山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1123号(百伝23)会津駒ヶ岳「雪形と以仁王伝説」

【説明略文】
会津駒ヶ岳はやはり雪形からきた山名。それは雪が溶けたあとの黒
い駒の形と、残雪の白い形、それに独楽の形の雪形もあるという。
ふもとの檜枝岐村には、平家倒滅宇治川ノ合戦で敗れた高倉宮以仁
王が、実は生きていて越後へ逃れるために尾瀬を通ってやってきた
という伝説もあります。
・福島県南会津郡檜枝岐村

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▼1123号(百伝23)会津駒ヶ岳「雪形と以仁王伝説」

【本文】
 全国に「駒」のつく山は多く、駒ヶ岳、駒ヶ峰、駒形山、駒ヶ森
などを入れると全国に何座あるでしょうか。そんな山をもつ自治体
が集まり、「駒ヶ岳友好連峰会議」を結成しているほど(1989年、
昭和64・平成1)です。

 この山々はほとんどが、馬の雪形からきた山名になっています。
会津駒ヶ岳も駒の形になる雪形からきているといいます。ただ山全
体が馬が駆けているような形からきたとの説もあるようです。ここ
の山名は、駒ヶ岳・会津駒ヶ岳・会津駒とも呼ばれています。

 山頂には一等三角点があり、展望も素晴らしく、南には燧ヶ岳、
至仏山をはじめ、奥只見湖をめぐる山々、西には越後三山など、
北側には尾根つづきの山なみが一望できます。また湿原が広がり、
コバイケイソウやハクサンコザクラなどの高山植物も群落してい
ます。

 さて山名のもとになっている雪形には、まわりの雪が溶けて「白
く」残るものと、雪が溶けだし岩が出てきて「黒く」なるものがあ
ります。会津駒ヶ岳の雪形は、黒い雪形がでるためにつけられてい
るようです。しかし『尾瀬と檜枝岐』(川崎隆章)には、雪形の「駒」
について、「下大戸沢の三ッ岩のひきつけに、駒形に雪が消えて黒
馬が現はれ、……」とあり、馬の形なって雪が消えて黒い馬があ
らわれると出ています。

 さらに「他の一箇所は、……黒檜沢の三ッ岩のひきつけに白く
現はれるもので、……古老もこれが駒ヶ岳の名の生じた原因であ
るといっていた」とあります。またさらに「ほかに上戸沢の頂き
近くに県道鳴き滝から仰がれるものは、宝珠の玉(こどもの遊ぶ
独楽の形)の残雪が同じころ現はれるが、(……中略……)ある者
は説を成して、駒の山容があたかも奔走の如き感じを与へる為、
この名が起こったと説くものがもあるが、已(すで)に古老のい
い伝へのみでなく、寛文6年(1666)開板の『会津風土記』(【註】
新編会津風土記)にも、残雪が駒形に残るためなりと見えている」
とあります。

 その『新編会津風土記』(巻之二十五)というのは、「駒嶽。…
…頂には四時雪あり、……夏秋の間残雪駒の形をなす處あり、故
に此名あり」という個所のことらしい。さらには檜枝岐村の人々
が口ずさんでいる「檜枝岐八景」という歌があります。

 そのひとつ、「駒嶽之暮雪」(駒ケ岳の残雪)に、「夏懸けて 峯
に残れるしらゆき(白雪)は 駮毛(ぶちげ)に似たるこまがたけ
(駒嶽)かな」とあり、白い雪形を詠んでいます。これは完全に白
い雪形です。その一方で『尾瀬と檜枝岐』は「ある者は説を成し
て、駒の山容があたかも奔走の如き感じを与へる為、この名が起
こったと説くものがもある」と、山全体が馬が駆けているようだ
ともいっています。結局は「山名の由来にも諸説あり」ということ
に落ち着くんですかね。

 こんな山ですから、信仰の対象として村人の尊崇を集め、江戸
時代前期の文書にも、檜枝岐村をはじめ、大桃(おおもも)村、
浜野村(いまの伊南村)に、古くから駒嶽神社がまつられていた
ことが記されています。なかでも檜枝岐村の駒嶽神社は、「駒形大
明神」(ママ)とも呼ばれ、ナント平安時代初期の弘仁(こうにん)
2年(811)に、村の鎮守サマとしてこの山の頂上にまつった(『檜
枝岐村史』)というから古い。

 その祭神はイザナギノミコトとアメノワカヒコノミコトの2柱。
イザナギは、『古事記』では伊耶那岐神・『日本書紀』では伊弉諾
尊と表記しています。伊耶那岐神は、ご存じ、伊耶那美(イザナ
ミ)神とともに、別天つ神(ことあまつかみ)の命(みこと・お
言葉)を受けて、国生み・神生みの仕事をはじめる神。

 後者のアメノワカヒコも『古事記』(上つ記)に天若日子の表記
で出てくる神です。『日本書紀』では天稚彦と書かれます。アメノ
ワカヒコは高天原に住んでいました。その高天原から、「中つ国」
(現(うつ)しの国)(高天原と地下の黄泉の国の間にある国)に、
様子を見に派遣された神がいました。

 「中つ国」は大国主の神のものでした。派遣された神は「中つ国」
へ下りていったのですが、中つ国が欲しくなり、大国主の神に媚び
へつらって3年も帰ってこないというありさま。そこで天照大神た
ちは天の若日子(あめのわかひこ)を迎えに再び「中つ国」へ遣わ
せました。

 しかし、迎えの行ったはずの天の若日子も大国主の神の娘を娶(め
と)り、8年も帰ってきません。大国主の婿として国を得ようと考
えていたというのですからあきれます。この神がどうして祭神にな
ったかは不明です。

 話を檜枝岐に戻します。檜枝岐村の駒形神社の境内にある「檜
枝岐の舞台」で行われる歌舞伎は有名で、200年以上の伝統を守り
毎年5月、8月、9月に上演されているそうです。

 その檜枝岐村には、高倉宮以仁王(もちひとおう)がここにやっ
てきたという伝説も残っています。以仁王とは平安時代末期の皇
族。以仁王は、鵺(ぬえ)退治で知られる源頼政にそそのかされ、
また人相見として評判だった藤原伊長に、帝(みかど)の位につ
くべき相があるなどとおだてられ、治承4(1180)年、全国の源
氏に平家討滅の令旨(りょうじ・命令書)を下しました(『平家物
語・巻4』)。

 そこでおこったのが「以仁王の乱」治承(じしょう)・寿永の乱
(じゅえい)の乱。その以仁王の計画は、すぐ平家にもれてしまい、
すぐに追っ手が向けられました。以仁王は御所を脱出、三井寺など
を経て、奈良へ向かいます。だが、以仁王の疲労がはげしく、平等
院で休息している所へ、平家の追っ手に追いつかれ、宇治川をはさ
んで激戦となりました(宇治川の戦い)。

 しかし宇治川の戦いで敗れ、さらに奈良への途中、脇腹を射られ
落馬したところを首を取られました。その後首は、京都で首実検さ
れますが、以仁王に合った者が少なくよく確認できませんでした。
その以仁王が生きていて尾瀬経由で、檜枝岐にやってきたというの
です。

 以仁王にお供してきたとされるひとり、渡辺長七唱(ちょうし
ちとなう・丁とも)いう人がいます。その人の手記といわれる「高
倉神社社記」という文書(治承4(1180・平安時代後期)がありま
す。それにも、「(以仁王は)……宇治川ノ合戦ニ敗北シ、足利又太
郎忠綱ノ情ニテ、御助命アリ、越後ノ住人小国右馬頭(うまのかみ)
頼之ニ依リ、落チ給フ。……」と書かれています。

 そして上州沼田から尾瀬沼、燧ヶ岳のふもとを通り、檜枝岐に到
着したというのです。また別の「会津高倉社勧進帳」(室町時代:
戦国時代)という文書にも、奈良路から近江(滋賀県)の信楽(し
がらき)に逃れ、東海道を下って、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)、
沼田(群馬県沼田市)に出て、さらに戸倉(群馬県片品村)から桧
枝岐(福島県檜枝岐村)に入ったとあります。

 そして楢原村(いまの福島県下郷町)、叶津(福島県只見町)か
ら八十里越(新潟県)を経て、越後国(新潟県)に出たと足跡をな
ぞっています。実際、その道々の村には、高倉宮にちなむ墓や廟、
神社があちこちに残っています。

 さらに先に出てきた『新編会津風土記』の巻之二十五〜巻之五
十「尾瀬平」にも、以仁王一行の話が出ています。「…土人の説に
昔以仁王ニ供奉シ来リシ尾瀬大納言藤原頼国(ふじわらのよりくに)
ト云フ人住セシ地ナリト云。今モ尾瀬沼ノ北岸ニ尾瀬殿ノ的場ノ跡
ト云アリ、又原中ニ(尾瀬ヶ原の中に)水田ノ形残レリ所アリトゾ」
としたためています。この話については、民俗学者の柳田國男も
「史料としての伝説」の中で触れています。

 しかし、ほかのいろいろな文書に、尾瀬大納言が、東北各地で
勢威を振るった安倍貞任(あべのさだとう)の一族・安倍三太郎と
同一人物だとか、はたまた、桧枝岐二郎や尾瀬三郎なるものが登場
してきて、それが大納言と中納言だとか、諸説が混ざり合い、こん
がらがっちゃっています。

 別天つ神(ことあまつかみ)とは:(※天地開闢の時にあらわれ
た五柱の神々)(1:天御中主(あめのみなかぬし)神、2:高御産
巣日神(たかみむすび)、3:神産巣日神(かみむすび)、4:宇麻
志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじ)、5:天之常立神(あ
めのとこたち)の5神を総称です。これは『古事記』の表記です。(『日
本書紀』には記載なし)



▼会津駒ヶ岳【データ】
【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・三角点:北緯37度02分51.6秒、東経139度21分13.99秒
・標高点:北緯37度02分51.22秒、東経139度21分14.18秒

【地図】
・旧2万5千分1地形図名:会津駒ヶ岳

【山行】
・某年7月30日(火曜日・ガス、小雨)

▼【参考文献】
・『尾瀬と檜枝岐』(復刻版)川崎隆章(木耳社)1978年(昭和53)
・『神々の系図』川口謙二(東京美術)1981年(昭和56)
・『古事記』:新潮日本古典集成・27『古事記』校注・西宮一民(新
潮社版)2005年(平成17)
・「山島民譚集1」柳田國男:ちくま文庫『柳田國男全集・5』19
89年(昭和64・平成1)
・「会津高倉社勧進帳」:『続群書類従・第3輯下』塙保己一編纂(続
群書類従完成会)1988年(昭和63)
・『角川日本地名大辞典7・福島県』小林清治ほか編(角川書店)
1981年(昭和56)
・「史料としての伝説」柳田國男:『柳田国男全集・4』柳田国男
(ちくま文庫)1989年(昭和64・平成1)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編会津風土記』:(大日本地誌大系・31)『新編会津風土記・
2』(巻之二十五・陸奥国会津郡の一)(雄山閣)1932年(昭和7)
・「高倉神社社記」:『日本山岳風土記・5』宝文館1960年(昭和35)
・『柳田国男全集・7』柳田國男(筑摩書房)1990年(平成2)
・『日本山岳風土記5』(東北・北越の山々)(宝文館)1960年(昭
和35)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『日本歴史地名大系7・福島県の地名』(平凡社)1993年(平成
5)
・『桧枝岐村史』桧枝岐村 (福島県南会津郡)(出版:桧枝岐村)1970
年(昭和45)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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