山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

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▼731号 「木曽御嶽・普寛行者とライチョウ」

【概略】
普寛行者といえば御嶽山の王滝口を開いた人としても知られてい
る江戸中期の修験者。その行者が、御嶽山の王滝口を開くため5
人の行者を従えて頂上へ登る途中、道に迷って立ち往生してしま
いました。そこへひとつがいの鳥があらわれ、一行を山頂へ案内
しました。これこそ山の人気者ライチョウだったということです。
・長野県王滝村と木曽町との境

▼731号 「木曽御嶽・普寛行者とライチョウ」

【本文】
普寛行者といえば江戸中期の修験者。木曽御嶽山を霊山とあがめる
御嶽教の教祖でもあり、コマクサからつくる腹痛の霊薬「木曽百草」
の創始者。また御嶽山の王滝口を開いた人としても知られています。
埼玉県秩父市大滝村の生まれで幼名は木村好八丸。

「日本六十余州」の遍歴で、三峯山の奥ノ院から武甲山、上州武尊
山、越後八海山、木曽御嶽山王滝口などを開山、三笠山、筑波山、
羽黒山、戸隠山、立山、白山、阿蘇山、国見岳、桜島などなどにま
で足をのばしました。こうしてついに52歳の時、伝燈大阿闍梨にま
で登りつめました。

その行者が寛政4年(1792)の夏、5人の行者を従え登った時のこ
と。未開の山は厳しく山中で行くも帰るもできなくなってしまいま
した。

そこへひとつがいの瑞鳥があらわれ、一行を案内するかのように歩
き出したという。「あの鳥こそ文殊菩薩の化身の違いない」行者た
ちは2羽の鳥のあとを追い、ついに頂上を極めたといいます。

普寛行者はその鳥を捕らえて下山。大切に飼ってみると、鳥は冬に
なると白くなり、春になると羽の色が変わります。

人々は珍しがっていましたが、ある日ついに死んでしまったという。
行者は哀れんで鳥の羽を身から離さなかったという。これこそ山の
人気者ライチョウだったということです。

・木曽御嶽剣ヶ峰【データ】
山名:けんがみね

・【所在地】
長野県木曽郡王滝村と長野県木曽郡木曽町(旧木曽郡三岳村)との
境。中央本線木曽福島駅の北西20キロ。JR中央本線木曽福島駅か
らバス、田の原から歩いて4時間20分で木曽御嶽剣ヶ峰。一等三角
点(3063.4m)とすぐ西隣に写真測量による標高点(3067m・標石
はない)がある。御嶽神社の奥社がある。山頂北直下に一の池があ
る。地形図に山名と三角点の標高、標高点の標高と神社(鳥居)記
号の記載あり。付近に何も記載なし

・【名山】
「日本百名山」(深田久弥選定)第60番選定:日本二百名山、日本
三百名山にも含まれる。
「花の百名山」(田中澄江選定)第71番選定
「新日本百名山」(岩崎元郎選定)第63番選定・長野県

・【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
【標高点】緯度経度:北緯35度53分34.74秒、東経137度28分49.55

【三角点】緯度経度:北緯35度53分35.06秒、東経137度28分50.3


・【地図】
2万5千分の1地形図「御嶽山(飯田)」。5万分の1地形図「飯田
−御嶽山」

・【参考】
『山の傳説・日本アルプス編』青木純二(丁未出版)1930年(昭和
5)

 

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山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

 

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