山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1135-(百伝35)高妻山「一、二、三、四、十阿弥陀」

【説明略文】
高妻山は戸隠連峰の最高峰、ひときわ目立って高い三角の山。一
不動、二釈迦、三文殊、四普賢、五地蔵を、六弥勒、七薬師、八観
音、九勢至、十阿弥陀、十一阿しゃく、十二大日とつづいて最奥の乙
妻山山頂には虚空蔵菩薩がまつられています。
・長野県長野市と新潟県妙高市との境。

【説明本文】は下段にあります。

▼1100号「高妻山」

【説明本文】
 高妻山(たかつまやま)は、新潟県妙高市旧妙高高原町(旧中頸
城郡妙高高原町)と長野県長野市(旧上水内郡戸隠村)との境にあ
る山。上信越高原国立公園に属しています。

 高妻山は、標高2352.8mで戸隠連峰の最高峰です。そもそも戸
隠連峰は、上信越国立公園の「西ブロック」に属し、さらにその
南半分にあります。戸隠連峰には、北端に乙妻山、高妻山があり、
さらに南へ、戸隠山のから一夜山までつづいています。

 これらの山々をいつのころからか三つの山塊に分けているそう
です。つまり、北端乙妻山から避難小屋のある一不動の鞍部まで
を「戸隠裏山」といい、一不動から蟻の戸渡りのある「八方睨み」
あたりまでを「表山」、そしてそれ以南の西岳、一夜山などを「西
山」というそうです。

 善光寺平の南西部から望むと、戸隠連山の右端にひときわ目立
って高い三角錐の山が高妻山です。それもそのはず、高妻の「高」
はピラミッド形の高峰ということ。ツマ(妻・端)とは、新潟県と
長野県との県境(端)にある山という意(『日本山岳ルーツ大辞典』)
だそうです。

 高妻山は、見る角度によって三角に見えたり、台形に見えたりし
ます。そのためいろいろな異名が生まれます。戸隠裏山、剣峰、
両界山、戸隠富士など。

 このうち、両界山の名は江戸時代後期に著された『善光寺道名
所図会』に、「戸隠御裏山(中院より七里)乙妻山・高妻山是を釼
の界いふ、又両界山とも称す、金胎部の曼陀羅を地に敷きたるを
以て名とすとそ、故に参詣の輩此登口にて草履を替える、(……中
略……)例年六月朔日より七月晦日までを御山明けとて登山をゆ
るす」とあり、そのあたりからつけられたもののようです。

 「両界」とは、真言密教の大日如来を、智徳の面から開示した「金
剛界」と、理から説いた「胎蔵界」をいう「金胎両界」なのだそう
です。難しい話に迷い込んでしまいます。

 山頂からは、西を望めば北アルプスの山々、さらに北西には雨飾
山などを望めます。

 異名である両界山の名の由来を解説してある『善光寺道名所図
会』には、こんなことも書いてありました。五地蔵から奧の峰に
は、「投の松(五葉にて葉短し)地蔵の辺りより始まりて奧へ続き、
七谷に延わたりて繁茂し、蔓の如く其の本を知ることなし」。

 つづいて「登山の輩は此(の)葉を採って帰る、難産并(なら
びに)歯の痛等に効能著しと也」とあります。昔は這い松の松葉
を摘んでお産や歯痛の薬に利用していたようです。また「お山明
け」は6月1日から7月末までに限られ登っていたそうです。

 高妻山も戸隠山と同じく江戸時代まで修験道の山でありました。
その歴史は古く、平安時代初期の嘉祥2年(849)ごろ、学問行者
(学門行者とも書く)という修行者によって開かれたようです。
修行の道は、一不動から途中五地蔵を中間地点にし、高妻山、乙妻
山への道でした。その道は、一不動、二釈迦、三文殊(もんじゅ)、
四普賢(ふげん)、そして五地蔵を経て六弥勒(みろく)、七薬師、
八観音、九勢至(せいし)とつづいています。

 その各々の場所には祠が置かれています。そして高妻山頂(十
阿弥陀)には、阿弥陀如来がまつられています。その高妻山の山
頂を過ぎて、さらに行くと十一阿?(あしゅく)、十二大日とつづ
いて、最奥の乙妻山山頂には虚空蔵(こくうぞう)菩薩がまつられ
ています。

 さて滑りやすい登山道を進み、草地を過ぎると、大きな石に、
石祠、手水鉢(ちょうずばち)があらわれます。そのうしろに「戸
隠表山」と銘のある青銅鏡が奉納されています。青銅鏡は、直径
が63センチくらいで、重さは40キロを越すと思われます。うしろ
側には奉納者・鋳物師・奉納者・揮毫(きごう)者の名前と、「文
久二年(1862)壬(みずのえ)戌七月大吉」の文字があります。
三角点はそれより数十m東に進んだ場所になります。

 山頂付近には、シラタマノキ・コケモモ・ベニバナイチヤクソ
ウなどの高山植物が見られ、また岩場には、チシマギキョウ、ヒ
メシャジン、ハクサンオミナエシ、そのほかトウヤクリンドウ、
ウラジロキンバイ、ミヤマダイコンソウなどが咲いています。戸
隠の名がついたトガクシナズナ、トガクシコゴメグサもあります。

 高妻山も戸隠山と同じく修験道の山。平安時代初期に修行者に
よって開かれたとすでに書きました。ここに『戸隠山顕光寺流記』
(とがくしさんけんこうじるき)という書物があります。これは、
室町時代に、修行僧である「有通」というお坊さんが、戸隠に関す
る数々の縁起本を整理・編集した書だそうです。それによると(『山
岳宗教史研究叢書17』)、戸隠開山の仏徒は学門行者(学問行者と
も書く)というエライ坊さんだとしています。

 この行者が、平安時代初期の嘉祥2年(849)(※翌年とする書
もある)の3月に、まず飯縄山に登ったのだそうです。しかし山
は雪に覆われ危険この上ありません。そこでお経を読み、神仏の
助けを乞いながら山頂に登ってみると、あたり一面に、おびただ
しい神霊がみなぎっていたといいます。それから学門行者は、西
窟に籠もり礼拝懺悔(ざんげ)をつづけるのでありました。

 ある日行者が、金剛杵(こんごうしょ)を投げ、未来の仏法繁
昌を祈念すると、杵は一百余町のかなたの宝窟に止まり、光を放
ったというのです。行者はその光のある洞窟を見つけ、中に入り
ました。そこで、この山の地主を出現させるべく、行法をなすと、
高声とともに聖(しょう)観音や千手観音、釈迦、地蔵などが湧
き出てきました。
 さらには深夜になると、南から異様な風が吹いてきて、九頭竜
があらわれました。そしてこんなことをいいました。「当山は破壊
すること四十余度、自分は寺務七ヶ度をつとめた最後の管理者の
澄範という者である。未来に至るまでこの山の守護を誓願してい
るのだが、汝は菩提心に住して早く大伽藍を建てよ」といいまし
た。

 つづいて、「この山は、迦葉仏の説法修行のところでもあり、ま
ことに尊い霊験のところであり、一度この山に登れば、永く悪趣
の苦を離れ、いかなる定業(じょうごう)もよくこれを転じてし
まうことができる」などといって、九頭竜はもとの住みかに帰っ
ていったということです。

 九頭竜が帰っていったとたんに、大きな岩が洞窟をふさいでし
まいました。そこで戸隠山というのだということです。また、「天
の岩戸」伝説にある話の、手力男命(たぢからおのみこと)が天岩
戸を強引に開けてその岩戸を持ち上げ、ここに隠して置いたといい
ます。そのため、ここを戸隠山いうのだともあります。その戸はい
まもあるとも伝えています(『山岳宗教史研究叢書01』戸隠の修験
道)。

また、鎌倉中期の仏教書『阿裟縛抄』 (あさばしょう・承澄僧正
撰)によれば、学門行者はそこでこの九頭一尾の鬼を岩屋に封じ込
め、大岩戸で隠し、この岩屋の前に戸隠寺を建てたとあります。
戸隠寺はのちに独鈷が岩屋の上で光を放ったということから顕光
寺(けんこうじ)と改称したということです。

 また、この九頭竜山と戸隠山に降った雨水は、逆サ川などに水
を集め、さらに鳥居川となり東へ流れ、飯縄山の東ろく地方の穀
倉地帯に恵を生み、牟礼駅付近で飯綱東高原からの八蛇川(やじ
ゃがわ)を合わせて、千曲川に入り日本海に注いでいます。

 その上流の鳥居川の戸隠牧場近くの種池にも竜神がすんでいる
とされています。その竜の尻尾はずっと北方、新潟県糸魚川市の
能生(のお)地区の海岸にまで達しているといいます。このあた
りである頸城(くびき)平野が作物の収穫が多いのは竜神の糞の
おかげだとする言いつたえもあります。(『山岳宗教史研究叢書16』
戸隠飯縄の修験伝承・佐藤貢」)

また新潟県糸魚川市の能生地区の能生白山神社の裏山は尾山とい
い、戸隠の九頭竜の尻尾に当たるそうです。この神社の「蛇の口
の水」は観光名所になっていて、新潟の名水に選ばれています。ち
なみに九頭竜の頭は「戸隠」で、腹は「新潟県妙高関山」、そして
尾はここ「新潟県糸魚川能生」に当たるのだそうです。

 戸隠連峰は、北端の乙妻・高妻、そこから南へ戸隠山、そして
さらに南へ一夜山までつづきます。その南端の一夜山の伝説です。
一夜山は長野県鬼無里村(いまは長野市鬼無里地区)にあります。
昔から風光明媚で有名な鬼無里村は、まわりを高い山で囲まれ、
簡単には攻めてこられない土地でした。そのため、時の天皇は、
都をここに移そうと計画したといいます。

 そしてすっかり町の設計が終わったころ、ここにすんでいた鬼
たちが騒ぎはじめました。「こんな所に都をつくられてはオレたち
のすみ場所がなくなってしまう。なんとか邪魔をして、計画を思
いとどまらせねばならん」。

 こうして相談がまとまり、一夜のうちに山を築き上げてしまい
ました。山ができてしまっては都をつくるにもどうしようもあり
ません。天皇もやむなく遷都は中止ということになりました。こ
んなことから一夜山または夜出山(よんでさん)の名ができまし
た。

 しかし、くやしいのは天皇方です。家来に命じて一夜山の鬼た
ちを残らず退治してしまいました。こうして鬼がいなくなったこ
の村は、鬼無里村と呼ばれました。さらにこの村の地名に、東京、
西京、府政(ふせい)などの名が残っているのは、その時天皇が
設計した形見なのだということです。

 ところでこの天皇というのは、天武天皇(第40代・飛鳥時代)
とも、桓武天皇(かんむ・第50代・奈良時代、平安初期)とも、
冷泉天皇(れいぜい・第63代・平安時代)ともいうことです。一
夜山の鬼たちを残退治した家来について、天武天皇は阿倍比羅夫
(あべのひらふ)を、桓武(かんむ)天皇は坂上田村麻呂(さか
のうえのたむらまろ)を、冷泉天皇は平継茂(これもち)を派遣
させたとしています。

 この話はあの『日本書紀』にも載っています。『日本書紀』巻二
十九。天武天皇下、十三年(684)に、「二月(きさらぎ)癸丑(み
ずのとうし)の朔丙子(ひのえねのひ)(24日)に、…。庚辰(か
のえたつのひ)(28日)に、…、都つくるべき地(ところ)を視占
(み)(ママ)しめたまふ。是の日に、三野王(みののおほきみ)・小
錦下采女臣筑羅等(せうきむげうねめのおみつくらら)を信濃に遣
して、地形(ところのありかた)を看(み)しめたまふ。是の地に
都つくらむとするか」(岩波文庫『日本書紀5』校注・坂本太郎ほ
か)とあるのがそれだとされています。

▼高妻山【データ】
【所在地】
・長野県長野市戸隠(旧上水内郡戸隠村)と新潟県妙高市旧妙高
高原町旧地区名(旧中頸城郡妙高高原町)との境。JR長野駅か
らバス・戸隠キャンプ場から歩いて5時間で高妻山。山頂に二等
三角点(2352・8m)と、石仏像や石の祠、青銅鏡などがあ
る。地形図に山名と三角点とその標高の記載あり。

【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」)
・三角点:北緯36度48分0.22秒、東経138度03分06・96秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「高妻山(高田)」

【山行】
・某年10月10日(水・晴れ)

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典15・新潟県』田中圭一ほか篇(角川書店)
1989年(平成1)
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)。
・『山岳宗教史研究叢書01・山岳宗教の成立と展開』和歌森太郎編
(名著出版)年1975年(昭和50)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『信州山岳百科3』(信濃毎日新聞社)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平
成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成
9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本伝説叢書・信濃の巻』藤沢衛彦 編著(すばる書房)1977
年(昭和52)
・『日本百名山』深田久弥(新潮社)1970年(昭和45)
・『日本歴史地名大系15・新潟県の地名』(平凡社)1986年(昭
和61)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979年(昭
和54)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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