山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1124号(百伝24)那須岳「那須七湯と与一と殺生石」

【説明略文】
那須温泉の鹿の湯の由来を伝えているのが温泉神社。その近くに
ある殺生石は、妖狐「玉藻の前」の霊が石になり、毒ガスを発生
し祟ったという。ある日、源翁和尚が通りかかり呪文を唱え、石
を粉々に割って毒ガスを押さえたということです。
・栃木県那須町。

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▼1124号(百伝24)那須岳「那須七湯と与一と殺生石」

【説明本文】
 栃木県と福島県にまたがる那須連山は、三本槍ヶ岳、朝日岳、
茶臼岳、南月山、黒尾谷岳を合わせて那須五岳というそうです。
単に那須岳といった場合は、その主峰である茶臼岳を指すことも
多いようです。異名として「不尽山岳」、「雪不尽山」などといっ
ています。主峰の茶臼岳には、山頂近くまでロープウェーが通じ
ており、スキーや観光のお客を運びます。

 中央の火口丘を一周すると、その一角に那須神社小祠が建つ頂
上があります。その南よりに直径100m、深さ60mの旧火口があり
ます。さらに、その西側の大きな2つの爆裂火口は、「無間ノ地獄」
と呼ばれ、いまも白煙を吹き上げています。

 この山も噴火の山で、室町期の応永15(1408)年に大噴火。「野
州那須山焼崩、同日ニ空ヨリ硫黄降、上州那珂川硫黄ニ成事、五六
年也」と、古書に記されるほどの被害が出ました。その後たびたび
噴火をくり返し、明治14(1881)年の噴火では降灰は白河地方ま
で達し、那須川では多数の魚介類が死んでいるそうです。

  ここも古くから信仰の山。修験道の山としても知られ、信徒は、
茶臼岳南東の「お行の湯」と呼ばれる高雄湯で垢離(こり)をとり、
行人道を通って参詣登山をしたという。那須の山岳信仰も、役ノ行
者(えんのぎょうじゃ)の登山(大宝元・701年)からはじまると
されています。

 その100年後に空海が登り、高湯岳、月山、毘沙門岳の「三山権
現」を勧請、那須信仰登山の基礎としました。ここに出てくる高湯
山は、いまは地名だけが残る御宝前温泉にあたり、月山は茶臼岳、
毘沙門岳は朝日岳にあたり、後世には「三山駆け」も行われたと、
『関東百山』(那須朝日岳の項)で横山厚夫氏は書いておられます。
そのころは、江戸期文化文政が最盛期で、三斗小屋は「那須詣で」
の人たちの宿場として栄えたのはいうまでもありません。

 那須といえば温泉が有名です。このあたりの温泉は「那須七湯」
と呼ばれ、江戸時代にはすでに湯治客で賑わっていたという。「那
須七湯」とは湯本(鹿の湯)、大丸(おおまる)、北(きた)、弁天、
高雄(たかお)、板室(いたむろ)、板室(いたむろ)、三斗小屋(さ
んどごや)の7ヶ所をいうそうです。

 「那須七湯」は、すでに奈良時代には都にも知られていて、天
平10年(738)に従四位下小野牛養(おののうしかい)とその従者
13人が、病気療養のため「那須湯」に向かったので食料が支給さ
れたと、正倉院文書の「駿河国正税帳」にあるそうです。

 この「七湯」と呼ばれる温泉のうち、一番古いのが湯本の「鹿
の湯」だそうで、「那須湯」と古文献に出てるのは、ここの湯のこ
と。その湯本の由来を伝えているのが温泉神社です。「ゆぜん神社」
ともいい、古くは「ゆの神社」といったそうです。

 鹿の湯の発見は、舒明(じょめい)天皇の時代(629〜641)と
いうから飛鳥時代。那須山ろくの茗荷沢(みょうがさわ)という
ところの狩野三郎(猟師とも郡司ともいう)は、ある日一頭の白
い大鹿を弓で射ました。大鹿は矢きずを負って那須の山中に逃げ
込みました。

 狩野三郎が、あとを追って山に入って行くと、突然白衣を着た
老人があらわれました。その人に案内されてついていくと、温泉
に入っている白鹿を見つけました。そこで狩野三郎は温泉を開い
て、老人を「ゆぜん様」として、まつるお宮を建てたといいます
(「那須記」)。このあたりにはたくさん温泉神社がありますが、総
社はここ鹿の湯の温泉神社だそうです。

 那須というと『平家物語』の「扇の的」に出てくる、那須与一
(なすのよいち)を連想します。那須与一宗高(むねたか)は、
源義経の命令で、平家の小舟の扇の的を見事に矢で射落としたと
される武将。

 与一はこのとき、「南無八幡大菩薩、別してはわが国の明神、日
光権現宇都宮、那須の温泉(ゆぜん)大明神、願わくばあの扇の
真中射させたまへ」と、ふるさとの神に祈ったといいます。それ
からは、那須の温泉大明神はすっかり有名になったといいます。

 いま温泉神社の参道入り口にある鳥居は、那須与一が奉納した
ものだとか。また境内の宝物館には、与一が使っていた征矢(そ
や)や鏑矢(かぶらや)、檜扇(ひおうぎ)などが展示されていま
す。しかし実は、与一の生没年は不明で、下野の豪族那須資隆の
十一子とされていますが、どうもイマイチあやふやなのだとか。
しかも本当にいたか疑わしいという人も出てくる始末。

 与一ゆかりの那須氏は、温泉神社を管理していましたが、その
後黒羽藩大関氏という大名が、温泉の湯本や温泉神社を統治。近
世になると観音寺が、温泉神社の別当(寺務を治める)をつとめ
るようになったといいます。神主は湯本の温泉宿が輪番でこれに
当たったということです。

 温泉神社から約1キロくらい下った新那須温泉には、日蓮上人
伝説がある喰初(くいぞめ)寺というお寺があります。ここには
鎌倉時代中期の文永2年(1265)に、那須にきたとされる日蓮ゆ
かりの「経題石」というがあります。これはその時日蓮が石に、「南
無妙法蓮華經」と墨書きしたものに、のちにこの地にやってきた
日朗上人(日蓮の弟子)が、その字を彫り刻んだといわれる石と
伝えています。ところが、これものちにこの寺が日蓮宗に変わっ
てから、付会されたらしいというから困ります。

 また喰初寺の起源について、こんな話があります。江戸時代の
文政年間(1818〜30)、いまの大田原市の黒羽藩主大関増業(ます
なり)の息女が、原因不明の病気にかかって、食事がのどを通ら
なくなりました。どうしたものかと、那須の温泉に入り療養した
ところ、食欲が出はじめ病気も全快。これは有り難いというわけ
で、お礼にここにお堂を建てたのがはじまりといいます。

 その温泉神社近くに、那須温泉のシンボルになっている殺生石
があります。この石は毒ガスを発生するといい、玉藻の前(たま
ものまえ)という妖狐譚が伝わっています。玉藻の前は、天竺か
ら那須に移り住んだ800歳ともいう年のくった金毛九尾の狐の化身
だといいます。

 鎌倉時代初期の『玉藻前物語』という本に、「主上近衛院の御宇
<ぎょう・御代(みよ)>久寿(きゅうじゅ)元年(1154・平安時
代)□□(欠字・甲戌?)春の比(ころ)□(欠字・鳥?)羽院
の仙洞(せんとう)に齢廿計(はたちばかり)の化女一人出来(い
でき)たりその容貌をいわは翡翠のかむさしうるわしく嬋娟(せ
んけん)のよそおゐこまやかなり…人にすくれ世法(せほう)仏
法(ぶっぽう)共知らずと云事なし…しかのみならす才覚依りて
至尊寵愛(しそんてうあい)のあまりに玉座近くにめされて…う
んぬん」とあります。

 つまり、鳥羽院の御所に、どこのものとも知れない「化女」と
いう美女があらわれた。「化女」は、名前を「玉藻の前」と改め、
たちまち鳥羽院の寵愛を一身に集めるようになったのです。ある
とき、宮中で宴が催され、管や弦が最高に盛り上がったとき、殿
閣がゆれて燭火が消えました。すると天皇の座の下にいた寵姫の
玉藻の前の身から光が出て、殿階を照らしました。そしてそれか
ら天皇は病気になったという。

 「これは変だ。何か妖怪がいるのでは」と、阿部泰成という陰
陽師が占った結果、玉藻のせいと分かりました。ばれた玉藻はた
ちまち狐に変身し、東の方に向かって逃げ出しました。朝廷は三
浦介(みうらのすけ)義明、千葉介常胤、上総権介(ごんのすけ)
広常らに命じて狐を射殺させたといいます。(このころはまだ、殺
された狐の魂がこり固まって石になったという話はありません)。
この話は、室町中期になると、国語辞書『下学集』あたりに載り
はじめるようです。

 そして江戸時代に入ると、殺生石の話がいろいろな書物に登場す
るようになりました。江戸中期の本『和漢三才図会』(寺島良安著)
には、「朝廷は三浦介義明、千葉介常胤、上総権介広常に詔して、
その狐を下野州(しもつけのくに)那須野で狩らせた。義明は狐
を射殺した。それよりのち百年余、狐の霊は石となったのである。
俗に殺生石(せっしょうせき)という。その石に触れると、鳥獣
人民はみな死ぬ」、などと書かれるようになります。

 鎌倉時代中期に、この話を聞いた天皇から依頼されて、源翁禅
師という僧が、石のそばに行き、「法法塵塵端的低、本来の面目い
まだ蔵(かく)れず、現成公案大難事、異類中行度量に任す」と、
偈(げ)を唱えるや、?杖(しゅじょう)を挙げて激しく一下ろ
しすると石はたちまち破砕した」というのです。禅師が唱えた偈
(げ)というのは、「仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をた
たえるのに韻文の形式で述べたもの」という、難しい分野に入り
かけそうなもの。

 ある秋、三斗小屋温泉に一泊、茶臼岳の無限地獄の熱湯でゆで
卵を作り、南月山を通り、温泉神社といまでは県の指定史跡にな
っている殺生石を訪ねました。殺生石があるこのあたり一帯は湧
き出る硫黄ガスと酸性の温泉水で草木一本生えていません。

 芭蕉も「石の毒いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の
見えぬほどかさなり死す」と『おくのほそ道』に書いています。
現在は噴出量は減少しているといいますが、かつてはそのありさ
まを見た当時の人たちは、妖狐玉藻前の執念のなせるわざと思っ
たのも無理もないような不気味な光景でありました。

●那須茶臼嶽【データ】
【所在地】
・那須茶臼嶽:栃木県那須郡那須町。JR東北本線黒磯駅からバ
ス、那須岳山麓からロープウェイ、山頂駅から歩いて50分で那須
茶臼岳

【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」
・測定点:北緯37度07分30秒、東経139度57分47秒
・三角点:北緯37度07分30秒、東経139度57分52秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「那須岳(日光)」

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典09・栃木県』大野雅美ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本伝説大系4・北関東』(茨城・栃木・群馬)渡邊昭五ほか
(みずうみ書房)1986年(昭和61)
・『日本妖怪異聞録』小松和彦(小学館)1992年(平成4)
・『日本歴史地名大系9・栃木県』寶月圭吾ほか(平凡社)1988年
(昭和63)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)
・『和漢三才図会・10』(東洋文庫487)(巻第66〜巻第68)寺島良
安(島田勇雄ほか訳)(平凡社)1988年(昭和63)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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