山の【ひとり画ってん】
『日本百名山の伝説と神話』
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▼1147号(百伝47)鹿島槍ヶ岳「地震神とカクネ里の落人」

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【本文】

▼【鹿島槍ヶ岳とは】
 山の名前には、山の形からきたものがたくさんあります。槍の
穂先のように、とがっているので名づけられたのが槍ヶ岳。また、
後立山連峰北部の白馬三山にも、とがった山があって、これには
槍と同じ意味の「鑓ヶ岳」の字を当てています。

 さらにもう一座、同じ後立山連峰中央部にもとがった槍ヶ岳が
あります。「鹿島槍ヶ岳」がそれだそうです。この山の頂上は、南
峰と北峰との二つに分かれた双耳峰になっています。かつては北
峰を槍ヶ岳、ふたつの峰の間をつなぐ吊り尾根が馬の鞍に似てい
るため、とくに南峰を乗鞍岳と呼ぶ地域もあったといいます。

 双耳峰の南峰と北峰の間は吊尾根とよばれるなだらかな稜線で結
ばれています。北峰から北の主稜線はやせ尾根で、とくに八峰(は
ちみね)キレットは深く切れ込んでいます。

▼【鹿島槍の山名】
 この山は、双耳峰の二つの峰が高さ競争をしているように見え
るので「背比べ山」、また春に雪が消えた岩の形が、安曇野一円か
らシシやツルに見えるところから、獅子ヶ岳、鶴ヶ岳と呼んだも
呼んだそうです。

▼【布引山】
 ちなみに鹿島槍ヶ岳の南側に、布引山がコブのようにひっついて
います。これは明治時代発行された『北安曇郡地誌』という本に、
「初夏残雪白布を引くに似る故に南の一峰を布引岳という」と書か
れているところからつけられた名前だそうです。

▼【立山の後ろの山は?】
この山がある後立山連峰は、富山側から見ると、山岳信仰の聖地立
山の後ろにあります。「立山の後ろ」なので「後立山」です。これ
は「ごりゅうざん」とも読みます。江戸時代の地図に、後立山と書
き込んだ山があり、それはいまの五龍岳のことだといわれたことも
ありました。

 しかし、明治時代の登山家・木暮理太郎が、自分が所属する山岳
会の会報に、「後立山は鹿島槍ヶ岳に非ざる乎(あらざるや)」と、
発表し、いまでは、後立山は鹿島槍ヶ岳のことをさすのが定説に。
したがって、鹿島槍ヶ岳の山名は、明治時代以後つけられた山名に
なります。

▼【カクネ里】
 さて北東直下には、平家の落人伝説のあるカクネ里と呼ばれる
所があります。ここはかつて源氏に追われた平家の落人が住みつ
いていたところだというのです。落人たちは、のちになって大川
沢をくだり、いまの鹿島川のほとりに移り住み、田畑を切り開い
ていまの鹿島槍ヶ岳山麓、大町市鹿島集落になったというのです。

 しかし困ったことに、古文書や武具など、証拠となるものは一
切残されていないといいます。1916年(大正5)と1922年(大正11)
の2回の火事で土蔵にあった過去の資料がすべて焼失してしまっ
たというのです。しかも肝心な鹿島集落では「カクネ里」伝説な
ど知らないという。そのうえ、集落内の鹿島神社に大同2(807・
平安初頭)年の記録があり、それによると平家追討以前にすでに
人が住んでいたことになってしまいます(『あしなか第九七輯』)。

 そこで研究者たちが、古文書や地形語などを考察し、カクネ里
(隠れ里)の言葉の変化や、また柳田国男の研究の例などから推
理しています。つまり、カクレをカキクレ、サトはザトウ、サコ
またはセトに変化した例をあげ検証をしています。

 また登山の大先輩羽賀正太郎氏は、もっと単純に考えています。
「鹿島槍北峰」などと、登山者が必要に応じて地名をつけたよう
に、狩人や杣人など山村民が何かのことを仲間に話すとき、決ま
った地名がないために、人が隠れ住むに都合がよい地形から「カ
クネ里」の名が生まれたのではないかとしています。

▼【住んでいた落人は】
 一方、鹿島集落住人のあるお墓に刻んである年代から調べた資料
がありました。墓石の正面に「先祖代々精霊塔」とあり、その両
側面に、「永禄二未」、2代目「文禄元辰」、3代目「元和三巳」と
あったとしています。

 年代は順番に、永禄2年(1559)己未(つちのとひつじ)で室
町時代も戦国時代の終わり、2代目は文禄元年(1592)壬辰(み
ずのえたつ)で安土桃山時代、3代目は元和(げんな)3年(1617)
丁巳(ひのとみ)で江戸時代初期にあたります。

 これらから推測すると、落人たちが鹿島槍ヶ岳の山ろくに逃げ込
んだとすれば、甲斐武田の残党たちか、越中方面の落人たちではな
いかとしています(『北アルプス物語』)。

 甲斐武田の落人(※1582年・天正10武田氏滅亡)だとすれば、
山梨県甲州市(JR甲斐大和駅付近)で織田勢から逃れ塩尻峠を越
えて、「塩の道」沿いに大町市から大町温泉郷あたりを経由、鹿島
川をさかのぼって鹿島槍ヶ岳の山ろくにたどりついたものらしい。

 また越中の落人だとすれば、立山から内蔵助谷へ来て、黒部川
を少し下って新越沢対岸から黒部川を渡り、新越沢を経て新越乗
越付近の稜線に出て、鹿島槍ヶ岳のふもとまで来て落ち着いたの
ではないかと推察できます。

 いずれにしても現地は、普通ではとても遡行できない大川沢の
奧の奧、雪崩や雪塊の崩落が名物のような場所。とても人の住め
るような所ではないといいます。しかし確かに下流の鹿島集落は
平家の落人だという説は根強く残ったままです。

▼【鹿島槍ヶ岳の地名】
 また鹿島槍ヶ岳の地名についてこんな説があります。江戸中期
の享保9年(1722)、時の松本城主忠幹が政事の一助にと作らせた
「信府統記(しんぷとうき)」(松本藩内の総合書)の第六巻に、「鹿
島山(鹿島槍ヶ岳)と名づけたるは、昔、鹿島明神出現ありしと
て此処に祭りしより今に此名あるなり」とあります。

 さらに、「地震説」もあります。戦国時代の天文年間(1532〜55
年)に大地震があって、山が崩壊してふもとの集落に大きな被害
をもたらしたというのです。村人たちは協議の結果、地震の神で
有名な常陸の国(茨城県)にある鹿島神宮の鹿島明神を勧請して鹿
島槍の山に祭り、さらに村の中に鹿島明神を建てました。また集
落の名を鹿島集落、山の名を鹿島山、さらに集落の中を流れる川
を鹿島川と改めたといいます。

 しかし、いまの鹿島集落の場所では、鹿島槍ヶ岳の直下からは
ずれているため、崩壊で被害を受けるとは位置的にちょっと考え
にくいですよね。あるいは、鹿島槍北壁直下の「カクネ里」にい
た?ときの話なのでしょうか。

 鹿島集落の名のもとについては異説があって、集落を流れる鹿
島川が氾濫したときに鹿島神社を勧請し、鹿島という集落名が起
きたとする本もあります。鹿島集落は、大町の平地区にある旧借
馬村(かるま)の枝郷になっているそうです。

 このカクネ里に最初に足を踏み入れたのは、日本登山界の草分け
でもある三枝威之介(さえぐさいのすけ)という人。1908年(明
治41)7月、威之介が白馬岳から後立山連峰を縦走、五龍岳から
鹿島槍ヶ岳に登り、カクネ里に降りて大町に出たという記録が残っ
ています。

▼【ホシガラス伝説】
 この鹿島槍ヶ岳に、お灸の起源だという民話が残っています。
その昔、このふもとに住む木こりの一家に娘がいました。彼女は
いつも鹿島槍ヶ岳をボンヤリと見つめていました。ある時、山の
ホシガラスがやってきて、一本のびんを渡していいました。「この
霊水を飲むと足が丈夫になる。足の弱い人に飲ませて助けてあげ
なさい」。

そこへ父親と、木こり仲間が山から帰ってきました。「最近、年の
せいか山歩きがきつくなった」と愚痴をこぼしています。娘はホ
シガラスに貰ったびんを思い出し、木こり仲間の家に行って霊水
を少し飲ませました。

 すると「あれ、足が軽くなったぞ」。木こりは喜びました。それ
からというもの、足の骨を折った人やケガした者がいると、娘は
霊水を飲ませに出かけました。村人たちは大喜び。みんなが娘に
お礼をいいました。

 何も知らない父親は不審に思いました。娘のるすに調べてみる
とびんが一本あるのを見つけました。のぞき込むと自分の顔が写
りました。「内緒で男とこっそり逢っていたのか」。

 アホくさッ。びんをのぞき込んで自分の顔が見えたからといっ
て、男をこっそりかくまっていたと思うかいな。などと思わない
でください。話が先に進まなくなってしまいます。スミマセン。

 怒った父親はびんを投げつけ割ってしまいました。戻ってきた
娘は割れたびんを見つけ、がっかりしました。娘はまた鹿島槍ヶ
岳をぼんやりながめはじめました。するとまたホシガラスが飛ん
できてこんどはヨモギを渡しました。

 そして娘にその使い方を教えました。それがお灸のはじまりだ
ということです。そのためこの村ではホシガラスを大切にするそ
うです。これが鹿島集落の話かどうかは不明です。

▼【吊り尾の根雪田】
 ある8月、白馬岳方面から南を目指して縦走してきました。暑
さジリジリ。鹿島槍ヶ岳吊り尾根にある雪田に入り込み、雪で顔
を洗います。日光が雪の白さに反射して目が痛いほどです。上空
は気流が激しいためか、上がったり下がったりガスが忙しく動い
ています。

 地震の神・鹿島明神のお陰でこんなに穏やかなんだ。雪田でし
ばらく童心に帰って雪遊び。南峰にはい上がり布引山経由冷池の
テン場に向かいます。布引山を前にした下り坂、視線の下でホシ
ガラスがハイマツのマツボックリをつついています。なかの実を
食べるのでしょう。

 やがて冷池のテント場の広場に飛び出ました。右手西側に深い
黒部川。その先にそびえる剱岳。その先につづく八ツ峰、三ノ窓
雪渓や小窓雪渓が目立ちます。♪釼見るな〜ら赤谷尾根でヨ、大
窓小窓にネ、三ノ窓よかネ……、鼻歌を歌いながらテントを設営
したのでありました。



▼鹿島槍南峰・北峰【データ】
★【所在地】南峰と北峰がある。
・長野県大町市と富山県立山町と同県黒部市宇奈月町との境。大
糸線信濃大町駅の北西15キロ。JR大糸線信濃大町(タクシー20
分)大谷原から歩いて8時間45分で鹿島槍ヶ岳南峰、さらに歩い
て30分で北峰。南峰には二等三角点(2889.1m)、北峰には写真測
量による標高点(2842m)がある。

★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
・北峰標高点:北緯36度37分37.38秒、東経137度45分7.05秒
・南峰三角点:北緯36度37分28.3941秒、東経137度44分49.39秒

▼【地図】
・2万5千分の1地形図「十字峡(高山)」or「神城(高山)」(2図
葉名と重なる)。

▼【参考文献】
・「あしなか第九十七輯」山村民俗の会
・『アルプスの伝説』山田野裡天(ナカザワ)発行年不明
・『角川日本地名大辞典16・富山県』坂井誠一ほか編(角川書店)
1979年(昭和54)
・『角川日本地名大辞典20・長野県の地名』市川健夫ほか編(角川
書店)1990年(平成2)
・『北アルプス物語』朝日新聞松本支局編(郷土出版社)1982年(昭
和57)
・『信州山岳百科1』(信濃毎日新聞社)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『信府統記』第六巻(信濃国郡境記四安曇郡の部)享保9(1724
年)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系16・富山県の地名』高瀬重雄ほか(平凡社)
1994年(平成6)
・『日本歴史地名大系20・長野』(平凡社)1990年(平成2)
・『富山県山名録』橋本廣ほか(桂書房)2001年(平成13)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56)
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