山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼474号 「尾瀬・以仁王伝説」

【概略】
源平治承の乱で敗死した以仁王は実はにせ者で、本物は尾瀬沼を通
って桧枝岐に入ったという。そのとき、お供をしていた尾瀬中納言
源頼実なる人物が、旅の疲れで他界。そのなきがらを葬ったのでこ
こを尾瀬沼と呼ぶようになったという。
・群馬県片品村と福島県桧枝岐村、新潟県魚沼市の境

▼474号 「尾瀬・以仁王伝説」

【本文】
浮島と高山植物。群馬県と福島県のまたがる尾瀬沼と尾瀬ヶ原。い
まは高山植物の宝庫。ミズバショウなど花のシーズンになると大勢
の人が集まる観光地になっています。

ここは平安の昔から会津と上州を結ぶ重要な街道になっていたとい
う。この街道を、源平治承の乱・宇治の戦いで敗死した高倉宮以仁
王(もちひとおう)が越後へ逃れるため通ったというのです。

山城で討たれた以仁王の首は、都に持ち込まれましたが顔を見た者
がなく確認できなかったという。そのため、これはにせ者で以仁王
はまだ生きているとの噂がたちました(「玉葉」)。

その足どりは宇治での敗戦後、奈良にでて近江から東海道、甲斐、
信濃、上州沼田を経由、戸倉から福島県桧枝岐に入ったというので
す(「会津高倉社勧進帳」)。

その後、越後方面へ逃れたといい、道々には高倉宮にちなむ墓や廟、
神社が残っています。その時、お供をしていた尾瀬中納言源頼実な
る人物が、旅の疲れで他界しました。

そのなきがらを長沼(鷲沼とも呼ばれていた)近くの丘に葬ったと
いう。そのためこの沼を以後、尾瀬沼と呼ぶようになったというの
です。

またそれとは別に『新編会津風土記』には小瀬大納言頼国が尾瀬に
定住したため、小瀬(尾瀬)というようになったとの説もあります。

▼【データ】
・群馬県利根郡片品村と福島県南会津郡桧枝岐村、新潟県魚沼市(旧
北魚沼郡湯之谷村)との境。JR上越線沼田駅からバス、大清水か
ら歩いて2時間半で尾瀬沼湖畔三平下。地形図に尾瀬沼山荘の文字
のみ記載。

【位置】
・【三平下】緯度経度:北緯36度55分10.45秒、東経139度18分31.08
秒)(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)

【地図】
・2万5千分の1地形図「三平峠(日光)

【参考】
・『新編会津風土記2』(巻之二十五・陸奥国会津郡の一):(『大日
本地誌大系・第31』)花見朔巳校訂(雄山閣)1932年(昭和7)
・「会津高倉社勧進帳」:「続群書類従・3輯下」(神祇部)(巻第74)
塙保己一編纂(続群書類従完成会)1988年(昭和63)
・『柳田国男全集7』柳田国男(ちくま文庫)(筑摩書店)1990年(平
成2)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

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