山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼476号 「白馬大雪渓の銅山発掘計画」

【概略】
明治時代、白馬岳の大雪渓で銅の鉱脈が発見され採掘が行われた。
戦後採掘話が再浮上したが、「観光価値を損なう」として地元は強
く反対。結局同意が得られず中止。しかし試掘や発掘の登山道が整
備され、登山者から喜ばれたというから皮肉なもの。
・長野県白馬村

▼476号 「白馬大雪渓の銅山発掘計画」

【本文】
高山植物で有名な白馬岳登山で、一般的なのが大雪渓を登るコー
スです。山頂を目指す登山者の60%はここを利用するといいます。
白馬大雪渓は、剱岳の「剱沢」と後立山連峰針ノ木峠の「針ノ木
雪渓」とともに「日本三大雪渓」にも選ばれているところです。
その白馬岳の白馬大雪渓で鉱脈が発見され、採掘が行われた時代
があったそうです。

『北アルプス白馬連峰 その歴史と民俗』によれば、そもそもこの
山は江戸中期あたりから金山(かなやま)として知られていたそ
うです。延享(えんきょう)3年(1746年)、松川の北股、南股の
奥山で、銀の鉱山が発見され、掘り返したいと願書が提出されて、
お上から大町組の大庄屋に許可がおりたそうですが、あまり大規
模に行われた模様はないという。

明治30(1897)年ころになると銅の鉱脈が発見されました。東京
麹町の菅原某という人がスポンサーになり、明治34(1901)年か
ら試掘に着手、白馬尻、葱平に小屋掛けして採鉱をつづけ、明治3
6(1903)年には出鉱をみたという。銅の鉱脈が出たのは雪渓尻の
下流から上部は小雪渓の近くまでという広範囲でした。

しかし、おりからの銅価暴落で。これでは採掘しても採算に合わ
ないということでオジャン。いまでも馬尻小屋から雪渓末端にゆ
く登山道の路傍と対岸の丘に草木が育たない吹きかすの残痕や、
「3号(3番目の舗鉱)の雪渓」と呼ばれる舗鉱のあとがあるそ
うです。

太平洋戦争勃発で兵器、砲弾をつくる金属として採掘が見直され、
軍の後押しで試掘されたが思わしくないということでまたまた中
止。戦後になり、再び白馬大雪渓の鉱脈に目をつけた業者があら
われました。1952年(昭和27)2月、松本市に住む探鉱業者の松
本幸治郎という人が通産省に「試掘願」を提出しました。

それは九州大学の吉村博士の調査に基づいたもので、黄銅鉱の含
有比が高く特別良質だというのです。埋蔵量は推定2、3百万ト
ンはあるという話でした。通産省は、試掘場所が国立公園内であ
り、その上登山道わきでもあることから厚生省と協議しました。

その結果、(1:坑口は登山路から見えない位置とする。(2:廃鉱捨て
場は登山路から見えない場所とする。(3:索道の運転は毎年6月25
日から8月25日の間は使用をやめ、撤収または登山者の目にふれ
ないようにするとの条件つきで、しかも地元の同意が得られれば
着手してもよいということで1954年(昭和29)4月に「試掘認可」
を出しました。

しかし、地元はこの採掘は「白馬岳の観光価値を害するものだ」
と強い反対の声があがり結局中止になったということです。しか
し、これらの試掘や発掘のため登山道が整備され、登山者から喜
ばれたといういきさつがあります。その他に1919年(大正8)夏
には軍馬で白馬岳へ登ったという話もあります。

▼【データ】
【所在地】
・長野県北安曇郡白馬村。JR大糸線白馬駅からバス、猿倉から1
時間で白馬尻。大雪渓の最下部。白馬尻小屋と白馬尻荘がある。地
形図に山小屋名のみ記載。付近に何も記載なし。

【位置】
・【白馬尻】緯度経度:北緯36度45分3.28秒、東経137度46分58.03
秒(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)

【地図】
・2万5千分の1地形図「白馬岳(富山)」or「白馬町(富山)」(2
図葉名と重なる)

【参考】
・「北アルプス白馬連峰 その歴史と民俗」長沢武(郷土出版社)1
986年(昭和61)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

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