山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼214号 「中ア・宝剣岳の祠」

【概略】
宝剣岳山頂の手力雄尊(手力男命)の祠は伊那側でまつったもの。
しかし伊那側で手力雄尊を祭る社は一社だけで新しい。そもそも宝
剣岳と手力雄尊の関係は、はじめ木曽側で成立、いつしか伊那側で
まつるようになったのではないかとの現地の教育委員会の話。
・長野県宮田村と上松町の境

▼214号 「中ア・宝剣岳の祠」

【本文】
長野県中央アルプス・ロープウエイ千畳敷駅の後ろにそびえる宝剣
岳(ほうけんだけ・2931m)。木曽側へ切れ落ちる肩のあたりに、
西向きに天狗の面そっくりの形をした天狗岩があります。夕方、夕
陽に映えるこの岩のシルエットは見事です。

この岩はベテランクライマーのロッククライミングが行われるとこ
ろ。岩壁は花崗岩からなり、天狗の形は方状節理によってできたも
のという。このような形が目立たないことはありません。

江戸中期の「宝暦六年駒ヶ岳一覧記」にすでに、言い伝えられてい
る天狗岩というのはこの岩のことかと、記載されています。

さて、その山頂には、手力雄尊(たぢからおのみこと・手力男命・
日本神話で天照大御神が天の岩戸に隠れたとき、その岩戸を開けた
という神)の祠がまつられています。

まだ新しく建てられたもので東の伊那側を向いており、石碑の後ろ
に古く壊れた祠がころがっています。ヘエ、ここ宝剣岳も力持ちの
手力男命に関係した山なんだァ。そこで調べてみました。

伊那側各所にある駒ヶ岳神社里宮のうち、手力雄尊をまつっている
のは、伊那市内ノ萱にある社だけ。しかしそれも1885(明治18)年
創建と新しい。

一方、西麓の木曽側からは、1532(天文元)年に徳原春安という人
が宝剣岳の山頂に社を建立、神話の保食神(うけもちのかみ)や手
力男命をまつるなど駒ヶ岳神社の創立は木曽側の方が古いようで
す。

木曽郡上松町の『駒ヶ岳由来記』に「……時代を経るにしたがい、
多くの神々を諸峰に祀り……第三の峰宝剣岳には大山祇命(おおや
まずみのみこと)、手力男命……を祀る」とあります。

そんなことから、宝剣岳と手力雄尊の関係は、はじめ木曽側で成立
したのち、いつしか伊那側でまつるようになったのではないかと伊
那市教育委員会からの手紙の返事でした。

9月の連休、宝剣岳山頂は大勢の登山者が昼食をとっていました。
岩の間を縫うように祠に近づき、写真とメモをとり、岩の砂とほこ
りに埋まった石碑を掘り出して、砂がつまった石碑の文字をなぞり、
スケールで大きさを計ります(だからといってもどういうことはな
いのですが)。

見るといつの間にか何人かの登山者が集まってきています。そして
読みづらい石碑の文字を一緒に判読しはじめます。みなさん、つら
れて興味をもたれるんですね。

ちなみに手力雄尊の石碑は縦70センチ、横(底)48センチ。木の祠
は縦54センチ、横54センチあり前の賽銭箱のようなものにふもとの
村名・宮田の文字が書かれ、大きな岩と岩にはさまれて建っていま
した。

★【データ】
【山名】・宝剣岳・宝剣・錫杖岳(1811年(文化8)寂本法師が山
頂に錫杖を奉献したことに由来)。

【所在地】
・長野県上伊那郡宮田村と長野県木曽郡上松町との境。飯田線駒ヶ
根駅の北西12キロ。JR飯田線駒ヶ根駅からバス、駒ヶ岳ロープウ
エイ、さらに歩いて1時間で宝剣岳。写真測量による標高点(2931
m)がある。手力雄尊をまつった祠がある。また木曽側へ切れ落ち
る肩のあたりに、西向きに天狗の面そっくりの形をした天狗岩があ
る。地形図に山名と標高点の標高記載あり。標高点より北方189m
に宝剣山荘がある(or付近に何も記載なし)。

【位置】
・【標高点】緯度経度:北緯35度46分53.07秒、東経137度48分32.98
秒(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)

【地図】
・2万5千分の1地形図「木曽駒ヶ岳(飯田)」(別の図葉名と重な
らず)(国土地理院「地図閲覧サービス」から検索)

【山行】木曽駒ヶ岳・麦草岳・木曽御嶽・蓼科山
・某年9月5日(土・晴れ)探訪

【参考】
・「駒ヶ岳由来記」木曽上松町駒ヶ岳社務所(駒ヶ岳研究第一輯・
上伊那教育会編・昭和15年9月15日所載)宮田村役場提供
・伊那市教育委員会社会教育科

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよた 時】

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山旅イラスト【ひとり画通信】
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