山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

……………………………………

▼1125号(百伝25)魚沼駒ヶ岳(越後駒)「山頂の神像と尾瀬三郎」

【説明略文】
越後駒ヶ岳は魚沼駒ヶ岳とも呼ばれ、八海山、中ノ岳など越後三山
の盟主。ここの山名もま馬の雪形によるもの。種をまきなど農作業
の時期を知らせる白馬や老婆の顔、ナスの形もあるそうです。山頂
には大山祇命など石碑や、豊斟淳(とよくむぬの)尊の像がありま
す。
・新潟県魚沼市と南魚沼市との境。

……………………………………

▼1125号(百伝25)魚沼駒ヶ岳(越後駒)「山頂の神像と尾瀬三郎」

【説明本文】
 新潟県魚沼(うおぬま)地方にある越後三山は、魚沼三山とも呼
ばれ、古くからの信仰の山。三山とは八海山(はっかいさん・標高
1778m)、中ノ岳(なかのだけ・標高2085.2m)、それに越後駒ヶ
岳とも魚沼駒ヶ岳とも呼ばれる駒ヶ岳(標高2002.7m)の3座。

 越後駒ヶ岳はこの三山の盟主と呼ばれるような、がっしりとした
男っぽい山と書く人もいます。山頂の東方、標高約1880mに駒ノ
小屋があります。昭和41(1966)年から遭難防止のために、山岳
気象観測が行われ、登山シーズンには、「駒ヶ岳の気象」がテレビ
放映されたこともあるそうです。

 地元魚沼地方の人たちは、この三山のうち、八海山を前岳(まえ
んたけ)、中ノ岳を中岳(なかんたけ)、駒ヶ岳を下岳(しもんたけ)
と呼び、総称して三岳(さんたけ)とも呼んでいるそうです。

 信仰の山として栄えたこの山は、いまもいくつかの講がつづいて
いて、夏山のシーズン中には、多くの信仰登山の姿が見られます。
また「三山がけ」と呼ばれる八海山、中ノ岳、駒ヶ岳の三山縦走を
早駆けでめぐる行者もたくさんいます。ここの駒ヶ岳の山名もまた、
馬の雪形によるものらしい。

 江戸時代後期、1809(文化6)年編纂の地誌『新編会津風土記』
(巻之百六)に、駒ヶ岳について、「山勢峻(けわ)しく半腹より
上は人跡通じず、寒風殊に烈しく熊猿の類猶棲むこと稀なり、只獵
(猟)人冬日雪を踏て攀(よじ)ることを得ると云(いう)、春夏
の際残雪駒の形をなす、故(ゆえに)名(なづ)けしとぞ」とあり
なす。山名は「残雪駒の形をなす」の一文に由来しています。

 山頂には一等三角点があり、大山祇命(おおやまずみのみこと)
など石碑や、豊斟淳尊(とよくむみぬのみこと)(共に『日本書紀』
での表記)の像があります。『古事記』では、豊雲野神(とよぐも
のかみ)と表記されています。

 これは、『日本書紀』(巻第一神代上)に出てくる、天地開闢(て
んちかいびゃく)の時、国常立尊(くにのとこたちのみこと)に次
いで高天原(たかまがはら)に出現したという神。「天地初めて判
(わか)るる時に、一物(ひとつのもの)虚中(そらなか)に在(あ)
り、状貌(かたち)言ひ難し。其の中に自ずからに化生(なりい)
ずる神有(いま)す。国常立(くにとこたち)の尊と号(む)す。
……次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)…。

 …次に豊国主尊(とよくにぬしのみこと)。亦(また)は豊組野
尊(とよくむ・(とよくみ)ののみこと)と曰(まお)す。亦は豊
香節野尊(とよかぶののみこと)と曰す。亦は浮経野豊買尊(うか
ぶののとよかふのみこと)と曰す。亦は豊国野尊(とよくにののみ
こと)と曰す。亦は豊齧野尊(とよかぶののみこと)と曰す。亦は
葉木国野尊(はこくにののみこと)と曰す。亦は見野尊(みののみ
こと)と曰す」と、しつこいほど「または、または」と名前のある
神さまです。どうして越後駒ヶ岳のような所に像があるのか分かり
ませんが……。

 山頂の北側緩斜面にはハクサンコザクラ、ヒメイワカガミ、ニッ
コウキスゲなどの高山植物が自生し、お花畑つくって登山者をなご
ませています。越後駒ヶ岳の駒の雪形も、いろいろな農作業はじめ
る目安になっていました。

 山ろくの農村集落では、残雪が溶けて変わっていく様子をみて、
農作業をはじめる時期を知りました。春には、谷に残る雪が、白馬
や老婆の顔に変化する形から、稲の種まき、苗代(なわしろ)をつ
くる時期を判断しました。

 北西麓の小出町からは、八十八夜ころ、駒の雪形が、山頂直下に
あらわれてくるいいます。またこのほか、ナスの形の雪形もあるそ
うです。秋、雪が降って積もりはじめるとまた、雪形ができます。
三山のひとつ、中岳の冠雪の進み具合から秋の農作業、稲刈り、芋
掘りや、雪囲いをはじめました。

 魚沼(越後)駒ヶ岳東側には、銀鉱採掘で栄えた銀山平がありま
す。最盛期の江戸元禄時代には、人口が1万4000人あまりにもな
ったとか。小出駅からのバス道、枝折峠(しおりとうげ)頂上バス
停から40分ほど登ると、銀の道と交差する地点に明神堂がありま
す。駒ヶ岳山頂にある大山津見神(大山祇命)の娘・木花之佐久夜
毘売(このはなさくやびめ・木花開耶姫)をまつった枝折大明神の
お堂です。

 交差する銀の道は、平安時代末期の長寛元年(1163)に、平清盛
の策謀により京を追われた尾瀬三郎房利という人が、尾瀬へ向かっ
た道だと伝えられています。銀山が発見されてからは、銀を運ぶ道
として、最盛期には1万数千人が往き来したという所です。

 尾瀬三郎という人は、尾瀬三郎藤原房利(ふじわらのふさとし)
という平安時代末期の公家(くげ)。こともあろうに、時の天皇、
第78代二条天皇の美しい后(きさき)に、深い思いを寄せるよう
になりました。そんな時、病弱な天皇が22歳の若さで他界してし
まったのです。残された美しく、また才色すぐれた妃は、いつしか
尾瀬三郎と特別な間柄となりました。

 さて、絵を描くことが好きな三郎が、ある時、妃の絵を描いてい
ると、誤って筆先から絵の具が一滴したたりました。それを見た平
清盛が、「妃の胸にホクロがあることまで知っていたとは!」と騒
ぎたてました。清盛も妃に思いを寄せていたのです。このことを言
いがかりに、清盛は尾瀬三郎を越後に配流、都から追い払ってしま
いました。

 三郎は、数名の従者とともに、はるばる「越の国」にたどりつき
湯ノ谷の山に分け入りましたが、あまりの難路に立ち往生。道に迷
い迷い、あたりの木の枝を折りながら進みました。枝折峠の名はこ
こからきているといいます。峠を越え歩くこと数日、燧岳の山麓に
大きな沼を発見、尾瀬三郎の名にちなんで、この沼を尾瀬沼、とな
りに広がる大草原を尾瀬ヶ原といいました。

 尾瀬沼に着いた尾瀬三郎藤原房利一行は、付近の岩窟を居と定め、
藤原家再興を計画、志を同じくするものと密かに通じて、金や銀・
武具など、戦の準備に努めます。それらは関東8ヶ国にまでそれぞ
れ埋蔵し、同時に尾瀬周辺に、要害の砦などを築きました。しかし
三郎は藤原家再興の志半ばで力つき、尾瀬氏は滅亡してしまったと
いうことです。



▼越後駒ヶ岳(魚沼駒ヶ岳)【データ】
【所在地】
・新潟県魚沼市と南魚沼市との境。JR上越線五日町駅の東15キ
ロ。JR上越線小出駅からバス、枝折(しおり)峠頂上停留所下
車、さらに歩いて5時間15分で越後駒ヶ岳。一等三角点(一等三
角点2002.7m)ある。

【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・三角点:北緯37度7分25.04秒、東経139度4分30.83秒

【地図】
・2万5千分1地形図名:駒ヶ岳

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典15・新潟県』田中圭一ほか篇(角川書店)
1989年(平成1)
・『神々の系図』川口謙二(東京美術)1981年(昭和56)
・『古事記』712年(和銅5・奈良時代)太安麻呂:新潮日本古典
集成27『古事記』校注・西宮一民(新潮社版)2005年(平成17)
・『新編会津風土記』:大日本地誌大系第34『新会津風土記5』(雄
山閣)1933年(昭和8)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀』(巻第一神代上):岩波文庫『日本書紀(一)』校注・
坂本太郎ほか(岩波書店)1995年(平成7)
・『日本の山1000』(山と渓谷社)1992年(平成4)
・『日本歴史地名大系15・新潟県の地名』(平凡社)1986年(昭和61)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56

…………………………………………………

【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
……………………………………
 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

山旅通信【ひとり画展】題名一覧へ戻る
………………………………………………………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」トップページ
【戻る】