山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

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▼726号 「東北・飯豊山の地獄への穴」

【概略】
飯豊山の御秘所(オヒソ)には無限地獄に通じる「口無し穴」があ
るという。これは見ても見えない、聞かれても語りようのない神隠
しの穴。落ちれば二度とこの世には帰れないという。そのため、見
るな語るな、語らば聞くなの「御秘所」だったという。
・福島県山都町

▼726号 「東北・飯豊山の地獄への穴」

【本文】
越後山脈の北部の位置する飯豊山も修験道の聖地。ここは山に御を
つけ「お山」と呼ばれるほど民衆からも信仰されていたところ。こ
の山も当然ながら女人禁制でした。

はじめて飯豊山へ女性登山は1915(大正4)年、福島県会津女子高
校出身の当時の若松門田村の猪股某サン18歳だったといいます。

かつてお山への参詣者は草履塚で草履をはきかえ、身や心を一新し
て登ったという。お山駆けは8月から9月。

その途中で一行からはぐれたり、事故があったりし同行者に迷惑を
かけると、平素の行いがよくないから神罰にあったとされ、下山後
も汚名をきせられたというから厳しいものです。

事実、飯豊山ではよく神隠しにあったといいます。それはほとんど
御秘所(オヒソ)というところで起こるという。

このあたりは草履塚・姥の前などを含め無間ヶ岳と呼ばれ、とくに
御秘所は「お山」最大の危険箇所だったという。

御秘所を越えるにはかつては上段・中段・下段の三つのコースがあ
りました。上段は戴き近くを通り比較的楽なコース。中段は体を絶
壁になっている岩壁をに体を密着させながら通過するもの。ふつう
はへずりながらこのコースを通過したという。

下段のコースは岩裾をたどり最も楽な道ながら、ここには無限地獄
に通じる「口無し穴」があるというのです。この穴は見ても見えな
い、聞かれても語りようのないものだという。

ここに落ちれば二度とこの世には帰れないところ。そのため、見る
な語るな、語らば聞くなの「御秘所」だったということです。

▼【データ】お秘所(おひそ)
★【所在地】
・福島県喜多方市山都町(旧耶麻郡山都町)磐越西線山都駅の北25キ
ロ。JR磐越西線山都駅かタクシー・川入りからのべ7時間30分
でお秘所。写真測量による標高点(1882m)がある。地形図上に
は標高点の標高にみ記載。お秘所より南方向直線約250mに姥の前
がある。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・お秘所:北緯37度50分45秒、東経139度43分03秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「飯豊山(新潟)」

▼【参考文献】
・「奥州会津耶麻郡百木郷一戸邑飯豊山開基縁起」:『会津正統記』
収納(会津市立図書館)
・『会津旧事雑考』:『会津資料叢書』下巻(歴史春秋社)昭和48年
(1973)所収
・『山岳宗教史研究叢書7』(東北霊山と修験道)月光善弘(がっこ
うよしひろ)編(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・「山岳信仰の構造(飯豊山登拝をめぐって)」鈴木岩弓。雑誌「論
集」巻6(21〜p38)1979年(昭和54)
・『修験の山々』柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編会津風土記』(2):大日本地誌大系31『新編会津風土記・
弐』花見朔巳校訂(雄山閣)1932年(昭和7)
・『新編会津風土記』(3):大日本地誌大系32『新編会津風土記・
参』花見朔巳校訂(雄山閣)1932年(昭和7)
・『新編会津風土記』(5):大日本地誌大系第34『新会津風土記・
五』花見朔巳校訂(雄山閣)1970年(昭和45)
・『東北の山岳信仰」岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本歴史地名大系6・山形の地名』(平凡社)1990年(平成2)
・『日本歴史地名大系7・福島の地名」(平凡社)1993年(平成5)
・『陸奥国風土記・逸文』:『風土記』秋本吉郎(岩波書店)1993年
(平成5)所収

山と田園の画文ライター
イラストレーター・ゆ-もぁ漫画家
【とよだ 時】

 

 

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