山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼山旅1199号(百伝99)開聞岳「伝説と神話と修験道」

【説明略文】
開聞岳は神話と修験道の山。かつてこの山は、枚聞(ひらきき)岳
と書きましたが、いまは、北ろくにある開聞岳をまつる神社にその
名が残っています。山名のヒラは傾斜地、キキはクキ(岫)の転化
したもので、ヒラキキとは「傾斜の急な山」の意味とか。また天孫
降臨の瓊瓊杵尊が開聞岳を仰いで「われ今たひらに来たりき」と感
嘆。そこからヒラキキの名ができたとも。
・鹿児島県指宿市(旧揖宿郡開聞町)。

▼山旅1199号(百伝99)開聞岳「伝説と神話と修験道」

【説明本文】
 開聞岳(かいもんだけ)は、鹿児島県指宿(いぶすき)市(旧揖
宿郡開聞町)にある山。『日本百名山』(深田久弥著)の099番目に
書かれています。開聞岳は神話の山であり、修験道の山でもありま
す。かつてこの山は、枚聞(ひらきき)岳と書いていました。な
ので開聞岳(ひらききだけ)と読むのが正しいといいます。

 しかし、いまはカイモンの方が一般的です。ヒラキキの名は、
北ろくにある開聞岳をまつる枚聞神社(ひらききじんじゃ)に、
その名前が残っている程度です。枚聞神社は、古代には開聞神、
中世以降は開聞宮(ひらききのみや)・開聞神社と呼ばれていたそ
うです。この神社は、平安時代の古代法典『延喜式』(えんぎしき)
にも載っているという古い神社です。

 さて次は「ヒラキキ」とは、「カイモン」とはなんだ?というこ
とになります。「開聞岳の信仰」(『山岳宗教史研究叢書13』所収)
の筆者・小川亥三郎氏は、各地の地名を例に、こんな風に検証して
います。ヒラキキの「ヒラ」とは、『万葉集』にある、滋賀県の比
良山のふもと比良地方の浦を、平の浦(ひらのうら)とある通り、
また大阪府枚岡(ひらおか)市の枚岡山(ひらおかやま・展望台268
m)の例もあるように、比較的傾斜地・崖が多い所です。

 そのほか鹿児島県指宿市にも大平山(おおひらやま)、鬼門平(お
んかどひら・307m)という山もあります。このように「ヒラ」は
坂、傾斜地、崖などを意味する語であると思う。また「キキ」は「ク
キ(岫)」で、その転音したものらしい。「クキ」(岫)は山の洞穴
を意味する語でしたが、転じて、岩山・谷・峰の意となったのです。

 明治時代編纂の国語辞典『大言海』にも、「くき(岫、洞)山ノ
洞(ホラ)アル処。転ジテ山。岡」とあります。そんなことから「ヒ
ラキキ」は「ヒラクキ」の転化で、「傾斜の急な山」の意味である
と小川亥三郎氏は結論づけています。

 この山はまた、日本神話にも登場します。北ろくにある枚聞神社
(ひらきき)の祭神は、国常立命(クニトコタチノミコト)・大日
?尊(オオヒルメノミコト)・猿田彦(サルダヒコ)など多くの神
がまつられています。

 このうち大日?尊とは、ナント太陽神天照大神(アマテラスオオ
カミ)のことだそうです。この天照大神を開聞岳にまつったのは瓊
瓊杵尊(ニニギノミコト)。

 『古事記』や『日本書紀』の天孫降臨の話です。ぞろぞろと神々
大勢ひきつれて、高天原から高千穂に天下ったニニギノミコトは、
笠沙崎(かささのみさき)(旧川辺郡笠沙町)に来て、笠沙宮を建
てました。

 ある日、開聞岳のふもとに行った時、山を仰いで、「われ今たひ
らに来たりき」と感嘆し、おばあさんの天照大神をまつりました。
そしてまたその時感嘆した言葉から、「ひらきき」が地名になった
という説もあります(『日本書紀』神代下)。

 さらにニニギノミコトは、海岸を歩いてコノハナサクヤヒメに出
会って求婚したのです。いまの川尻温泉のある川尻漁港あたりだそ
うです。これは『古事記』(上つ記)にも、「ここに天津日高日子番
能瓊瓊芸命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)、笠沙(かささ)
の御崎(みさき)に麗しき美人(をとめ)に遇(あ)ひたまひき…」
と出ています。

 そしてふたりの神の間に火照命(ホデリノミコト)、火須勢理命
(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト)の3神が生ま
れたとしています。

 枚聞神社(ひらききじんじゃ=開聞神・開聞宮・開聞神社)の祭
神は、昔から分かりにくいと先にも書きました。大日?貴命(オオ
ヒルメムチノミコト)を中心に、天之忍穂耳命(アメノオシホミミ
ノミコト)、天穂日命(アメノホヒノミコト)、その他なんだらかん
だらのほか、国常立命・猿田彦など数多くの祭神をあげています。
私が参考文献としているなかでさえ、こんがらがって書いているほ
どです。

 一方、室町時代の一宮の一覧を記した『大日本国一宮記』という
本には、和多津美(わたつみ)神社、枚聞(ひらきき)神社と号す、
とあり、塩土老翁(シオツチノオキナ)と猿田彦(ニニギノミコト
を先導した神)が祭神だとしています。塩土老翁は、開聞岳山ろく、
登山口休憩所近くにある「天ノ岩屋」にいたとする神仙です。

 こんな話も残っています。江戸中期の『薩州穎娃開聞山古事縁起』
(快宝法印作)によれば、飛鳥時代の大化5年(648)、「天ノ岩屋」
で塩土老翁が修行をしていると、雌鹿が来て法水を飲んでしまいま
した。すると鹿はたちまち妊娠し、翌春、口から美しい女の子を産
んだというのです。塩土老翁は、その子を瑞照姫(みずてるひめ)
と名づけ大事に育てました。

 姫が2歳になり読み書きを覚え、詩歌も暗唱するという才女ぶり。
その上美女とくるから、うわさは太宰府から都の朝廷に伝えられま
した。そして上京、藤原鎌足に預けられたのでした。やがて姫は、
ますますの才媛美女に成長、13歳になると、大宮姫(おおみやの
ひめ)と名づけられ、宮中に上がり、とうとう天智(てんじ)天皇
の妃になりました。

 ところがある日、宮中の雪合戦の時、足袋がぬげ、姫の足の爪が
鹿の爪であることが分かり、天智天皇の皇子、大友皇子(みこ)は
じめ、宮中の官女たちにねたまれ、大宮姫は故郷の開聞岳の流され
てしまいました。早速山ろくに仮御殿がつくられました。白鳳2年
(673)になり、天智天皇が皇后の大宮姫を恋しがり、開聞岳の山
ろくまでやってきました。

 そしてふたりはこの離宮で、幸せに暮らしましたが、天智天皇は
慶雲(きょううん)3年(706、飛鳥時代)、79歳で死亡。皇后も
翌年、慶雲4年(707・同飛鳥時代)59歳で亡くなったということ
です。この大宮姫をまつったのが、枚聞神社のはじまりだというこ
とです。

 ところで開聞岳には、筑紫富士・薩摩富士・小富士・海門山・
海門岳・蓮花山・長主山(ながぬしやま)・枚聞岳(ひらきき)・
枚聞山(ひらきき)・金畳山(きんじょうざん)・空穂島(うつほ)
・鴨着島(かもつく)・筑紫小芙蓉(つくししょうふよう)・連花
山・補陀峰(ふだ)・海門(かいもん)岳・薩摩富士・筑紫富士な
ど、うんざりするほど異名があります。

 その名前の由来を説明した本があります。江戸時代の鹿児島県
の地誌『三国名勝図会』(巻之二十三)やそのほかに、(1)長主
山とは:神代に、ここは吾田(あた)の長屋の国主であるコトカ
ツクニカツナガサ(事勝国勝長狭)の領内であり、開聞岳は領内一
の絶景ということから、国主の名前をとり、ナガサ(長狭)が主宰
の山、つまり長狭の「長」、主宰の「主」で、「長主山」にしたとい
う(これってホントかいな)。

 また、(2)鴨着島とは:やはり神代のころ、ヒコホホデノミコ
ト(彦火火出見尊)と木花咲耶姫の第3子で、火遠理命(ホオリ
=山幸彦)が、シオツチノオキナ(塩土老翁)につくってもらっ
た篭舟に乗って、なくした釣り針を探しているうちに着いた竜宮
が、ここだったという話(有名な海幸彦と山幸彦)からつけらた
ということです。昔は国を島といったのだそうです。

 (3)金畳山(きんじょうさん):開聞岳の美しさを詠んだ僧巣
松の漢詩、「神仙削出玉芙蓉、重畳黄金猶幾重……」とあり、この
山は金山だったと昔の人はいっていたという。(4)空穂島(うつ
ほじま):貞観(じょうがん)、仁和(にんな)(ともに平安時代)
の大噴火で、山のなかは空になったのではないかというところか
らつけられたということです。

 (5)海門岳:この山は鹿児島湾(錦江湾)の入り口にあり、
形がよく遠くからもよく目立ち、航海の目印に便利なところからき
ているといいます。

 開聞岳は修験の山でもあります。中世から近世にかけて、北麓
の天ノ岩屋は、修験道の修行道場の中心でした。薩摩・大隅(おお
すみ)を支配していた島津氏は、修験山伏の組織を情報収集に利用
していたと聞きます(『鹿児島県の歴史』)。開聞山ろくの修験道場
は、諜報(スパイ)関係の養成所だったのか?。

 この山にも天狗ばなしがあります。大天狗の名前は、開聞岳(海
門岳)武山魔神(たけやままじん)といいます。天狗と一口にいい
ますが、上は大天狗、中天狗、小天狗に分かれ、小天狗でもカラス
天狗・木の葉天狗・白狼(はくろう)天狗、なかには修行が未熟で
溝を飛び越すにもやっとという「溝越天狗」などというものもいま
す。上位の大天狗のなかでも、○山○○坊などと、名前のある天狗
は大した天狗です。武山魔神天狗は、開聞岳一帯を支配する魔神だ
というのです。

 以下は、地元の村人の間で言いつたえられてきた話です。江戸時
代末期のこと、鹿児島のなんという人が、竹之島に近いところの児
ヶ水に湯治にきていました。朝早く、海岸をウミガメの卵などを探
しながら散歩していると、知らず知らずのうちに、岩窟の下まで来
てしまいました。

 するとどこからともなく、法螺貝(ほらがい)の音が聞こえてき
てしつこく耳元で鳴ります。どこまで行っても一向に音は消えず、
宿まで逃げ帰ってきましたが、とうとう気を失ってしまいました。

 まだまだあります。安永元年(1772)ころ、丸山新左衛門と紋兵
衛という地元の侍が、山川の町でイッパイやってご機嫌になり、鼻
歌を歌いながら竹山の下の村を通りがかりました。そこへ突然、身
の丈2丈(6.06m)以上もある魔神が立ちふさがったのです。丸太
のように太い腕、夜叉のような恐ろしい顔をして、提灯を突きつけ
てきます。

 その恐ろしさにふたりは、イッパイ機嫌はどこへやら、家に逃げ
帰りました。それからというもの、子孫代々にまで絶対に竹山の下
を通るべからずといさめたという。その時、魔神の提灯には、木瓜
(もっこう)の紋があったということです。

 このような話は、うわさだけでなく、記録にも残されています。
ここに江戸時代後期の『薩藩神変奇録』(田原篤実著)という本が
あります。その薩摩国頴娃郡(えいちょう)山川郷の項に、「…海
辺に竹の山といふ山あり。此山は往古より俗に天狗の御在所と云ひ
傳ふる所なり」として、数々の不思議な話を載せています。

 この竹山が武山と書かれ、武山魔神という天狗の住みからしい。
だいたいこの天狗は、自分の領域内に無断で立ち入られたり、騒い
だりされるのが大嫌いだったようです。

江戸時代後期の文化8年(1811)12月2日の夜のことあるから具
体的です。地元薩摩藩島津家の御用船の神明丸(船頭・西田駒助)
は、暴風のため、鹿児島湾の入り口に当たる山川港に逃げ込もうと
しましたが、あわてて、近くの竹山下の浜辺に流れ着きました。

 すると、天狗がすむという竹山の方角から、大きな火の玉が飛ん
できたかと思うと、船の帆柱に舞い上がりました。見上げると帆柱
のてっぺんに、提灯(ちょうちん)のようなものをさげた大男が、
大あぐらをかいてすわっています。なぜか提灯にこだわっています。
乗組員たちは船底で小さくなって震えています。

 船底へ逃げ遅れた船乗りたちがウロウロしていると、豆粒のよう
なものがほおに当たったとたん、皆気絶してしまいました。そして
気がつくと帆柱がへし折られていました。これには、さすがの海の
荒くれ男たちも胆をつぶし、おののいたと書かれています。

 また同夜、4,5人の釣り人が小舟で沖にこぎだしたことも書か
れています。夜が更け、雷雨が激しくなったので、岸へ戻ろうとす
ると、かの竹山のあたりにあらわれた光りものが、みるみる大きく
なり、東南東方向の鳶の口方向へ飛び去りました。その夜は一晩中、
竹山の頂上に怪火が燃え、雷鳴が鳴っていたといいます。

 この騒動を船頭が、薩摩藩島津家の藩丁に庁に出した届書が同書
にあります。それには「御船神明丸十六反帆喜界島砂糖為積船当春
被差下上善にて山川より……」からはじまり、事の次第を詳しく述
べて、「……左候て間もなく右通の大変事御座候  文化八年未(ひ
つじ)十二月 御船神明丸船頭 西田駒助 (以下乗組員名等略之、
編者)」と結んでいます。これではそんな話、ウソだろうと一笑に
付すわけにはいかなくなります。

 武山(竹山)は(開聞岳の東方、指宿市山川にある)山というよ
り岬の丘みたいな所。海からの見通しもよい。すぐ隣に、山川・頴
娃(えい)の集落があり、近くにソテツの自生地があり、竹山神社
もあります。

 この神社の縁起にも、「隣に連なっている鳶之口峰との間は天狗
の住みかで、頂上に神灯が見えたり、太鼓・笛・法螺の音が鳴り響
き渡ったり、岩石が大きな音をたてて崩れ落ちたりする様々な霊怪
が伝えられている」とあります。

この岬の丘みたいな竹山(武山)に、よく武山魔神のような大天狗
がすみついたものと、天狗研究者は不思議がっています。このよう
な魔神天狗は、いつ、何の目的があって、どのようにしたすみ着く
のでしょうか。そしてどこからきたのでしょうかネ。

 北海道利尻島の利尻山(りしり・標高1721m)は、『日本百名山』
(深田久弥著)の一番目に書かれている山。利尻郡利尻町と利尻
富士町との境にあります。日本最北の山で、利尻岳とも書かれ、
島そのものがひとつの山になっています。美しい姿から利尻富士
とも呼ばれています。

 ここには不思議なことに熊やマムシなどのヘビ類がいないとい
う。深田久弥は『日本百名山』の中で、かつて利尻島南東方向対
岸の北海道天塩(てしお)町で山火事があった時、火事現場から逃
れてきたのか熊が泳いで渡ってきて、すみついたことがあったとい
う。しかし、いつの間にかいなくなっていた。たぶんまた古巣へ泳
ぎ帰ったのだろう、というようなことを書いています。

 山名はアイヌ語の「リ・シリ」の音訳「高い島山」という意味
で、となりの低い島山「礼文」に対するもの。この山は、島の中央
に山頂を突き上げ、北峰(1719m)、本峰、南峰(1721m)の三つ
のピークを持っています。でも北峰から先は崩落が激しく登山禁止
になっています。

 北峰に利尻郡利尻富士町鴛泊(おしどまり)地区にある利尻山神
社の奥社の祠があります。利尻山北ろくには鴛泊ポン山(四四四メ
ートル)、南麓に鬼脇(おにわき)ポン山(410m)、仙法志(せん
ほうし)ポン山(320m)などという一風変わった名前の小さな寄
生火山もあります。また北に直径250mの姫沼、南麓の沼浦(ぬま
うら)には直径400mのオタドマリ沼、三日月沼があり、山の風景
に趣をそえて利尻富士観望の地となっています。

 この山は古くから高くそびえた美しい姿で、航海や漁場の目印に
され、海の安全を願う人々から崇められたという。しかし姿に似合
わずこの山の気象は厳しく、天気が晴れて山の姿があらわすのは、
一年のうち100日もないということです。また利尻山に吹き込む風
は「北海の荒法師」とも呼ばれるほど烈しいという。

 ここ利尻島には長くアイヌの人たちが住んでいました。ここに初
めて和人が入ってきたのは1706年(宝永3)。能登の人、村山伝兵
衛が松前藩からソウヤ場所の漁場請負人を命じられて、住みはじめ
たのが開発の先駆けだそうです。その後1787年(天明7)8月に
はフランスの探検家、ラ・ペルーズという人が、サハリン島から南
下した時、宗谷海峡でこの山を見て、館長のラングルにちなんでラ
ングル峰と名づけたという。

 登山の古い記録としては、江戸時代後期の1789年(寛政10)、
武藤勘蔵の『蝦夷日記』のバッカイベツからソウヤへの7月7日の
見聞記があり、それによると、最上徳内(もがみとくない・江戸時
代中後期の探検家であり江戸幕府普請役)が記されていてこれが最
初らしい。江戸時代後期の1808年(文化5)になり、ロシア武装
船の来襲のときには、幕府から出兵を命じられた会津藩士が水腫病
にかかり、大勢死亡していった事件もあったといいます。

 山頂北峰にある神社の里宮、鴛泊の利尻山神社は、1824年(文
政7)に建立した神社だという。そののち、山頂に奥社の小祠をま
つりました。ついでながら祭神は、オオヤマツミノカミ、オオワタ
ツミノカミ、トヨウケヒメノカミを合祀(ごうし)しています。

 オオヤマツミは、『古事記』では大山津見(おおやまつみ)と表
記され、『伊予国風土記』逸文(いつぶん)という文書では、大山
積(おおやまつみ)と書き、大山をつかさどる山神だそうです。ま
た『日本書紀』では、大山祇(積)と表記し、イザナギ(男神)・
イザナミ(女神)の子。大山をつかさどる山神だそうです。

 またオオワタツミは、『古事記』では大綿津見神(おおわたつみ
のかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わた
つみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などと表記。海の三
神の一神で、綿(わた)は海(わた)で、津見は司ることなのだそ
うです。

 さらにトヨウケヒメは、『古事記』では豊宇気毘売神(とようけ
ひめのかみ)、『日本書紀』では豊受気媛神(とようかひめのかみ)、
豊受大神(とようけのたいじん)などと書き、イネの精霊の神格化
したもののようです。つまりこの祠には、山と海と食べ物の神さま
をまつったのでしょう。

 山頂の三角点(点の名称「利尻絶頂」)は、1912年(大正元)5
月に陸地測量部の技師井口貫一によって選点されたものという。さ
らに1871年(明治4)日本政府の招きで開拓使顧問として来日し
た、アメリカの農政家、ケプロンが書いた「ケプロン報文」(来曼
北海道記事)には「バツカイ(稚内市の地名)近傍ノ海浜通リ数英
里ノ間、殆ド円錐状ニシテ、四側平等ナル利尻山ノ美景ヲ眺望シツ
ヽ経過セリ」と利尻山を見ながら航海していたことが記されていま
す。

 利尻山の登山道を開いたのは修験者天野磯次郎という人物。1890
年(明治23)ころ、鴛泊(おしどまり)からの登山道をつくった
のが最初だという。明治後期になると、植物学者牧野富太郎も植物
採集のためこの山を訪れています。

 また「♪山は白銀、朝日を浴びて……」の詩でおなじみの『スキ
ーの歌』の作詞家、時雨音羽がこの利尻出身。彼は利尻山について
「山は世界に山ほどあれど海の銘山これひとつ」と詠んでいます。
島の沓形岬公園には彼の「ドンとドンとドンと波のり越えて一挺二
挺三挺八挺櫓で飛ばしゃ……」という『出船の港』の歌碑もありま
す。

 利尻山は、古くは利後(りいしり)山と呼ばれたという。この山
について民俗学者、吉田東伍は、「(現代文で書くと)島の中央に屹
立する休火山にして、洋名をランタンという。壮麗なる円錐形をな
して裾を四方に延ばし、遠くこれを望めば、さながら富岳のようで
ある。よって北見富士の名称がある。山ろくはおおむね樹林をもっ
て覆われ、四合目以上は全く火山質の石礫(せきれき)をもって覆
われている」というような紀行文を残しています(『日本山岳ルー
ツ大辞典』)。

 ここは高山植物でも名高いところでもあります。緯度が高いため
に本州では標高2000mあたりに生息する高山植物が、利尻島では
平地に平気な顔をして?生えています。ここの固有種のリシリヒナ
ゲシ、ボタンキンバイ、リシリオウギ、リシリトウウチソウなど、
利尻の名を冠した種も多く、南斜面に群生するチシマザクラは、1968
年(昭和43)道天然記念物に指定されました。

 また三合目、姫沼分岐近くにわき出る寒露泉は1985年(昭和60)
の「日本名水百選」(環境庁)のなかで一番北の名水になっていま
す。この名水は、サケのふ化事業にも利用されています。深田久弥
選定「日本百名山」第1番選定。岩崎元郎選定「新日本百名山」第
2番選定。田中澄江選定「花の百名山」(1981年)第12番選定。
田中澄江選定「新・花の百名山」(1995年)第11 番選定。


▼利尻岳【データ】
【所在地】
・北海道利尻郡利尻町と利尻富士町との境。JR宗谷本線稚内下
車、稚内港から船で2時間で鴛泊(おしどまり)からタクシーで利
尻北麓野営場、さらに歩いて6時間で利尻岳(利尻山)北峰。2
等三角点亡失(1718.7m・2011年10月31日)と利尻山神社奥宮
がある。そこから230mほど南の南峰に写真測量による標高点(17
21m)がある。

【名山】
・「日本百名山」(深田久弥選定):第1番選定(日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる)
・「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第2番選定
・「花の百名山」(田中澄江選定・1981年):第12番選定
・「新・花の百名山」(田中澄江選定・1995年):第11 番選定

【位置】
・北峰2等三角点(亡失):北緯45度10分49.64秒、東経141度14
分28.83秒
・南峰標高点:北緯45度10分42.57秒、東経141度14分31.67


【地図】
・2万5千分1地形図名:鴛泊

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典1・北海道(上)』(角川書店)1991年(平
成3)
・『神々の系図』川口謙二(東京美術)1981年(昭和56)
・「週刊日本百名山32・利尻岳、羅臼岳」(朝日新聞出版)2008年
(平成20)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳風土記3・富士とその周辺』(宝文館)1960年(昭和35)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本山名総覧』武内正著(白山書房)1999年(平成11)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系1・北海道の地名』高倉新一郎ほか(平凡社)
2003年(平成15)

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▼【おもしろ山と田園の本】
01『新・丹沢山ものがたり山と渓谷社刊の続編。
・02
『日本百名山の伝承神話』百名山の神話伝説
03全国の山・天狗ばなし山の妖怪天狗とはなんだ?
04『山の神々いらすと紀行東京新聞出版局(旧岳人)刊を焼きこみました。
05『続・山の神々いらすと紀行東京新聞出版局(旧岳人)刊の続編。
06『ふるさとの神々何でも事典いなかの神さまたち
07『続・ふるさとの神々何でも事典旧富民協会の続編。
08『家庭行事なんでも事典大切にしたい家庭の行事
09『健康(クスリになる)野菜と果物主婦と生活社刊を改題
10『ひとの一生なんでも事典何のためにある通過儀礼
11『ふるさと祭事記(歳時記)なつかしいふるさとの行事
12『野の本・山の本「子供の科学」誌連載をまとめて出版
▼その他CDおもしろ山と田園の本

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▼山と渓谷社刊『日本百霊山』
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神仏、精霊、天狗や怪異と出会う山旅。山の知識をもう一つアップ。
★ヤマケイ『日本百霊山』ホームページ
https://www.yamakei.co.jp/products/2816120561.html

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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