山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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1136号-男体山「赤城の神との戦いを助けた猿丸太夫」

【略文】
栃木県の日光山とは、男体山・女峰山・太郎山の日光三山をいう
そうです。この山々は家族だとする信仰もあります。有名な赤城
山との神の戦いのもとは『日光山縁起』、『二荒山神伝』、『下野国
二荒山縁起』などの書物にある話です。・栃木県日光市。

1136号-男体山「赤城の神との戦いを助けた猿丸太夫」

【本文】
 栃木県の日光山とは、男体山・女峰山・太郎山の日光三山をい
うそうです。その代表の男体山は標高2486mで、中禅寺湖の北
側にそびえています。女峰山(2493m)は、男体山の北東に、
太郎山(2367m)は女峰山の西方にそれぞれそびえ、さらに男体
山と女峰山の間には、大真名子山(おおまなごさん)と小真名子山
があります。
 男体山の名は、補陀落山(ふだらくさん)・二荒山(ふたらさん)
・国神山(くにかみさん)・黒髪山(くろかみやま)・日光富士な
どの異名もあります。日光は最初、補陀落山と呼ばれていました
が、のち二荒山(ふたらさん)と改称。それをニコウと読むこと
からニッコウと読み、日光の名が出たといいます。
 また黒髪山ともいわれるのは、山の様子が女性が、髪の毛を洗
い乱したかのようにみえるからだといいます。その名は、松尾芭
蕉が日光山に詣でた時詠んだ歌を『奥の細道』に、「黒髪山は霞か
ゝりて、雪いまだ白し」と書き留めています。また弟子の河合曾
良(かわいそら)は「剃り捨てて黒髪山に衣更(え)」と詠んでい
ます。


 さて、男体山の山頂には奥社が、南ろくには二荒(ふたら)山神
社があります。また頂上に直径400mの旧火口もあります。こ
の山には放射谷が多く、山腹には八方に「なぎ」と呼ばれる山崩
れがあります。それはいまも風雨のため、崩壊がつづいており、「将
来は山容が変わってしまうのではないか」と心配されるほどだそ
うです。

 この山は展望もすばらしく、眼下に広がる中禅寺湖や戦場ヶ原、
上州の浅間山や草津白根山、燧ヶ岳など尾瀬の山々、また遠く富
士山や北アルプスなども望められ雄大です。

 男体山は、修験道の山としても有名で、開山は、下野国(栃木
県)芳賀郡生まれの勝道上人が、奈良時代にこの山に登ってから
だとされています。上人は俗姓を若田氏といい、延暦元年(78
2・奈良時代)に男体山の頂上に登り、目の当たりに「観音浄土」
を見たといいます。そして三柱の神のお姿を拝したというのです。


 勝道が拝した神々は、男体山の神である「大己貴命」(おおなむ
ちのみこと)と、女峰山の神の「田心姫命」(たごりひめのみこと)、
そして太郎山の神である「味耜高彦根命」(あじすきたかひこねの
みこと)の三柱だったといいます。なんとも難しい字がならびま
す。

 さらにこの神々を家族と見たてて、本地仏(仏さまが神さまの
姿で現れるという説)としても崇められますから、次第に複雑に
なります。つまり、@【父は男体山で、二荒神社にまつられ、そ
この祭神は大己貴命で、本地仏は千手観音】。A【母は女峰山で、
滝尾神社にまつられ、そこの祭神は田心姫命で、本地仏は阿弥陀
如来】。B【子は太郎山で、本宮神社にまつられ、そこの祭神は味
耜高彦根命で、本地仏は馬頭観音】だといいます(『山岳宗教史研
究叢書8』から)。こんなややこしいこと、どうぞご勘弁お願いし
ます。

 さて、補陀落山と呼ばれていたのが、二荒山になり、日光にな
ったというのですが、「二荒」と書くのには訳があります。この山
は、「羅刹(らせつ)窟」とよばれる岩穴から年に2度、暴風が吹
き出していたというのです。年2回荒れるので「二荒山」の名が
ついたといいます。それを弘法大師空海がこの穴を結界(魔怪か
ら切り離す)し、名前を日光としました。


 その岩穴というのはどこか。その場所について、男体山の北東
方とするのは江戸時代の『日光山満願寺勝成就院堂社建立記』と
いう文書。また江戸後期の『日光山志』には、いろは坂下り道右
手にある馬返しの岩壁だとしています。

 『図聚天狗列伝・東日本編』という本にこんな記述がありました。
「日光の第一いろは坂(下り専用)の馬返し上に、前二荒と呼ば
れる断崖がある。その中腹に高さ約3m、幅約2.1mの入り口
がある洞窟がある。この洞窟は、雷神穴といい、雷獣の日光雷の
すみかで、いつも生臭い風が吹き出ている」。

 また「或ハ雷獣トテ、雲ニ乗ジ、雷ト同ジク虚空(こくう)ヲ
飛行スル畜(けだもの)ノ棲メル穴」と書くものもあります(『日
光山志』)。雷獣が出没し、毎年春秋2回、必ず大嵐を吹きだして
荒れるので、弘法大師が穴をふさぎ、結界した場所は、どうもこ
このようです。


 昔は、この穴をまつる神主さんがいましたが、「今ハ絶エテ、其
(の)子孫、御宮ノ伶人(れいじん・楽師)トナレリ」なのだそ
うです。それから300数十年もの歳月が経るいま、いつの間に
か結界の効果もうすれ、ふたたび魔怪が闊歩するようになったの
でしょうか。「土地の者は、この洞穴にすむ魔怪を天狗と信じてい
る」とわが『図聚天狗列伝・東日本編』の著者の天狗センセイは
信じて疑わないようです。

 日光の山々は家族だとか、有名な「赤城山の神と日光の神との戦
い」などについては『日光山縁起』、『二荒山神伝』、『下野国二荒
山縁起』ほかの書物に書かれています。その中の、『二荒山神伝』
(林羅山)や『日光山縁起』を、柳田国男が「神を助けた話」の
なかでで取り上げています(『柳田國男全集7』)。

 それによると、昔、都に有宇(ありう)中将という人がいまし
たが、好きな狩りに明け暮れたために左遷、ひとり青馬に乗り、
鷹と狗(いぬ)とを携え奥州に下りました。そして、旅先の朝日
長者の家に逗留し、その娘を妻にしたのでした。それから6年後
に子供が生まれ、馬王(ばおう)と名づけました。その後、中将
以下は二荒(日光)の山神になっていきます。


 馬王は成長して、その侍女との間に一子ができました。その子
は、猿に似ていたため、猿麻呂(猿丸)といい、陸奥国小野に住
んだので、小野猿麻呂(猿丸)とも称しました。さてこの二荒(日
光)の山中には湖(いまの中禅寺湖)があります。この湖をめぐ
り、上野国(こうずけのくに・群馬)の赤城の神が自分の国のも
のだといいだします。二荒(日光)の神は、ここは下野国(しも
つけのくに・栃木県)のものだといい、戦いになりました。二荒
(日光)の神は大蛇に化して、赤城の神はムカデに身を変えて戦
いますが、二荒の神は次第に追い込まれ、敗色が濃くなるばかり。

 そんな時、鹿島の神(常陸・茨城県)がやってきて、日光の神に
いいました。「馬王(ばおう)の子の猿麻呂どのは、そなたの孫に
あたる人物で、弓の名手と聞く。助勢をしてもらったらよろしかろ
う」。そこで二荒の神は、白い鹿の姿に化して、猿麻呂が狩りをし
ていた奥州の熱貸山(あつかし)(※福島県の阿津賀志山289mの
ことか?)に行って、わざと猿麻呂の狩りに追われ、二荒(日光)
の山中まで誘い込んでから姿を消しました。

 猿麻呂はその白い鹿を追い、山の中に入っていきました。そこへ
姿を消した二荒の神がこんどは女神になってあらわれ、「これ、猿
丸よ。われはこの山の神である。お前は私の孫にあたる。汝をここ
へ誘ったのは、わが仇を討たせんがためである。わが仇は赤城神
である。もうじき、ムカデの姿になってここへ攻めて来る。われ
はウワバミの形をなして戦うであろう」。


 「もし汝の助けによって勝ったときには、この山をお前に与え
よう。そして好きなように狩りをするがよい」。猿麻呂はそれを聞
いて加勢することを承諾しました。次の日湖に行ってみると、草木
が茂った沼に、数え切れないほどのムカデが攻め寄せています。
これを防ごうと大小の蛇が向かっていきますが、とても防ぎきれ
ないありさまです。

 見てみると、頭に角の生えたひときわ大きなムカデが、こちら
もひときわ大きな蛇と戦っています。猿麻呂は、あのムカデこそ
赤城山の神とにらみ、弓矢をつがえて大ムカデの左目をめがけて放
ちました。矢は見事に左目に命中、大ムカデはたちまち逃げ去りま
した。猿麻呂はあとを追いかけましたが、山を超えて利根川の岸ま
で行き引き返しました。この時、戦場になった(いまの戦場ヶ原)
に血が流れて、水が赤くなったため、いまも地名を赤沼といい、負
けた上野国の山を赤木山(ママ)、ふもとの温泉を赤比曾湯と呼んで
います。また敵を討った場所だというので、「宇都宮」(討つの宮)
の地名ができたとしています。

 かくして二荒(日光)神は、猿麻呂の加勢により赤城神を打ち
払うことができました。その功によって猿麻呂は二荒(日光)山
を神から賜り、山ろくで二荒山神の申口(もうしぐち・神主)に
なり、その後小野神となり、登具示良(宇都宮市徳次良)から更
に宇都宮に移ったのでした。


 ところでこの戦いを、負けた赤城山である群馬側は知っていたで
しょうか。赤城山の東ろく、群馬県新里村板橋地区内(いまの桐
生市新里町板橋)に、「赤城の百足鳥居」に市指定重要文化財にな
っている鳥居があります。この鳥居は江戸中期、赤城山へ登る東南
麓の参道として建てられ、笠木(二重)の下層にあたる島木(しま
ぎ)には、1・3mものムカデが彫られているそうです。

 そして村民は、かつてはムカデを見つけても殺さず、「ムカデ、
ムカデ赤城へ帰れ」と唱えて、赤城山に向かって放してやったそ
うです。また館林市足次の赤城神社の社殿の各所にはムカデの彫
刻がほどかされ、ムカデが描かれた絵馬が奉納されています。こ
のように群馬側でも認識はしていたようです。

 また日光側でも、赤城山の神に負け戦だったことはあまり目立
った伝説・風習などに残っていません。これは、信仰が原因の戦
いだけに、双方とも自分の側の負けというのはいかにも具合が悪く、
できるなら忘れたがっているのだそうです。


 さらに南北朝時代中期成立の説話集『神道集』(安居院(あぐい)
作)の「日光権現事」にも、「抑(そもそも)日光権現者下野国ノ
鎮守也、往昔、赤城大明神ト后(きさき)ヲ諍(あら)ソフ、?
佐羅麼(おんのさらま)ヲ語事遥ニ遠キ昔ナリ」とあります。

 この「后」とあるのは、別の古文書でも「沼」とするものもあ
り、后は中禅寺湖のことで、『日光山縁起』などに出てくる「沼」
は、「后」の誤りらしいのです。つまりこの戦いは中禅寺湖を女性
に見たてた「妻あらそい」だとするのです。

 そして『神道集』の?佐羅麼(おんのさらま)は、日光の神を
助けた「小野猿丸(麻呂)」のことだとしています。『神道集』の
記述のように、小野猿麻呂に負けたなど「遥ニ遠キ昔ナリ」と、
なるべく忘れようとしているとこの筆者は結論づけています(『山
岳宗教史研究叢書16』「日光の心線伝説」飯田真)。


 なお、老神温泉の伝説では、「赤城山の神である大蛇」が、「日光
の男体山の神である大ムカデ」と戦って弓矢の傷を負い、その矢を
抜いて赤城山麓に突き刺したところに湯が沸きだしたとあり、神の
化身が逆になっています。そして、それが老神温泉の湯が開かれる
起源になったとしています。湯で傷を癒やした蛇の神は、男体山の
大ムカデの神を追い払うことができたことから、「追い神」が転じ
て、「老神」になったとしています。

なお、「日光連山家族説」の記述は1137-(百伝037)日光白根山に
掲載しました。


▼日光男体山【データ】
【所在地】
・栃木県日光市。JR日光駅からバス、二荒山神社前から歩いて
3時間40分で日光男体山。一等三角点(標高2484・2m)と
二荒山神社奥宮と男体山神社がある。地形図上には山名と三角点
記号とその標高、二荒山神社奥宮の文字と男体山神社の鳥居記号の
記載あり(別の位置)。三角点より南西方向直線約83mに奥宮があ

る。
【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・三角点:北緯36度45分54.47秒、東経139度29分26.96秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「男体山(日光)」or「日光北部(日光)」(2
図葉名と重なる)。


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典9・栃木県」大野雅美ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990
年(平成2)
・『山岳宗教史研究叢書1』「山岳宗教の成立と展開」和歌森太郎
編(名著出版)1975年(昭和50)
・『山岳宗教史研究叢書8』「日光山と関東の修験道」宮田登・宮
本袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書14』「修験道の美術・芸能・文学」(T)五
木重編(名著出版)1980年(昭和55)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化』五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書17』(修験道史料集1・東日本編)五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平
成17)
・『新編会津風土記』巻之十(提要之六):大日本地誌大系30『新
編会津風土記1』蘆田伊人編(雄山閣)1932年(昭和7)
・『堂社建立記』修学院僧正玄海ほか(元禄10年(1697):『日光山
堂社建立旧記』別称『日光山満願寺勝成就院堂社建立記』)デジタ
ルコレクション
・『日光山志』植田孟縉(もうしん・1757〜1843)著 江戸時代後
期(天保8・1837)出版の地誌。デジタルコレクション。
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成
9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本伝説大系4・北関東』(茨城・栃木・群馬)渡邊昭五ほか
(みずうみ書房)1986年(昭和61)
・『日本歴史地名大系9・栃木県の地名』寶月圭吾(平凡社)19
88年(昭和63)
・『柳田國男全集7』ちくま文庫(筑摩書房)1990年(平成2)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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