山の【ひとり画ってん】
『日本百名山の伝説と神話』
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▼1165-(百伝065)両神山「3つの神社とオオカミと天狗たち」

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【本文】

▼【両神山とは】
 秩父の両神山(りょうかみさん)は、岩峰が鋸の歯がならんで
いるようで、遠くからでも一目で分かります。くさりに捕まりな
がら山頂の剣ヶ峰に立てば、360度の展望。目を凝らせば遠く北ア
ルプスまで確認できます。また5月下旬から6月上旬ごろシャク
ナゲ・ヤシオツツジで彩られます。また西側の山裾にある小倉沢に
沿って金の産地でもあったそうです。

 山頂の剣ヶ峰から北へ、前東岳・東岳・西岳・八丁峠へ延びる、
ゴツゴツした主脈の険しい尾根がつづきます。いま「両神山」と
いえば、この山全体の名前になっていますが、狭義には高い岩稜が
つづく剣ヶ峰から東岳までをいうそうです。

 お分かりのように、剣ヶ峰から前東岳、東岳までは同じくらい
の高さの岩稜がならんでいます。しかし東岳の先の風穴の切戸(き
れっと)を境にして、西岳からは一段と低い岩稜になっており、
その様相が違っています。狭義の山名はこんなところから来てい
るのかも知れません。

 奥秩父に造詣の深い登山家・原全教(はらぜんきょう)氏も、「剣
ヶ峰を中心にして、南を男座山(おざさん)、北を女座山(めざさ
ん)と呼ぶところから、これを男女の両神にみたてて、この範囲
(剣ヶ峰から東岳まで)を狭義の両神山とすべきであろう」と著
書の中で述べています。この場合も両神というのは男女の神とい
っているようです。

 ここ両神山には、あちこちに石仏が建っていて、その数300体
以上といわれるからすごい。こんな山ですから、信仰の山として
三峰山三峰神社、武甲山御嶽神社とともに、「秩父三山」と呼ばれ
ているほど民衆から崇められた山でした。

 それもそのはず、この山も修験道の祖、役(えんの)行者小角
(おづぬ)が奈良時代に開山したと伝え、江戸時代は、多くの修
験者の修行の道場だったそうです。

▼【山の名】
 両神山は、別名八日見山(ようかみやま)・龍頭山(りゅうかみ
やま)・鋸岳などとも呼ばれています。それぞれの山名については
以下のような説があります。

▼【両神山の説】
 まず両神山について。この名は大昔、日本武尊が山頂に伊弉諾(イ
ザナギ)・伊弉册(イザナミ)の男女2神(両神)をまつったから
だといいます。このふたりの神は、『古事記』や『日本書紀』でお
なじみです。記紀によると、高天原の神々の命で海に漂う脂のよう
な国土を固めて結婚し、国産み・神産みを果たした創造神というこ
とになっています。

▼【八日見山の説】
 次ぎに八日見山(ようかみやま)説です。この名は狭義には、
両神山の剣ヶ峰から東岳につづく、西岳付近の別称らしい。両神
山としては、やはりこのあたりがメインなのでしょうか。奥多摩
の高水三山の命名者でもある高畑棟材氏も『山を行く』の著書の
中で、西岳を「八日見山」としています。

 八日見山は、例の日本武尊が東夷征伐の時、この山を見ながら
ここまで、8日間もかけて歩いてきたとか、また武尊が東征の途
中で筑波山に登った時、山なみのはるか彼方に八日間、この山を
遠望したからなどとの説があります。どっちにしろ8日間、両神
山が見えていたわけです。その他地元の伝説に、日本武尊がこの
山に8日間かけて登ったなど、細かい違いの話もあります。

▼【龍頭山の説】
 またこの山を龍頭山(りゅうかみやま)とも呼んでいます。こ
れは、両神山東岳の北東ろくの尾ノ内地区の呼び方で、龍神山と
も書いています。剣ヶ峰から北へ延びる岩稜の東岳と西岳間に、
龍頭神社をまつる祠(龍神社)があり、そのための山名だそうで
す。

 このあたりを狭義に龍頭山ともいうそうです。その祠から北東
へ延びる尾ノ沢を下ると、尾ノ内地区に出ます。この沢の山頂に
まつってある竜神社の祠は、尾ノ内地区の龍頭神社の奥社になっ
ています。

 山頂にある奥社の祠を竜の頭に見立て竜の頭としたとき、そこか
ら流れ下る尾ノ内沢は竜の体で、里宮のあるふもとの地区はしっ
ぽにあたります。尾ノ内地区の名の由来はそこにあるといいます。

 もっとも八日見のヨ(ヤ)ウカミは、ヤオカミのことで、ヤは
八、オカミは高?(たかおかみ)、闇?(くらおかみ)のオカミで
雨乞いの神です。これはすなわちオロチ(大蛇)のことで、仏典
でいうところの竜王のこと。つまり八つの頭を持つ竜王(龍頭大
明神)なのだそうです。難しくなりましたが、結局は同じことで
すね。

▼【両神山中の神社】オオカミの狛犬
 主峰剣ヶ峰の南東直下、鳥居のある小広場(ここが昔の案内書
でいう山頂部らしい)には、ふたつの神社の本社が、背中合わせ
に建っています。一つは「両神神社」の本社で東向きに建てられ、
それを背に「御嶽神社(両神大神社)」の本社が南向きに建てられ
ています。両方ともオオカミの狛犬が建っています。

  とくに御岳神社のオオカミはりっぱなシッポをもっています。
オオカミは音が大神(おおかみ)に通じ、その昔、日本武尊(やまと
たけるのみこと)が道に迷ったとき、白いオオカミが道案内をしてくれたと
いう伝説が三峰神社や奥多摩の御岳神社にあり、このあたり一帯ではお
犬さまとあがめられています。

 また口を大きく裂けた姿から大口真神(おおぐちのまがみ)という名前
がつけられ、奥多摩や秩父地方では神社からお札が配られ火難盗難よ
けとして戸口に貼られています。

▼【両神神社】
 両神山の主峰剣ヶ峰の南東直下、鳥居のある小広場に建っているふ
たつの神社は次のようなものです。まず両神神社(旧両神神明社)。
本社は、昔は山頂部といっていた(いまは鳥居のある小広場)に、
里宮のある東の里宮の方を向いて建っています。里宮は、東ろく
の日向大谷(旧薄村)にあります。この神社の奥宮は、剣ヶ峰に
ある小さな社です。

 神社の名前にもいろいろ変遷があったようです。両神神社は、
はじめ「両神山両神神社」と呼ばれていましたが、その後「両神
山八日見神社」になり、大正10(1921)年ごろ、なぜかまたもと
の社名「両神山両神神社」に戻したということです。神仏習合時
代は観蔵院と呼んでいました。

▼【御嶽神社】
 次は、「御嶽神社」。本社は先述のように、鳥居のある小広場に南
向きに建てられています。ただ江戸時代後期の地誌『新編武蔵風
土記稿』には、「東向きにある社は両神明神社、その後ろに南向き
で建てられてある社は両神権現社で、ともに薄(すすき・旧両神
村薄)地区、白井差(しらいさす・旧両神村白井差)地区の鎮守」
と書かれています。里宮は旧両神村の浦島地区にあり、寺号を金
剛院といいます。

 この神社は、『新編武蔵風土記稿』にあるとおり、昔は「両神権
現社」と呼んでいました。そののち、御嶽山の王滝口を開いた普寛
行者の御嶽教とむすびつき、「両神御嶽神社」とか「御嶽神社」と
呼ばれるようになりました。

 里宮である浦島地区の金剛院(現金剛院御嶽神社)は、かつては
両神山の浦島登山口になっていたところ。人々はここから両神山に
登ったといい、かつてはにぎわったそうです。金剛院入り口の碑に
は、「両神大権現、御嶽蔵王大権現」とあり、御嶽山とのつながり
をあらわしています。

▼【龍頭神社】
 もうひつ、「龍頭神社」があります。この神社の奧社は、東岳と
西岳の間の尾根にあり、里宮は尾ノ内(旧小鹿野町)にあります。
神社名はふつう「りゅうとう」神社と呼ぶそうです。里宮から南西
に突き上げる尾ノ沢を遡ると奥社のある尾根に出られます。

 祭神はやはりイザナギ・イザナギの2神です。龍頭神社の由緒記
には、「日本武尊が両神山に登頂したとき、イザナギ、イザナミの
2神が霊夢の中にあらわれた。喜んだ武尊はこの両神を山頂にまつ
った」と、いうことも書かれています。

 同じ龍頭神社の縁起にこんなのがあります。平安時代「前九年
の役」の時、源頼義(みなもとのよりよし)が首謀者の奥州安倍
氏制圧のため派遣されました。しかし敵もさるもの、なかなか目
的が達せられません。そのころ頼義に従属している山に筑波山が
ありました。

 その筑波山の神主真壁権太夫(まかべごんだゆう)は、頼義た
ちの安倍氏制圧の結果が思わしくないのに業を煮やして、諸国の
神々に「戦勝祈願」をするため旅に出たといいます。

 神主たちが武蔵の国、秩父県八日見山まで来た時、「山気乃凡ナ
ラヌ事ヲ思イ暫ク此地ニ足ヲ留メ居住」した。ある夜、「霊夢でご
宣託があり、山の南方にある濃霊池にすむ神竜が洪水を起こした
り、谷を崩したりしている。これを鎮めるには、諏訪大明神を勧
請し、神竜を一社の神としてまつるべし。」……

 ……「また頼義の武運長久逆徒追討のためには、八幡太神宮を
勧請すべし」とのご神託がありました。そこで権太夫神主が、神
竜を龍頭大明神と崇め、巻岩山の奧に鎮めたところ、神竜もおと
なしくなり、その結果か、源頼義も安倍貞任、宗任、高氏など安
倍氏を滅ぼすことができたといいます。

 その後「八日見山ニ住ム一眼坊ト云天狗」が権太夫の霊夢にあ
らわれ、巻岩山の奧にまつった龍頭大明神を山頂へ移しまつれと
のご託宣がありました。彼はその社地とすべき所へ「明神濃眷属
山狗(耳)仰セテ案内サス此足跡ヲ慕イ分ケ登ルヘシ」としたの
ことです。

 また「此神元来神竜タル故別(而)女人ヲ禁シ給」ともいいま
す。これによって権太夫は、「絶頂に登リ岩窟ニ籠リ一昼夜祈念シ」、
「八日見山ニ勧請」しました。平安中期の寛徳2年(1045)のこ
とだとしています(『山岳宗教史研究叢書8』両神山の信仰)。

▼【巨人伝説】
 さて、難しい話はさておいて、両神山の伝説に入ります。鋸の
歯のような岩峰がつづく両神山ですが、山頂は平になっています
(剣ヶ峰の南東直下、いまの鳥居のある小広場)。それには訳があ
ります。

 この山は昔はもっと高かったそうです。そのせいかこの山は、
高い峰に積もった雪からいつも冷たい風が吹いていて、ふもとに
は花も咲かず、森の木々も寒さに震えていました。

 そのころ富士山に腰をかけて、東京湾の水で顔を洗うようなデ
エダン坊という大男がいました。デエダン坊はこれを見て、「これ
じゃ、あんまりかわいそうだ。あの山の頭を少しちぢめてやろう」。

 大男は硬くて大きなこぶしを振り上げたかと思うと、両神山に
打ちつけました。山の頭は吹き飛んでしまい、変な形になってし
まいました。あわてたデエダン坊は、大きな手で山をなでまわし
て平らにしたというはなしもあります

▼【一位ガタワ伝説】
 両神山の清滝小屋から南に行ったところに「一位ガタワ」とい
うところがあります。以前はここから白井差のバス停に下る道が
ありました。ここには以前から自然石の墓があり、こんな言いつ
たえがあります。奈良時代初頭の和銅年間、一位道人(いちい)
という人が、両神山に登ったということです。

 そのころ秩父から銅が産出、それを記念して「和同開珎(わど
うかいちん)」ができました。一位道人は、この和銅産出のため秩
父にやってきた役人だったという説もあります。その時に両神山
に登ったといわれ、一位ガタワにある自然石の墓は、この人のも
のとされています。

 また一説にこの人は「七位唐人」という人で、群馬県吉井町に
いた帰化人だったとも、日本武尊の軍に所属していたとも、はた
また、一位道人と同一人物だなどともいわれています。

▼【一位ガタワ巫女伝説】
 一位ガタワの自然石の墓には、一位道人の伝説のほかに、もう
ひとつの話があります。昔、両神山も女人禁制の山でした。一人
の巫女(みこ)が、このおきてを破り村人のとめるのもきかずに、
登っていきました。

 村人が心配してうしろからついて行くと、一位ガタワの峠で巫
女は、杖を地面にたてて立ったまま死んでいました。これを見て
あわれんだ村人たちは、巫女を厚く埋葬しました。いま一位道人
の墓といわれるのは、この巫女の墓だともいわれています。現在
その場所には「一位局」の巫女像が建てられています。

 また一説には、一位ガタワまで登った巫女が、解けたわらじの
ひもを結ぼうとしました。そのとき一瞬、稲光のような光がピカ
ッと走りました。見るともうそこには巫女の姿はありませんでし
た。翌朝、心配して巫女を探しに出かけた3人の村人が、いまま
で見たことがない石がひとつ山道にあるのを見つけただけでした。

 先の『新編武蔵風土記稿』の文書には、このあたりの方言で巫
女のことを「イチイ」と呼ぶとあり、このイチイがあやまって「一
位」となったのではないか。また、一位ガタワの上方に「寺平」
という平坦地があり、名前から昔そこにお寺があったらしい。あ
るいはその寺に住んでいた僧の墓かも知れないと書かれています。

▼【弘法の井戸伝説】
 両神山にも弘法の井戸伝説があります。昔、両神山に貧しい老婆
が住んでいました。夏のカンカン照りのある日、杖をついた旅の僧
がやってきました。そして「水をいっぱい下さらんか」と頼みまし
た。お婆さんは「いま汲みに行ってきますので少しお待ちを」とい
って桶を持って暑いなか、出かけていきました。

 村に井戸がなく、遠い水場まで水を汲みに行くのに時間がかかる
のでした。しばらくして帰ってきた老婆は、お坊さんに水を差し出
しました。旅の僧はそれを見て老婆に厚く礼をいい、水を飲み干し
いいました。

 「ところで、水くみに苦労をしているようだが、お礼にひとつ、
井戸をつくってあげよう」と、いうと持っていた杖を地面に突き立
てました。すると不思議や、突き刺した杖のそばから水がコンコン
と湧きだしたのです。去っていく僧を見て、「あれは弘法大師さま
に違いない」。村人はそれからこの井戸を「弘法の井戸」と呼んだ
ということです。

▼【天狗伝説】
 さて、山といえば天狗が切り離せません。ここ両神山には天狗も
いることになっています。両神山の表参道、八海山(はっかいさ
ん)とよばれる所に大頭羅神王(おおずらしんのう)という石像
があります。右手に剣を持ち、髪の毛のなかにはもう一つの顔が
異様な形で彫られています。

 この山の信仰は、「木曽の御嶽」の行者によって始まったものと
いいます。そういえば御嶽の前衛の山の八海山や三笠山、阿留摩
耶山(あるまやさん)の名も両神山の山中に見うけられます。し
かも、行者の唱える唱文のなかに「三笠山刀利天坊(とうりてん
ぼう)、八海山大頭羅坊、阿留摩耶山アルマヤ坊…」と、御嶽山と
同じ天狗の名がでてきます。

 そして行者たちが禊ぎをする滝のほとりの天狗社にまつられる
天狗も同じ刀利天狗、三笠坊、アルマヤ天狗、大頭羅坊だという
のです。ならば表参道にあるこの「大頭羅神王」というのは、御
嶽山の天狗の分身であるわけです。火炎に似た形をした髪の毛の
なかの顔は両牙をむきだし、見ようによっては不動さまのように
も見えます。

 そういえば石像のすぐ上には、弘法の清水という水場があり、
なにやら関連ありそうです。しかし、両神山になぜ御嶽山の天狗
がいるのか不思議です。秩父といえば、木曽御嶽山の王滝口の登
山口を開いた普寛行者の出身地(秩父市大滝)があります。この
山両神山も木曽の御嶽行者が修行した山です。

 両神山中には御嶽講の霊神碑も多く建っており、この山の最高
峰剣ヶ峰には普寛行者の碑も建っています。行者の弟子たちにも
関東出身者が多いといい、関東の山々に御嶽信仰と同時に木曾の
天狗の勧請されたのではないかとされています。

 また関東で御嶽天狗で有名なものに新田山(群馬県太田市金山
町新田神社)の相殿御嶽社(明治の神仏分離以前は御嶽社が新田
山の社だった)があります。この神社は正真正銘の木曽御嶽神を
まつってあり、社殿裏の古碑には、御嶽の大天狗、三笠山刀利天
坊と、八海山大頭羅坊の奇怪な山神の姿が彫りつけてあります。

 これらは場所的に両神山から近いということもあり、また新田
山と秩父両神山には相通じるものがあるところから、新田山系の
御嶽修験によって、両神山に御嶽天狗が根を下ろしたのではない
かと天狗の研究者は見ています。

 ちなみにこのあたりも狛犬はオオカミになっていますが、オオ
カミを山の眷属として神のお使いをして大切にするのは三峰より
こちらの方が古くからある習わしだそうです。


▼両神山【データ】
★【所在地】
・埼玉県秩父郡小鹿野町(旧秩父郡小鹿野町・旧秩父郡
両神村)と埼玉県秩父市大滝(旧秩父郡大滝村)との境。
秩父鉄道三峰口駅の北西14キロ。西武線秩父駅からバス、
小鹿野乗り換え出原から歩いて4時間で両神山。二等三
角点(1723.0m)と両神神社奥ノ院がある。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」
から検索
・三角点:北緯36度01分24.24秒、東経138度50分28.75


★【地図】
・2万5千分の1地形図「両神山(長野)」

▼【参考文献】
・「あしなか」238号(山村民俗の会)1994年(平成6)
・『角川日本地名大辞典11・埼玉県』小野文雄ほか編(角
川書店)1980年(昭和55)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平(名著出版)1990
年(平成2)
・『山岳宗教史研究叢書8』(日光山と関東の修験道)
宮田登・宮本袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『新編武蔵風土記稿』(第十二册)蘆田伊人校訂(雄
山閣)1981年(昭和56)
・『図聚天狗列伝・東日本編』知切光歳(三樹書房)19
77年(昭和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本歴史地名大系11・埼玉県の地名』小野文雄ほか
(平凡社)1993年(平成5)
・『山の憶い出』小暮理太郎:「日本山岳名著全集2」(あ
かね書房)1962年(昭和37)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年
(平成19)
・『両神山』(風土と登山案内)飯野頼治(実業之日本
社)1975年(昭和50)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
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