山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1119号(百伝19)飯豊山「飯豊神社と地獄への穴」

【略文】
飯豊山は役ノ行者らが開山し、五社権現をまつったという。明治時
代、廃仏棄釈の嵐が吹き荒れ、権現社も焼き討ちにもされかねませ
ん。そこでその前に大急ぎで、飯豊山神社と名を改め、祭まつる神
も御井命などに改えたという。いま、頂上本社と山ろく各地の祭神
名がちぐはぐなのは、その時のあわてぶりを示しているのだそうで
す。
・福島県山都町。

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▼1119号(百伝19)飯豊山「飯豊神社と地獄への穴」

【本文】
 雄大に連なる飯豊(いいで)連峰の数ある峰々の中で、主峰とさ
れる飯豊山は、単に「お山」とも呼ばれ、大昔から修験道の聖地と
して信仰されてきました。飯豊山は、飯豊本山・飯出山・四季山な
どとも呼ばれています。飯豊山の名の由来は、この山の西斜面、新
潟県北蒲原郡内に温泉があり「湯出・ゆいで」からきているといい
ます。また山が飯を盛ったような形だからとの説(『会津正統記』
もあります。さらに夏に登ると万年雪やお花畑があり、風は秋を思
わせるように冷たいので信者たちは四季山といったといいます。


 『陸奥国風土記』逸文(原文がほとんどなくなって世に一部分し
か伝わっていない文章)の「飯豊山」には、此(こ)の山は、豊岡
姫命(とよおかひめのこと)の忌庭(ゆには)なり。又、飯豊青尊
(いひとよあをのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御
幣(みてぐら)を奉(たてまつ)らしめたまひき。故(かれ)、山
の名と為(な)す。…


 …古翁(ふるおきな)の曰(い)へらく、昔、巻向(まきむく)
の珠城(たまき)の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(す
めらみこと)の二十七年、戊午(つちのえうま)のとし、秋(とし)
飢餓(う)ゑて、人民(たみ)多(おほ)く亡(う)せき。故(か
れ)、宇恵々山(うゑゑやま)と云(い)ひき。後、名を改めて豊
田(とよだ)と云(い)ひ、又飯豊(いひとよ)と云ふ(大善院舊
記)との一文も見えます。そこから豊岡姫命・飯豊青尊(いひとよ
あをのみこと)に由来する説もあるようです。


 飯豊山は、山形県と新潟県境にありながら、山頂一帯だけは福島
県山都町の一部という飛び地になっている奇妙な境界線です。ここ
は古くからの飯豊神社信仰の山。山頂の飯豊神社の福島県里宮本殿
は山都町一ノ木にあります。そのため人々は昔から里宮のある福島
県側から奥ノ院へ登っていたため、三国岳から飯豊本山、御西岳先
までの約8キロは幅の狭い稜線づたいの細い登山道は福島県の領域
になっているのだそうです。


 飯豊連峰の主峰・飯豊山頂近くに飯豊山神社があります。その神
社の社伝にはこんな話が伝わっています。時は飛鳥時代の白雉(は
くち)3年(652)、あの役ノ行者と知道和尚がはじめて飯豊山に登
頂。豊かに盛った飯のような山なので「飯豊」と名づけ、五子王を
まつり五社権現ととなえ、山麓の一ノ木村(いまの福島県山都町)
に薬師寺を建てて別当寺としたといいます。


 五子王は、越王、つまり大彦命(おおひこのみこと)の転訛で、
古四王、腰王と同じものだと、柞木田龍善氏が『修験の山々』のな
かで、日本山岳会越後支部長の藤島玄氏の話として述べています。
また唐の青龍寺の尊通国師智道と役ノ行者のふたりが開山したとす
るものもあり、役ノ行者が開いたあと平安初期の僧徳一と弘法大師
が中興したする古書もあります。


 別の伝承では、五社権現は一ノ王子、二ノ王子、三ノ王子、四ノ
王子、五ノ王子をいい、五王子が御井命(みいのみこと・井泉の神)
だとし「頂に五王子社あり、祭神御井命是を合わせて五社権現と云」
と『新編会津風土記』にあります。それらの神の本体(本地仏)は
一ノ王子は法界虚空蔵(こくぞう)、二ノ王子は金剛虚空蔵、三ノ
王子は宝光虚空蔵、四ノ王子は蓮華虚空蔵、五ノ王子が業用虚空蔵
をあわせて五大虚空蔵といっていたといいます。明治になると一ノ
王子が御井命(みいのみこと)に変わり、五ノ王子が高照姫(たか
てるひめ)になっています。


 一方、小国町に残る伝承では、飯豊山の開創はふたりの猟師であ
り、これがのちの知穎(影)上人・南海上人いう人で、古書により
年代が食い違いますが(平安時代とするものもある)、中津川から
道を開き、長者原への途中、片貝の白雲山不動院にもお寺を建てて、
道者(参詣者)が小国、長者原口、中津川口などから列をなして訪
れるほどの盛んな山岳道場だったといいます。


 ところが明治になり、神仏分離令が出され廃仏棄釈(はいぶつき
しゃく)の嵐が吹き荒れます。そのまま放っておけば五社権現社は
焼き討ちにも遭いかねません。そこで大慌てに慌てて「飯豊山神社」
と名前を改め、祭神も変えました。その結果、山ろくの神社間、ま
た場所と場所の間の連絡をとる暇もなく決めたため、頂上本社と山
麓の神社、それも場所によって祭る神の名前が異なるのは、その時
のあわてぶりを示すものでしょうか。また、飯豊山の「飯」が通じ
るため、稲作信仰の山としても古くから信仰の対象になっています。


 さて、飯豊山山頂から東南に下って約1時間、草履(ぞうり)塚
というピークがあります。かつては剱神社と草履小屋があったとこ
ろだそうで、お山の飯豊神社にお参りに来た人は、ここで草履をは
きかえてから出発したという。7月末、ギラギラと真夏の太陽が照
りつけます。まだ8時だというのにもう汗だくです。登山道の突然
の下り、降りついた所に妙な石仏があります。


 その昔、羽前の国小松(いまの山形県東置賜郡川西町)出身のあ
る老女が飯豊山に登りたい一念で女人禁制を犯して、ここまでやっ
て来ましたが、神の怒りにふれてむなしく石にされたという伝説が
ある姥権(うばごん)です。かつては女性が信仰の山に登ることは
神を冒涜する行為とされ、女人禁制の山が多くありました。それで
も勇気ある「おてんば」が禁を犯して山に入り、神罰にあたったと
いう話はよく耳にします。


 草履塚は細長い葉の茂った草が繁茂する石垣になっています。そ
の中に風化した石像が、体を布にまかれすごい形相をしています。
姥権はハンカチやタオルをまき、うつむいた顔が異様な姿だけに無
念さが伝わる石像でした。女人禁制のこの山に、女性がはじめての
ぼったのは、1915(大正4)年、福島県会津女子高校出身の当時の
若松門田村の猪股某サン18歳だったといいます。


 この山の、お山駆けは8月から9月に行われたそうです。その途
中で一行からはぐれたり、事故があったりし同行者に迷惑をかける
と、平素の行いがよくないから神罰にあったとされ、下山後も汚名
をきせられたというから厳しいものです。事実、飯豊山ではよく神
隠しにあったといいます。それはほとんど御秘所(オヒソ)という
ところで起こるという。このあたりは草履塚・姥の前などを含め無
間ヶ岳と呼ばれ、とくに御秘所は「お山」最大の危険箇所だったと
いいます。


 御秘所を越えるにはかつては上段・中段・下段の三つのコースが
ありました。上段は戴き近くを通り比較的楽なコース。中段は体を
絶壁になっている岩壁をに体を密着させながら通過するもの。ふつ
うはへずりながらこのコースを通過したという。下段のコースは岩
裾をたどり最も楽な道ながら、ここには無限地獄に通じる「口無し
穴」があるというのです。この穴は見ても見えない、聞かれても語
りようのないものだという。ここに落ちれば二度とこの世には帰れ
ないところ。そのため、見るな語るな、語らば聞くなの「御秘所」
だったということです。



▼飯豊本山【データ】
★【所在地】
・御西小屋までは福島県喜多方市山都町(旧耶麻郡山都町)。それ
から先は山形県西置賜郡小国町(合併なし)と新潟県東蒲原郡阿賀
町(旧東蒲原郡鹿瀬町)との境。磐越西線山都駅の北25キロ。JR
磐越西線山都駅かタクシー・川入りからのべ8時間30分で飯豊本
山。一等三角点(2105.1m)と飯豊山神社と本山小屋がある。地形
図に山名と三角点の標高のみ記載。三角点より東方向直線約622m
に飯豊山神社と本山小屋がある(or付近に何も記載なし)。

★【ご利益】
・飯豊山神社奥宮:五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、身体堅固。

★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
・三角点:北緯37度51分17.41秒、東経139度42分25.54秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「飯豊山(新潟)」

▼【参考文献】
・「奥州会津耶麻郡百木郷一戸邑飯豊山開基縁起」:『会津正統記』
収納(会津市立図書館)
・『会津旧事雑考』:『会津資料叢書』下巻(歴史春秋社)昭和48年
(1973)所収
・『山岳宗教史研究叢書7』(東北霊山と修験道)月光善弘(がっこ
うよしひろ)編(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・「山岳信仰の構造(飯豊山登拝をめぐって)」鈴木岩弓。雑誌「論
集」巻6(21〜p38)1979年(昭和54)
・『修験の山々』柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編会津風土記』(2):大日本地誌大系31『新編会津風土記・
弐』花見朔巳校訂(雄山閣)1932年(昭和7)
・『新編会津風土記』(3):大日本地誌大系32『新編会津風土記・
参』花見朔巳校訂(雄山閣)1932年(昭和7)
・『新編会津風土記』(5):大日本地誌大系第34『新会津風土記・
五』花見朔巳校訂(雄山閣)1970年(昭和45)
・『東北の山岳信仰」岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本歴史地名大系6・山形の地名』(平凡社)1990年(平成2)
・『日本歴史地名大系7・福島の地名」(平凡社)1993年(平成5)
・『陸奥国風土記・逸文』:『風土記』秋本吉郎(岩波書店)1993年
(平成5)所収

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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