山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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1133-(百伝33)妙高山「名香山と天狗」

【説明略文】
妙高山は昔は「越の中山」と呼ばれていたという。これが名香山
(なかやま)の字が当てられて、ミョウコウと読まれるようにな
り、妙高の字が当てられたという(異説あり)。この山にも5月ご
ろ「山の字」の雪形ができて関山方面から見られ、ふもとに人た
ちに親しまれているという。
・新潟県妙高市

1133号(百伝33妙高山「名香山と天狗」

【本文】
 長野県北部にそびえる斑尾山・妙高山・黒姫山・戸隠山・飯綱
山の5山を北信五山というそうです。なかでも山名に「妙」があ
るせいか妙高山は仏教っぽい。そのはずで妙高山の名は、仏典に
説く須弥山妙高山というのにちなんでいるという。

 この山にも5月ごろ「山の字」の雪形ができて関山方面から見
られ、ふもとに人たちに親しまれているという(『山の紋章・雪形』)。
この山は昔は「越の中山(なかやま)」と呼ばれていたという。こ
の中山が名香山(なかやま)になり、ミョウコウと読まれ、妙高
山と当て字されたとされています。

 ですが、室町時代の「梅花無尽蔵」ほかいろいろな古書の記事
にすでに「妙高」の文字が散見されることから、「中世にはすでに
妙高山と呼ばれていたことが分かる。「なかやま」であったことを
示す資料は近世以前には見あたらない。すると名香山(なかやま)
−名香山(みょうこうさん)説もあやしくなる」と、高橋千劔破
氏はその著『名山の文化史』のなかで述べています。


 山名考というのは本当に難しいものですね。中山に関しては、
平安時代、あの西行法師も「かりがねは歸(かへ)るみちにやま
よふらん越(こし)の中山(なかやま)霞へだてて」と詠んでい
ます(『山家集』さんかしゅう)。

 ところでこの山はふもとの妙高市関山の関山神社の社伝によれ
ば奈良時代の和銅元年(708)に裸行上人が妙高山頂に登り、
関山権現(明治以前の呼び名)を開基したといいます。当然なが
ら霊山として信仰され、東の米山薬師(いまの新潟県上越市柿崎
区・旧柿崎町)に対し、南の妙高山は阿弥陀如来の浄土とされて
きたといいます。

 室町初期・中期にできたといわれる作者不明の軍記物語『義経
記』(ぎけいき)には「直江の津にて笈探されし事)妙観音(めう
くはんをん)の嶽(たけ)(※妙高山のことか)より下(おろ)し
たる嵐(あらし)に帆(ほ)引掛(ひきか)けて、米(よな)山
(よねやま993m)を過(す)ぎてうんぬん」と出てきます。

 この妙観音の嶽というのが妙高山のことだとされ、観音信仰の
山でもあったといいます。源義経や弁慶は、加賀(石川県南部)
の「安宅の関」を何とか脱出(『義経記』p336、注15。には具体的
記述なし)、さらには新潟県直江津でも怪しまれながら(『義経紀』
p343・直江の津にて笈探されし事)の奥州へ落ちのる時の妙高山
はどんな風に見えたのでしょう。


 しかし、天狗の研究者の知切光歳は「妙高の奥ノ院は観音堂で
はなく阿弥陀堂で、その本尊の如来像は、義経に討ち亡ぼされた
木曽義仲所持の像であったという。義経奥州落ちの時には、すで
に阿弥陀堂があったと見てよく、妙観音山は別の山ではないか」
とも述べています(『天狗列伝・東日本編』)。

 それはともかく、かつて山頂には阿弥陀堂がまつられていて、
中に阿弥陀、勢至(せいし)、観音の金の仏像が安置してあったと
いいます。この阿弥陀三尊は木曽義仲が山頂に納めたということ
です。木曽義仲は1182年(寿永元)、信濃の国横田川原(長野
市)で、越後の城助茂(じょうすけもち)を破りました。

 伝説によれば、その後義仲は越後に入り関山にとどまり、妙高
山に登り護念仏の阿弥陀三尊を納めたというのです。このことにつ
いては、永禄5年(1562)五位野与左衛門が、妙高登山先達職
正当性を主張したと思われる五位野氏縁起写にも記されているそう
です。

 「勝重云ク、我ハ是レ前来向フ(レ)汝ニ五位野勝重ト名乗リ、
遂ニ追ヘ(二)払山神ヲ(一)関門ヲ打破テ、義仲共ニ妙高山ノ登リ(二)
頂上(一)拝スル(二)阿弥陀如来ノ像ヲ(一)者也、故ニ五位野勝重
妙高山為(二)リ先達(一)…。(中略)…。其後勝重告ク(二)諸人(一)
言ク、此ノ山登山ノ輩ハ居シ(二)新屋(一)ニ付(二)新衣(一)ヲ、
以テ(二)清浄水(一)一日に七度浴クシ(二)垢穢之身(一)、用ヘ(二)
願望(一)無(レ)疑者也、…。(中略)…。故ニ五位野流於テ(二)
以来妙高山(一)ニ可シ(二)大先達タル(一)、仍而縁起如件、敬白」。


 これら阿弥陀三尊は、いまはふもとの新潟県妙高市旧妙高村関
山の関山神社に移されているといいます。やがて中世以降、修験
道の行場になっていきます。当時、関山神社は「関山三社権現」
といい、妙高山雲上寺宝蔵院というお寺の支配下になっていまし
た。

 しかしどの山でもそうであるように明治の廃仏毀釈(はいぶつ
きしゃく)の嵐は仏閣を破壊し焼き払う暴挙のかぎり。そのなか
存続のために神社の名に改めたといいます。いまでも登山道には
六道地蔵、天狗宝窟観音、大杉姥堂、役ノ行者などのお堂が残っ
ています。

 この山にも大天狗、それも名前がついているほどの大大天狗・
妙高山足立坊(あしだて)の伝承が残っています。足立坊は木曽
義仲の念持仏(私的に礼拝する仏像)の阿弥陀堂を守る天狗で、
ふだんは従者を引き連れて妙高山頂東直下の天狗平あたりにすみ
止まっているらしいとのこと。

 足立坊は「天狗経」という、修験の行者が各地の霊山の天狗を
招いて祈念を込める時に唱えるお経の中の「四十八狗」の中にも
数えられる古顔(ふるがお)の天狗。妙高山一帯には天狗に関係の
ある地名や建物も見受けられます。この辺りはだれが決めたか「日
本八天狗」(日本全国の天狗の中でも特に力のある8人)の3番目
に当たる、三郎天狗のいる飯縄山や戸隠山などが連なっています。


 そのため、足立坊は飯縄系天狗に入っているのか、鼻の高くな
い荼吉尼天(だきにてん)の姿であらわされています。研究者に
よると、足立坊は天狗になる前は、山神守護の地主神の化身では
ないかといっています(『図聚天狗列伝』)。妙高山は、戸隠山に伝
わる九頭竜伝説にから竜の胴にたとえられています。戸隠山が竜
の頭で、妙高山は胴は、火打山(能生白山)は尾なのだそうです。

 9月初め、妙高山北西方の黒沢池ヒュッテ前にテントを張りま
した。テントのまわりは色づきはじめたナナカマドに囲まれた気
持ちのいい台地です。テントを張りっぱなしにしたまま妙高山を
往復します。大倉乗越から長助池のある湿地へ下り、燕新道の道
を分けて妙高山への急坂を登りはじめます。このあたりは雪の吹
きだまりになっていて7月半ばまではアイゼン、ピッケルは必携
とのこと。

 展望のないダケカンバの樹林帯をただ登るだけ。途中キイチゴ
(ノウゴウイチゴ)の大きな実が赤く熟して食べられるのが気を
和ませてくれます。山頂に出る手前に大きな洞があり中に祠が建
っています。洞の入口上に白ペンキで文字が書いてあります。「一
九六四.七.二六 総評全国一般篠宮支部」などとあり、どうや
ら落書きのようです。

 やがて妙高山北峰に出ました。北峰山頂は小平地になっていて
1等三角点(三角点名妙高山2445.9m)があり、ノートの入
った木製の箱が置いてあります。あたりはお花畑になっていて、
トリカブト(ミョウコウトリカブト)、アザミなどなどが咲き乱れ
ています。


 さらに南峰へは3分ほど。大岩の下にレリーフ石碑があり「南
無阿弥陀仏 恵信尼公小黒女房御碑 亡き恵信尼公の弔い藤四郎
は彼女(小黒 ?)が毎日仰いでいた妙高山へ小黒の女房が山を見た
いと言ったので位牌を持って向かった、文永9年秋、云々」との
文字が見えます。

 さらに先に行くと、「妙高山大神上越中頸覚満?講」と書かれた
鉄柱があります。妙高の「妙」が欠けています。その後ろに将軍
地蔵の像があり「本山ニ鎮座マシマス将軍地蔵ハ西暦千九百四十
二年(1942年・昭和17)大東亜戦争時代国民一致団結必勝祈
願天下泰平世界平和五穀豊穣ノ神ト祀ル」とあり、大東亜戦争戦
勝祈願に建てられたものとの石碑が建っています。地元越後の上
杉謙信公が模せられているとのこと。

 『日本石仏事典』という書物によれば、将軍地蔵とは戦勝をも
たらす神とのこと。なるほど納得です。しかし、とうとう関山神
社の奥社は見あたりませんでした。(あるホームページには妙高大
神が関山神社奥社だとありましたが?)。なお、九頭竜伝説により、
戸隠山は竜の頭、妙高山は胴は、火打山(能生白山)は尾にたと
えられています。

 妙高山の本を読んでいるとよく「なんぼいさん」とう文字が出
てきます。なんぼいさん(南方讃)とは、妙高山山開きの行事を
いうのだそうです。この行事は元亀元年(1570)、上杉謙信が
越中出陣の際、五穀豊穣所領安全を祈願して倶利伽羅竜の旗を持
ち、妙高山に登ったと伝えられています。

 それを吉例として妙高山山開きの7月23日には山麓の各村がそ
れぞれ倶利加羅不動尊の小印の旗を持って登山するのだという。
なんぼいさんの語源は「南無梵天讃」、「南無阿弥陀仏讃」などか
らきたとする説があるそうです。


▼妙高山【データ】
【所在地】
・新潟県妙高市旧妙高村各地区名(旧中頸城郡妙高村)と新潟県妙
高市旧妙高高原町各地区名(旧中頸城郡妙高高原町)との境。信越
本線妙高高原駅の西9キロ。JR信越本線妙高高原駅からバスで笹
ヶ峰、さらに歩いて6時間で妙高山(北峰と南峰がある)。北峰に
一等三角点(2445.90 m)、南峰に写真測量による標高点(2
454m・標石はない)がある。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・北峰三角点:北緯36度53分33.78秒、東経138度06分47.57秒
・南峰標高点:北緯36度53分28.52秒、東経138度06分08.47秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「妙高山(高田)」

【山行】
・某年9月5日(金・晴れ曇り)

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典15・新潟県』田中圭一ほか篇(角川書店)
1989年(平成1)
・『義経記』:(日本古典文学大系37『義経記』岡見政雄校注(岩波
書店)1959年(昭和34)
・『山岳宗教史研究叢書17』(修験道史料集T)五木重編(名著出
版)1983年(昭和58)
・『山家集(さんかしゅう)』西行:日本古典文学大系『山家集・金
槐和歌集』風巻景次郎ほか・校注(岩波書店)1961年(昭和36)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平
成17)
・『図聚 天狗列伝・東日本編』知切光歳著(三樹書房)1977
年(昭和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本石仏事典』庚申懇話会(雄山閣)1979年(昭和54)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平
成4)
・『日本歴史地名大系15・新潟の地名』(平凡社)1986年(昭和
61)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成1
9)
・「妙高山信仰の変遷と修験行事」大場厚順:『山岳宗教史研究叢書
9』(名著出版)1979年(昭和54)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和5
6)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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