山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼647号 「北ア常念岳と破壊を免れた満願寺」

【概略】
常念岳は東麓にある満願寺とも関係が深い。この寺は、江戸時代は
松本藩主の祈願所。明治になり、神仏分離令を制定、廃仏棄釈の嵐
が吹き荒れます。満願寺も当然やり玉にあげられたが、山奥で見ま
わりに来るものもなく、なんとか破壊から免れたという。
・長野県安曇野市

▼647号 「北ア常念岳と破壊を免れた満願寺」

【本文】
北アルプス槍・穂高連峰の展望台・常念岳(標高点2857m)は春先、
怪僧常念坊の雪形が出ることで名高く、東麓にある栗尾山満願寺と
も関係が深いという。

満願寺は真言宗豊山派。江戸時代は松本藩主の祈願所だったところ
だという。明治時代になり、政府は天皇中心の親政政治を目指して、
いままで神仏習合の制度から、神は神、仏は仏と切り離し制度にす
る法令「神仏分離令」を制定を発布しました。

これにより、政府が仏教より神道を重んじたのだから、仏教はつぶ
してもよいと勘違いされ、お寺を公然と焼き払い、仏像をぶちこわ
す「廃仏棄釈」の嵐が吹き荒れます。

ここ松本藩も廃仏棄釈を積極的にすすめました。これには松本藩の
事情がありました。かつて松本藩は明治維新の時、勤王派・佐幕側
どちらにつくか迷い、戊辰戦争への参加が出遅れ、政府に負い目が
あったのだそうです。

そのための名誉挽回するよいチャンスだと、廃仏棄釈に積極的に取
り組んだのでした。満願寺も当然やり玉にあがります。1871年(明
治4)、松本藩戸田光則公の命により廃寺となります。

しかしこの寺はあまりにも山奥にありました。見まわりに入るのも
大変で一筋縄ではいきません。なかなか出かけていく者もなく、建
物はそのまま残され、なんとか破壊から免れたといいます。

その後1909年(明治42)、地元檀家の強い要望により元の満願寺と
して再興された経緯があります。この「神仏分離令」公布時、多く
の人は仏教から神道に切り替えましたが、民衆の満願寺への信仰は
厚く、表面上は神道を装いながらかたくなに仏教儀式を守り通した
という。

その証拠にいまでも葬儀は神道で法要は仏式で行い、お盆に塔婆を
求める人たちがいるそうです。満願寺参道入口・微妙橋下を流れる
川は「三途の河」だとされ、その左右の山を死出山と呼んでいるそ
うです。

この橋は立山の無明橋、高野山の無妙橋とならんで日本三霊橋に数
えられているという。近く立て札には、有明山の妖賊八面大王(魏
石鬼)を坂上田村麻呂が退治した伝説や、お小僧火伝説の寺でもあ
ると簡単にふれてあります。信州三十三番札所・第二十六番、川西
三十三番札所・第一番。

▼満願寺【データ】
信濃三十三観音霊場の第26番札所。

【所在地】
・長野県安曇野市(旧南安曇郡穂高町)穂高町大字牧1812。JR大
糸線穂高駅の西5.5キロ。JR大糸線穂高駅下車タクシー15分で
満願寺。地形図に寺名のみ記載。

【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
・【満願寺】緯度経度:北緯36度19分51.17秒、東経137度49分10.8


【地図】
・2万5千分の1地形図「信濃小倉(高山)」or「有明(高山)」(2
図葉名と重なる)

【参考】
・「角川日本地名大辞典20・長野県の地名」市川健夫ほか編(角川
書店)1990年(平成2)
・「日本歴史地名大系20・長野県の地名」(平凡社)1979年(昭和54)
・「信州山岳百科・1」(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・「秘録・北アルプス物語」朝日新聞松本支局(郷土出版)1982年
(昭和57)
・満願寺パンフレット

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
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