山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼183号 「吾妻連峰・一切経山の勇猛法師」

【概略】
「大笹生邨(そん)蓮光寺開山勇猛法師法華経を一字一石に書き写
し、峯上に埋め塚を築きしなり」と江戸時代の郷土誌『信達一統志』
にある。この勇猛法師こそ衣川関で八幡太郎義家と戦い、のち仏門
に入り一切経の経本千巻を山頂に埋めたという安倍貞任のことか。
・福島県福島市と猪苗代町との境

▼183号 「吾妻連峰・一切経山の勇猛法師」

▼山旅漫歩゚【ひとり画展】183号(山行10月)
「東北吾妻連峰・一切経山の勇猛法師」
【本文】
福島県福島市と猪苗代町にまたがる吾妻連峰の一角、一切経山(い
っさいきょうざん)(1949m)と家形山は、福島市方面から見ると
「あずま屋」の屋根の形に似ています。そこでついた名前が「吾
妻山」。見方によっては大きな牛が寝ているようでもあります。そ
のひとつ一切経山という噴煙を上げています。別名、吾妻山大巓
(だいてん)、思山(ものおもいやま)ともいうそうです。古書に
「実の名は一切経山なれど、総称して吾妻山という」とあり、昔
は一切経山が吾妻山の主峰とされていたらしい。

その昔、弘法大師空海は、全国を行脚しながら、のちに開く高野
山のような霊場にする場所を探していました。そしてここ一切経
山を見つけ、霊場を開こうとしました。しかし山頂が狭く、お堂
や行場を建てられません。そのかわりに、「一切経」を埋めたのだ
という伝説があります。一切経とは、経・律・論の三蔵全部、7
千余巻の総称のことだという。別の一切経説もあります。

江戸時代天保年間の『信達一統志(しんたついっとうし)』(志田
正徳著)にはこんなことが記してあります。吾妻屋嶽の神(一切
経山と家形山の神)が、大勢の人馬が山道を通るのを嫌がり、夏
の大暑にもかかわらず大雨を降らし、気温を冷やして異常気象に
して、信夫郡中の農作物に障害を与えたいいます。

それを愁いた「大笹生邨(おおざそうそん)蓮光寺開山勇猛法師
(大笹生村の蓮光寺を建てた勇猛法師は)時気変嵐の災を除き郡
民の愁を救うため、法華経を一字一石に書き写し、東屋嶽(一切
経山)の峯上に一字一石の経塚を築きしなり」だという(「日本歴
史地名大系7・福島県の地名」(平凡社)1993年)。ちなみに『信
達一統志』とは福島県信夫郡(しのぶぐん)、伊達郡(だてぐん)
の歴史をまとめた郷土誌で、「信」は信夫郡、「達」は伊達郡のこ
とだという。

この勇猛法師こそ、平安時代、前九年の役(1051〜1062年)を起
こした東北地方の豪族・安倍貞任(あべのさだとう)のことだと
いう説があります。康平(こうへい)5年(1062)9月、衣川柵
(ころもがわのき)で八幡太郎源義家に攻めたてられ敗走すると
き、義家に「衣のたてはほころびにけり」とうたいかけられた貞
任、「年を経し糸のみだれのくるしさに」と答えた話は有名です。
その教養に感じ入った義家は、矢をおさめ貞任を見逃しました。

その様子を「さばかりのたたかいの中に、やさしかりける事哉(か
な)」と、鎌倉時代の説話集『古今著聞集』にあります。こうして
衣川の柵を脱出した安倍貞任、のち仏門に入り一切経の経本一千
巻をこの山頂に埋めたのだというのです。同年貞任は厨川(くり
やがわ)の柵で義家に討たれ、戦死したと伝えられています。現
在も一切経山山頂には石を積んだ塚があり、木柱や塚が建ってい
ます。

さて一切経山とその北にある家形山は、それぞれを一切経山(南
家形)、家形山(北家形)といい、この2山あわせて「東屋嶽(あ
ずまやだけ)神社」といったそうです。先の『信達一統志』の「東
屋嶽の項」にも「信達第一の山なり、東屋嶽(あずまやだけ)神
社、東屋国(あずまやくに)神社、東屋沼(あずまやぬま)神社、
三柱の神鎮座すなり」と出ています。

東屋嶽神社については「南北の峰を北家形南家形と云ふ東屋嶽神
社是也」とあり、東屋沼神社については「その際に大なる沼あり、
是を雷沼(カタチヌマ)(五色沼)ト云、又東屋沼神社是なり」と
記してあります。一切経山山頂直下の五色沼(雷沼)は「東屋沼
(あずまやぬま)神社」のご神体だというのです。この湖は水の
色が5色に変わるという火口湖です。

またこのあたりは一大信仰の聖地で、一切経山を中心にして東に
安達太良(あだたら)山、西に磐梯山と西吾妻を結ぶ稜線の広大
な地域が吾妻山信仰の対象。18世紀の「吾妻山々案内記」という
文書には、吾妻山を諸仏諸尊集会の浄土としていました(「東北の
山岳信仰」)。

一方、この山は養蚕安全祈願の山としても広く信仰されました。
吾妻山本堂再建の勧化帳(榊原家文書)に「天保五午年より願望
之人在之前日一七日大晦日之夜子之正刻尓(に)至り蚕安全祈願
令修行、勧請符差出候」とあり、この再建勧進は本山派修験年行
事で、福島県猪苗代城下の成就院が願主となっていたそうです。
(『日本日本歴史地名大系・福島』)。

この成就院は、明治初年の神仏分離以前は、吾妻神社の管理・司
祭取り仕切っていたお寺。その由来について『新編会津風土記』(成
就院の項)が記すには、吾妻山の麓寺沢(現猪苗代町)の「田舎
峰入」(この地方の山伏の峰入り修行)の宿だった吾妻山白鳳寺と
いう寺を、天仁年中(1108〜10年・平安時代後半)、成就院と改
めたという。

その峰入りの時の山先達の心得について、成就院の後裔長岡寛徳
氏は「吾妻神社奉仕三二年山籠之思出」に次のように記していま
す。「霊地ニ入ルヤ涸沢不動滝ニテ行水ヲナシ、草履塚(ぞうりづ
か)ニテ新シキ草履ニ取リ替ヘ、携帯品ヲ解キ山先立ニ渡ス、山先
立ハ一同ニ訓示ヲナス、山法聞バ語ルナ、語ラバ聞クナ、腰ヨリ
下ニ手ヲ付クルナ、山先立ガ結ブ、御宝前(御室とも唱(い)フ)
ヲ参拝(祝詞三唱)次ニ養蚕ノ御室ヲ拝シ(祝詞三唱)帰山ニツ
ク、草履塚ニ戻リ草履ヲ解キ、元ノ草履ニ取替携帯ヲ受取リ下山
ノ途ニ付ク」と出ており、登拝するのにも細かい約束事があった
ようです。

ある秋、一切経山頂で写真を撮ったあと、沼のわきでテントを張
りました。太陽が西に沈み、かわって白っぽい月が湖面を照らし
はじめました。黒い影になった一切経山と、湖面に写る月に、が
らにもなくアルコールがすすんだものでした。

▼【データ】
【山名】・一切経山(いっさいきょうさん・ざん・やま)

【由来】
・「信達志」(信達一統志)に「大笹生邨(そん)蓮光寺開山勇猛法
師法華経を一字一石に書き写し、蜂上に埋め塚を築きしなり」とあ
る、この勇猛法師は八幡太郎義家に敗れた安倍貞任か。彼はその後
仏門に入り、一切経の経本を1000巻山頂に埋めたともいう。また
空海がこの地に霊場を開こうとしたが面積が狭く果たせなかったの
で一切経を埋めたとも伝えている。

【名山】
・日本山岳会選定「日本三百名山」(第214番):日本百名山以外に
200山を加える。
・田中澄江選定「花の百名山」(含まれず)
・岩崎元郎選定「新日本百名山」(含まれず)

【所在地】
・福島県福島市と福島県耶麻郡猪苗代町との境。奥羽本線峠駅の南
南東8キロ。東北新幹線福島駅からバス、浄土平から歩いて1時間
40分で一切経山。一等三角点(1948.8m)と石を積んだ塚がある。
地形図に山名と三角点の標高の記載あり。三角点より北方向600m
に五色沼がある。

【位置】
・三角点:北緯37度44分7.41秒、東経140度14分39.51秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「吾妻山(福島)」

【参考文献】
・「角川日本地名大辞典7・福島県」小林清治ほか編(角川書店)1981
年(昭和56)
・『信達一統志』(『信達志』)(志田正徳著):江戸時代天保12年
(1841)成立。福島県信夫郡、伊達郡の歴史をまとめた郷土誌:福
島市史資料叢書(第30輯)福島市史編纂委員会編(福島市教育委
員会)1977年(昭和52)
・「日本山岳ルーツ大辞典」村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・「日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・「日本百名山」深田久弥(新潮社)1970年(昭和45)
・「日本歴史地名大系7・福島県の地名」(平凡社)1993年(平成
5)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

………………………………………………………………………………………………
山旅イラスト【ひとり画通信】
題名一覧へ戻る