山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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1131-(百伝31)雨飾山「蘇鉄ヶ岩屋の伝説」

【説明略文】
妙高連山に雨飾山という山があります。「あまかざりやま」とは珍
しい名前です。雨や天を祀る意とか、双耳峰なので両飾山といった
のが、後に両が雨になったという。不思議なのは「蘇鉄ヶ岩屋」の
伝説。文政5年の古文書には出てくるのですがどこにあるのか不明
なのです。山頂にある石仏の阿弥陀さまや天狗の伝説もあります。
・新潟県糸魚川市と長野県小谷村との境。

1131-(百伝31)雨飾山「蘇鉄ヶ岩屋の伝説」

【本文】
 長野県北部と新潟県との県境に雨飾山(あまかざりやま)という
山があります。「あまかざりやま」とは珍しい名前です。この山は
天飾山とか、天粧山、また雨錺山、雨節山、両飾山、両粧山、荒菅
山などなどいろいろな別名があります。

 それは雨や天を祀る山の意とか、アマ火山、山頂が双耳峰なので
「両」の字のつくのだとかいわれているようです。そして後に「両」
が「雨」になったといいます。また信州側山麓では「霧のたんと晴
れない山で、いつも雨をかぶっているから雨飾りの名がある」とい
う人もいるそうです。

 登山口は長野県側小谷温泉と大網登山口、新潟県側の雨飾温泉。
小谷温泉は上杉・武田の合戦の時に落ち武者が見つけた温泉とい
う。400年も昔の話ですからすごい。


 山頂は二つに分かれ地元ではネコ耳と呼び、東南、長野県側の斜
面は大岩壁になっていて「ふとんびし」といっているそうです。山
頂直下の笹平は、平らな地形でクマザサ原になっていて高山植物の
お花畑。山頂に立てば日本海から北アルプスなどが一望できます。

 双耳峰の主峰である南峰には、かつて地蔵菩薩、薬師如来が安置
されていたそうですがいまは三角点と山神の石柱が建っています。
北峰には、石仏が4体とつぶれた石の祠が新潟県向きにならんで建
っています。

 石仏は阿弥陀三尊、大日如来、薬師如来、不動明王で、ひでりの
時など山麓の農民が、雨乞いの祈願を行うと慈雨に恵まれたと参考
書にあります。しかし、他の説では「雨飾り」の名があるように、
このあたりは多雨多雪地帯、山頂にある石仏や祠が雨乞いのためも
のであるとするのは無理があり、むしろ太陽の光を望んだものでは
ないだろうかとの意見もあるようです。


 石仏も風化されて文字は読めないのですが、祠のとなりは不動明
王らしく、そのとなりは「○○山青○渡寺」と読める所が奉納した
熊野修験の木札があるので大日如来らしい。またその他、丸い石に
三尊の仏像が彫られた石像、単体像とならんでおり、順序が換わっ
ているようです。

 この石仏たちは、糸魚川地方の羅漢上人という坊さんが刻み、山
へ運んだものだといいます。ただ、はじめ雨飾山に三尊の阿弥陀さ
まをまつったのはやはり糸魚川の法眼という坊さんで、佐五左衛門
という人が石像を担ぎ上げてまつりましたが、信州小谷方面から登
ってきた木地屋が谷底へ放り投げてしまったという。

 そこで再び彫り直し担ぎ上げたということです。この阿弥陀如来
については、中土村(いまの長野県小谷村)の猟師の塩六の「光明
石の伝説」や、同村中谷の阿弥陀堂の伝説も残っています。


 この山は信越国境(信濃・越後)にあるため、元禄13(1700)
年から3ヶ年間、越後側にある山口村と、信濃側の小谷の村々との
間で国境争論がおこったという。訴えたのは越後側の山口村。幕府
の評定所が厳重に調査、元禄15(1702)年11月、争論裁許状が交
付されました。

 それには、雨飾山二ノ肩から信越国境の目印とする地点が書かれ、
裏面に国境絵図までが描かれていたそうです。このあたりも風が強
く、信州側の戸土、押廻、中又、横川の各地区では、毎年5月5日
に全戸が農作業を休み「風祭り」の登山をする習慣が、また越後側
の梶山でも風祭りの登山行事あったそうです。

 江戸後期の文政5(1822)年になると、長野県小谷村中土で雨飾
山頂に十三仏を担ぎ上げたという話もあり、その古文書のひとつ「あ
まかざり拾三仏の縁起」も発見されているという。十三仏を担ぎ上
げたその時、すでにいまの祠があったというから相当古い祠である
こと以外、何をまつってあるかなど詳しくは不明です。


 先の古文書のもうひとつに「雨錺(かざり)山蘇鉄ガ岩洞の縁起」
というのも見つかっています。この「蘇鉄が岩屋」という洞窟は奈
良時代、行基菩薩がこもって修行したところと伝えています。そこ
で中谷の人たちは洞窟を探しに行ったというのです。

 そして難行苦難の末、神仏に祈ったところ天から明星のご来光が
あり岩屋を隠していた岩が崩れて魔物が追い払われ、岩屋があらわ
れたという。一同、行基菩薩が残した石仏を何度も拝み、わが家目
指したとあります。

 しかしその場所というのは、地元の人も雨飾山の南面にはサイガ
岩屋という所や、雨飾山の岩屋という所もあるそうですがどこをい
うのか詳細は不明なのだそうです。


 最後に雨飾山には天狗伝説もあります。その昔、雨飾山に天狗が
住んでいました。ある日頂上から小谷村大網の里を見ていると、ウ
ワバミが住みかの洞窟からはいだしてウロウロしています。きっと
村人に悪さをしようとしているに違いない。時々自分の領分をも荒
らしに来るにっくき奴です。

 とたんに天狗は雨飾山頂から大網の原をめがけて飛び降りまし
た。「ドスーン」。ウワバミはペッチャンコになって死んでしまいま
した。それからは大網の村人は安心して暮らせるようになったとい
うことです。いまでも天狗が飛び降りた足跡が、旧北小谷小学校大
網分校(1992年(平成4)廃校)にあり、水溜まりは目薬なって
いたという。

 また、ウワバミの死骸を投げ捨てたところを「ヤキバ」といい、
ウワバミの住みかだった洞窟から水が流れているのが戸沢だという
ことです(「大網の民話」)。


 ある年の9月はじめ、まだ使える「青春18切符」を片手に、南
小谷駅に降り立ちました。この時期バスは、小谷温泉から少し行っ
た雨飾荘、露天風呂下の駐車場が終点。まだ雨飾高原キャンプ場ま
では1時間以上歩きます。しかしバス停すぐ上の林の中に露天風呂
を見つけ楽しみが増えました。

 翌日テント場を朝5時半前に出発。荒菅沢を渡り笹平を過ぎ、急
登すると山頂に。眼下に日本海が広がります。双耳峰になっていて、
なるほど北峰には石仏がずらり。一体一体写真を撮り、高さと幅を
スケールで計ります。祠の裏に「姫神」の石棒がありました。


 本峰である南峰には三角点と、山神の石柱と祠がひとつ。かつて
地蔵菩薩、薬師如来が安置されていたそうですが、これはそのどち
らかにちなむものでしょうか。後になり先になり、登ってきた5人
のパーティーが南峰の三角点わきで大休憩、コーヒーを沸かしてお
しゃべりをしています。わたしも北峰でゆっくり日本海をながめな
がら、昼食をとりました。

 石仏も調べた、祠もスケッチした。この石仏たちを担ぎ上げた人
たち、またいまはどこにあるか分からなくなっている、行基菩薩が
修行したという「蘇鉄が岩屋」の場所などに思いを馳せます。きの
うは、午後3時ごろ夕立でひとしきり降られました。きょうもくる
に違いない。そろそろ退散と、急坂を下り笹原の中の道をキャンプ
場を目指したのでありました。収穫、収穫。


▼雨飾山【データ】
【所在地】
・新潟県糸魚川市と長野県北安曇郡小谷村との境。JR大糸線南
小谷駅から小谷村営バス、雨飾高原バス停留所下車、歩いて1時間2
0分で雨飾り高原キャンプ場。さらに歩いて4時間30分で雨飾山。
南峰(本峰)と10数m隔てて北峰がある。北峰に4体の石仏(阿
弥陀三尊、大日如来、薬師如来、不動明王)と祠がある。南峰に
二等三角点(1693.2m)と、山の神の石碑と祠がある。

【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・三角点:北緯36度54分10.8秒、東経137度57分41.2秒

【地図】
・2万5千分1地形図名:雨飾山

【山行】
・某年9月4日(水曜日・晴れのち雨)

▼【参考文献】
・『雨飾山と海谷山塊』−われらが希望の山々(蟹江健一・渡辺義
一郎)(恒文社)2008年(平成20)
・『角川日本地名大辞典15・新潟県』田中圭一ほか篇(角川書店)
1989年(平成1)
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『古事記』:新潮日本古典集成・27『古事記』校注・西宮一民(新
潮社版)2005年(平成17)
・『信州山岳百科3』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本伝説大系3・南奥羽・越後』(山形・福島・新潟)大迫徳行
ほか(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979年(昭和54)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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