山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼487号 「南ア・赤石岳と宗良親王」

【概略】
赤石岳の北側の「大聖寺平」は南北朝時代、西麓大河原に籠居して
いた宗良親王の故事による「大小寺平」ちなむという。親王は、後
醍醐天皇の皇子。南北朝廷の争いで大河原に幽居。しばしば赤石岳
の山頂に登り、足利氏調伏を祈ったという。
・静岡県静岡市と長野県大鹿村との境

▼487号 「南ア・赤石岳と宗良親王」

【本文】
▼山旅漫歩゚【ひとり画展】487号
「南ア・赤石岳と宗良親王」
【本文】
南アルプスは赤石山脈といわれるほど赤石岳はその代表的存在の山
です。その北側に「大聖寺平」という所があります。この名は南北
朝時代、西ろく長野県側の大鹿村(合併せず)大河原に籠居して(ろ
うきょ・こもって)いた宗良親王(むねながしんのう)の故事によ
る「大小寺平」がもとだといわれています。

宗良親王は、南北朝時代の動乱の時、南朝後醍醐天皇の皇子(第4、
第5、第8皇子など諸説あり)でした。南北朝廷の争いで、皇子宗
良(むねなが)親王が、南朝勢力挽回のため、北条時行、諏訪頼継、
高坂高宗などを従え(「アルプスの伝説」)、遠江国(いまの静岡県
の西部)伊谷城を棄てて信濃の国に入りました。

そして大河原に根拠地をおき、東奔西走するかたわら、しばしば赤
石岳山頂に登り、足利市調伏を祈願したという。同親王の「家集」
(個人の和歌を集めた書)「李花集・りかしゅう」の詞書(ことば
がき)には、「興国五年、信濃国大川原と申す山のおくに籠もり居
侍りしに」とあり(信史5)、宗良親王が当地に入ったのは、この
興国5年(1344)・北朝では康永3年か、その前年だろうとされて
います(下伊那史)。

また同書には「大河原と申し侍りし山の奧をも又立ちいで侍りしに」
とあり、正平2年前後、親王は吉野に上ろうとして当地を出発しま
したが、翌年、美濃から駿府を経て当地に戻ったという(信史6)。

同親王は文中3(1374)年12月、いったん吉野に帰りますが、約30
年間にわたって当地あるいは大草を根拠に駿河国(するが・いまの
静岡県東部、中部)、武蔵国(むさし・東京都、埼玉県および神奈
川県北東部)、上野国(こうずけ・いまの群馬県)、越後国(えちご
・佐渡島を除いた新潟県)、美濃国(みの・岐阜県南部)、尾張国(お
わり・愛知県西半部)などを転戦して、南朝の挽回を謀りました。

そののち、この地で死んだととされ、この一帯にはいまでも宗良親
王伝説残っています。荒川岳から南下、荒川小屋を過ぎると大河原
方面へ下る分岐で、指導標とケルンが建っています。

このあたりの平坦地が大聖寺平。近くに霊神碑などもあり、そんな
歴史を秘めたところとはとても思えません。登山者は黙々と赤石山
頂をめざします。

▼【データ】
【山名・地名】だいしょうじだいら
・【異名、由来】:南北朝時代、西麓長野県側の大鹿村大河原に籠居
していた宗良親王(むねながしんのう)の故事による「大小寺平」
がもとになっている説。

【所在地】
・静岡県静岡市と長野県下伊那郡大鹿村との境。飯田線飯田駅の東
南東31キロ。JR飯田線伊那大島駅からバス・塩川終点から歩いて
三伏峠経由延べ17時間40分で大聖寺平。指導標とケルン、霊神碑が
ある。地形図上には地名と記念碑記号のみ記載。長野県大鹿村への
下山道分岐。

【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
・【大聖寺平】北緯35度28分35.42秒、東経138度09分23.79秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「赤石岳(甲府)」

【参考】
・「アルプスの伝説」山田野利天著(株)ナガザワ
・「角川日本地名大辞典20・長野県」市川健夫ほか編(角川書店)1
990年(平成2)
・「角川日本地名大辞典22・静岡県」小和田哲男ほか編(角川書店)
1982年(昭和57)
・「信州山岳百科・2」(信濃毎日新聞社)1983年(昭和58)
・「日本歴史地名大系20・長野県の地名」(平凡社)1979年(昭和54)
・「山の伝説」青木純二著(丁未(ていび)出版社)1930年(昭和
5)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

………………………………………………………………………………………………
山旅イラスト【ひとり画展通信】
題名一覧へ戻る