(928)6月13日だったといいます(このことから御嶽神
社の里宮創祀はこの日とされている)。

それを知った少将重頼は阿古多丸の遺跡をとむらおうと、姉の利生
御前とともに旅立ちました。黒沢口御嶽山七合目まで来た時、利生
御前が腹痛を起こし病死。重頼は悲嘆にくれますが、ライチョウの
案内でやっと頂上奥社に参拝できました。

最近まで女人が七合目までしか登れなかったのはそのためだとい
う。しかし黒沢口八合目に金剛堂(女人堂)があります。これでは
八合目まで女性が登っていたことになります。

困っていたところあるホームページに女人堂は遊郭だったとの話を
聞いたとあるのを見つけました。ホントカイナ。納得できるような、
できないような…。

また御嶽の中腹にある名勝「扇ヶ森」は重頼が登った時扇を落とし
たところであり、ふもとの白河(川)権現は重頼と利生御前をまつ
ったものという。

また木曽福島町(いまは木曽町)と上松町との境の板敷野には阿古
多丸の塚(JR中央本線わき)もあります。

・木曾御嶽黒沢口七合目【データ】
山名:おんたけ

・【所在地】
長野県木曽郡木曽町(旧木曽郡三岳村)。JR中央本線木曽福島駅
からバス、中ノ湯から歩いて1時間で七合目神社。地形図上には鳥
居記号と一ノ股小屋名のみ記載。

・【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
【御嶽黒沢口七合目】緯度経度:北緯35度53分50.91秒、東経137度
30分31.45秒

・【地図】
2万5千分の1地形図「御岳高原(飯田)」

・【参考】
「御岳蔵王権現縁起」御嶽神社里宮創祀説):「山岳宗教史研究叢書
17・修験道史料集(T)」所収
「木曽総社御嶽権現縁起」尾張藩の儒者松平君山が1772年(明和
9・安永1):「新稿日本登山史」所収
「新稿日本登山史」山崎安治著(白水社)1986年(昭和61)
「山の伝説・日本アルプス編」青木純二(丁未出版)1930年(昭
和5)
「山岳宗教史研究叢書17・修験道史料集(T)」五木重編(名著出
版)1983年(昭和58)

山と田園の画文ライター
ゆ-もぁイラストレーター
【とよた 時】

 

 

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