山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼413号「群馬県・妙義山の大ノ字」

・【前文】
信越線の車中からでもそれと分かる妙義山の「大ノ字」。妙義山に
まつられている妙義大権現の「大」だという。ここの天狗妙義坊は
大権現の化身。ある秋、目のさめるような紅葉の中、大の字のある
岩峰に登りました。柱の上にたてられた「大」の字は大きすぎカメ
ラに収まりません。しばらく岩遊びをしてから鎖につかまりながら
岩峰を降り、奥の院へ向かいました。
・群馬県安中市・同県富岡市と同県下仁田町との境。

【本文】は下方にあります。

▼413号「群馬県・妙義山の大ノ字」

【本文】
奇岩怪石がならぶ妙義山は、上毛三山のひとつでもあり日本三大奇
勝(大分県・耶馬渓、香川県・寒霞渓)のひとつにもなっています。
妙義山は中木川の東側を表妙義、西側を裏妙義といい、表妙義の白
雲山中腹には、白い「大」の字があって遠くからでも木々の中に浮
かんで望めます。

これは東麓にある妙義神社の神仏習合時代の妙義大権現の「大」だ
とのこと。かつては旅人も、山全体の神として街道から手を合わせ
たと聞きます。この神はここに棲む天狗妙義坊はこの大権現の化身
だとされています。

伝説ではかつて日本武尊が白雲山に波己曽(はごそ)神をまつる社
を建て、波己曽山と呼んでいたそうです。波己曽山を妙義山と名前
が変えるにはこんな理由がありました。

南北朝時代、南朝方に名臣とした名高い、内大臣花山院(かざんい
ん)右近衛大将藤原長親(ながちか)という人がいたそうです。明
徳5年(1394年)、この人が出家して耕雲明魏(こううんめいぎ)
法師と名前を変えて、洛東華頂山(かちょうざん・京都,東山三十
六峰の一)の奧に隠とん生活に入ります。

10年あまりも過ぎてから、関東方面に流浪の旅に出たという。そ
してはるばる妙義山に流れ着いたというのです。人徳篤い耕雲明魏
(こううんめいぎ)法師は、ここでも絶大な民衆の信頼を得て、一
生を終えたという。

妙魏法師を慕っていた民衆や、寺僧たちが、山中に塚を建てて妙義
山の祭神とし、山の名を明魏(妙義山)に変えたというのです。た
だ『妙義山』(歴史と信仰の山)上州路文庫(あさを社)の一節「妙
義信仰」(近藤義雄)では、その説は根拠が薄く、こじつけの感が
ると比定しています。

また「白雲山妙義大権現由来」という文献によれば、妙義大権現は
比叡山十三代目の座主(ざす)法性坊尊意僧正だとしています。僧
正は天慶3年(940・平安時代)に逝去しましたが、のち碓氷峠に
あらわれ白雲山に来山。

「われは比叡山座主(ざす)尊意僧正なり。宿世の縁でこの山に住
し、衆生を済度せん」と託宣しました。以後妙義権現と敬われたの
が山名由来だとする説もあります。

目のさめるような紅葉の中、大の字岩峰で遊びます。柱の上にたて
られた「大」の字は大きすぎカメラに収まりません。鎖につかまり
ながら岩峰を降り、奥の院へ。岩室の中、陽に映えた紅葉を見なが
ら食べたおやつのミカンがなんともうまかったのを覚えています。
深田クラブ選定「日本二百名山」(1984年)。

▼妙義山【データ】
【山名】・妙義神社の妙義大権現の「大」。

【所在地】
・群馬県安中市松井田町(旧碓氷郡松井田町)・同県富岡市旧妙義
町各地区名(北甘楽郡旧妙義町)と同県甘楽郡下仁田町との境。信
越本線松井田駅の南西4キロ。JR信越本線松井田駅からバス妙義
神社前下車1時間10分で大の字。大ノ字を表したやぐらがある。地
形図に大ノ字の文字のみ記載あり。

【位置】
・妙義山大ノ字:【緯度経度】北緯36度18分6.41秒、東経138度45
分25.8秒(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)

【地図】
・2万5千分の1地形図「松井田(長野)」or南軽井沢(長野)(2
図葉名と重なる)(国土地理院「地図閲覧サービス」から検索)

【山行】妙義山から岩船山・高津牧場
・某年11月22日(火・くもりのち雨)探訪

【参考】
・『角川日本地名大辞典10・群馬県』井上定幸ほか編(角川書店)1
988年(昭和63)
・『山岳宗教史研究叢書16・修験道の伝承文化』五記重編 (名著出
版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書・17』(修験道史料集1・東日本編)五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『図聚天狗列伝・東日本編』知切光歳(三樹書房)1977年(昭和5
2)
・『妙義山』(歴史と信仰の山)(あさを社)1981年(昭和56)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

………………………………………………………………………………………………
山旅イラスト【ひとり画展通信】
題名一覧へ戻る