山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼456号 「箱根・記録に残る最乗寺の天狗」

【略文】
最乗寺の道了尊天狗は、もと滋賀県大津の三井寺の大行者だった
という。三井寺の古い記録には相模房道了と記載。同じ相模出身
の了庵慧明禅師が、箱根に最乗寺を建てることを知ると、突然天
狗の姿に化身、最乗寺建築の手伝いをしようと、箱根に向かって
飛んでいったという。
・神奈川県小田原市と箱根町との境

▼456号 「箱根・記録に残る最乗寺の天狗」

【本文】
 明星ヶ岳は箱根火山の古期外輪山の峰のひとつ。小田原市の真
西にあり、夕方になると当山の上に宵の明星が輝くため明星ヶ岳
の名があるといわれる。一名大文字山とも呼ばれ、京都東山の大
文字焼きを参考に、この山でも大正10(1921)年から毎年8月16
日に大文字焼きが行われています。

 当日は見物客で強羅は大変なにぎわいをみせ、箱根の観光イベ
ント中でも人気の高いもののひとつだという。山頂はハコネタケ
におおわれ展望もよく、整備された気持ちの良い登山道が続いて
いて、ハイカーに人気があります。

 この山は天狗の山でもあるという。北麓にある大雄山最乗寺(だ
いゆうざんさいじょうじ)(曹洞宗)は、川崎大師、大山不動とと
もに神奈川県の三大名刹のひとつです。室町時代初期に建てられ
たという歴史をもっています。伊豆箱根鉄道の大雄山駅から続く
道路の終点に、道了尊というバス停があり、そこからわずかで最
乗寺につきます。

 このお寺は天狗が名物で、鉄製の赤い天狗下駄がならび、入口
階段わきに大天狗・小天狗がおっかない顔をしてにらんでいます。
寺のまわりには、杉の巨木がならび、いかにも天狗が住んでいそ
うな感じです。バス停の名は、ここに住んでいることになってい
る天狗・道了薩?(どうりょうさった)のことで、本名は道了坊
妙覚というそうです。

 近郊の人たちからは、親しみを込めて道了尊と呼ばれています。
そもそも天狗には大天狗、中天狗、小天狗、からす天狗、木の葉
天狗、白狼天狗などがますが、そのなかでも鼻の高い大物の大天
狗、そのなかでも名前のある天狗は超大物で、勝手気ままな有象
無象の小わっぱ天狗どもをとり仕切っているといいます。

 ところが最乗寺の道了薩?は、鼻が高い天狗ではなく、くちば
しがあり肩に羽が生え、背中に炎を背負って、狐に乗っています。
これは東京の高尾山や、群馬の迦葉山(かしょうざん)の天狗と
同じ系列の、長野県・飯縄山の有名な飯綱(飯綱三郎天狗)系の
天狗で、荼吉尼天(だきにてん)の姿をしています。JR中央線
高尾駅や、迦葉山弥勒寺のなかなどには、鼻高天狗の面を飾って
ありますが、本尊は荼吉尼天天狗なのです。

 道了天狗は、もと滋賀県大津の有名な三井寺の大行者でした。
三井寺の古記録から拾いだされた道了に関する項目「道了大薩?
園城寺に於ける修験の事蹟」の4つ項目が、道了の前身と天狗に
化(な)った時のことについて書いてあります。(1:「至徳元年
七月(1384)、聖護院覚増法親王(21代門跡覚誉のことか)、熊野
三山入峰の時、大峰の山中にて、悪鬼妖魔の妨げにて、云々」(熊
野三山験記第三巻中)。

 (2:「康応元年己巳(一三八九)、五月二十日、宝蔵院定助園
城寺長吏(116代)に補せられ、その上任の云々(寺門先徳撰述目
録補第三巻中)。(3:「康応二年庚午(1390)、正月十八日大僧正
(定助のことか)、将軍義満(足利三代)の代に於いて云々。(続
史抄及び後鑑)。

 (4:「明徳四年(一三九三)九月十七日、相模房道了、勤学の
座に於いて、十一面の小呪三落叉の後、人容忽然として天狗に変
じ、西窓を開き、飛び立ち金堂前の大杉の頂に移り、東面に向ひ
飛び去る。以後其姿を見ることなし(園城寺学頭代北林院日記)。
これらに数々の修行を積み、また重要な役割を勤めた大行者だっ
たという。

 その道了が、明徳4年(1393)というから、南北朝が合一され
た翌年、突然天狗に変身し、西側の窓から飛び立ちそばの大杉の
てっぺんに移り、東(最乗寺のある箱根の方向)に向かって飛び
去ったという。こうして箱根に飛来した道了は了庵の弟子になり、
寺院建設に持ち前の神通力を用い、谷を埋め岩を持ち上げ砕き協
力、たちまちのうちに大雄山最乗寺を完成させます。

 17年後の応永18(1411)年、師匠の了庵が75歳でこの世を去
ると、道了天狗は「もはやわが使命は終わった」として、寺を永
久に守護するため、「五つの誓願」を唱え、虚空に舞い上がりまし
た。

 その姿は、右手に降魔の輪杖を持ち、左手に縛魔の剛縄を握り、
両羽翼を生じ、全身を大火炎に包まれ、法衣を着て白狐にまたが
った天狗の姿になって、向かいの峰の大樹のしたに天降ったとい
う。その時大地震動して、全山が鳴動したと『大雄山誌』に記録
されています。そして明星ヶ岳にすみつき、いまも時々最乗寺の
大杉に舞い降りては寺を守っているということです。

 五つの誓願とは、(1:「常に三宝をおそれ、言直和順の心を以
て我を念ずる者には、八苦の抜済を獲せむべし」。(2:「常に四恩
をおそれ、慈悲心を以て我を念ずる者には、七難悉く除きて、武
勇の術を獲せむべし」。(3:「常に父母師長をおそれ、平等心を以
て我を念ずる者には、衆々の悪病消滅を獲せしむべし」。

 (4:「常に自賛※き他の意をおそれ、正道心を以て我を念ずる
者には、衆人の敬愛を得せしむべし」。(5:「常に作業の事をおそ
れ、初めより間断なき心を以て我を念ずる者には、福徳円満を獲
せしむべし」。それを見た大雄山にいた人たちは、あまりの不思議
さに、ただただ拝んでいるばかり。やがてその姿はどこかへ消え
去っていたという。そのためその姿を模写し、道了が降り立った
ところにお堂を建て、影像を安置し道了大権現と崇めたというこ
とです。

 いま最乗寺で発行されている道了尊の影符は、伝承では羽が生
えているとあるのに、みんな羽がない像になっています。この羽
をなくした(落とした)時期について『道了大薩?伝』には、「延
宝四年(1676・江戸時代)、輪住(※代わり番こに勤める)二百十
四世、鼇山(べつざん)正雪和尚の代に、薩?(道了)は両羽翼
を脱落せられた奇瑞(※きずい・吉兆)の事実がある。爾(※し
か)りしより薩?の姿に羽翼はなく、之(これ)を羽がい落ちの
影像と称している」とあります。

▼最乗寺奥之院【データ】
【所在地】
・神奈川県南足柄市大雄町。伊豆箱根鉄道大雄山線大雄山駅からバ
ス、道了尊から10分で大雄山最乗寺(曹洞宗)奥之院。地形図に奥
之院と記載あり。奥之院より北東方向308mに最乗寺本堂がある。

【ご利益】
・【大雄山最乗寺】:諸願成就

【位置】(標高点、三角点)(電子国土ポータル)
・【最乗寺奥之院】緯度経度:北緯35度18分1.23秒、東経139度04分
23.5秒(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)

【地図】
・2万5千分の1地形図「関本(横須賀)」

【参考】
・「図聚天狗列伝・西日本編」知切光歳著(三樹書房)1977年(昭
和52)
・「天狗の研究」知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
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