山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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1100-(百伝10)岩木山「山椒太夫と安寿姫と津志王丸」

【説明略文】
岩木山中央山頂には岩木山神社の奥宮本宮の建物が鎮座していま
す。ここには『安寿と厨子王』で有名な安寿姫がまつられている
といいます。この伝説から安寿姫を責め殺した山椒大夫の国丹後
(京都)の人が岩木山の支配地に入っても神が怒るのだという。
・青森県弘前市と鰺ヶ沢町の境。

【説明本文】は下方にあります。

1100-(百伝10)岩木山「山椒太夫と安寿姫と津志王丸」

【説明本文】
 この山はその山の様子から「石(いわ)の城(き)」の字に「岩
木」をあてたものらしい。山頂は3つに分かれ、北の峰は巌鬼山
(がんきさん)、真ん中の峰は一等三角点のある岩木山、南には鳥
海山というピークがそびえています。岩木山も津軽に人が住みつ
いたときからの信仰(自然崇拝)の山。それに天台密教や熊野信
仰などの要素が加わり岩木山三所権現となり、人々の信仰を集め
るようになったもの。

 山頂には岩木山神社(下居宮・おりいのみや)の奥宮本宮の建
物が鎮座しています。この神社の創立についてはいろいろな伝説
があります。津軽の開国を、『山岳宗教史研究叢書16』にある「東
日流開滄物語」(江戸中期)をもとに述べますと、「神代のはじめ、
国常立(くにとこたち)の命が芦原の雑草を切り開いて、1500ヶ
所もの土地を造成、津軽はその一つだったそうです。

 その後、大元命という神がここに入ってきました。その命の次
男・往来半日彦(いこはかひこ)は、島わたりして大王になり、
長男・洲東王(しまつかみ)はこの国に留まって、国を東日流(つ
がる)と名づけました。その後、この神の子孫の時代になり、来
襲してきた日本武尊に降伏。いまの津軽と秋田の国王になったそ
うです。(「東日流開滄物語」作者不詳、江戸中期)。

 一方、「岩木山縁起」によれば、大昔、大己貴命(おおなむちの
みこと・大国主とも大元命ともいう)がこの国に降臨しました。(ま
た大元命が出てきましたが、先の洲東王の父親と同一かは不明)。
そして「津軽はよく土地が肥えている。多くの子供たちを遊ばせ
るによい」というわけで、阿曽部(あそべ)という地名ができま
した。この神にはこどもが180人もいたといいます。

 ある時、土地の女神の竜女が、田光(たっぴ)沼からとれた「国
安の珠」というものを、大己貴命に献上しました。命は喜んで、
竜女を「国安珠姫」と名づけました。そしてふたりは結婚、そし
て夫婦は国を治めるようになったのでした(『山岳宗教史研究叢書
17』)。

 その後奈良時代の772年(宝亀3)には、岩木山山頂の3つのピ
ークに磐椅(いわはし)宮を建てました。3つのピークのうち、
中央の三角点のある本峰には国常立命(くにとこたちのみこと)
を、北峰の巌鬼山(がんきさん)には大元命を、そして南峰の鳥
海山には国安珠姫をまつりました。

 ところで、竜女が大己貴命に献上した「国安の珠」が、海賊に
盗まれたことがあったらしいのです。その海賊が、丹後由良(京
都府宮津市由良)の港の賊だったのです。宝物は取り返しはしま
したが、そんな因縁から以後、丹後の国の人が岩木山に登ると、
山が荒れるようになったのだそうです。これを「丹後日和」とい
います。

 この伝説について、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』岩城
山権現の項に、「当国の領主岩城判官正氏は、永保元年(1081)の
冬、京にあって讒言にあい西国に流された。本国に二子あり、姉
を安寿、弟を津志王丸という。…うんぬん」とあります。わかり
やすく書くと、つまり津軽国の領主岩城判官正氏という人が、上洛
中にだまされ西国に流されたのだそうです。

 正氏には安寿姫と津志王丸という2人の子どもがいました。母親
と子どもたちも、父親を追い西国へ向かいましたが、途中悪党たち
のため、母親は佐渡の国に売り飛ばされました。一方、安寿姫と津
志王丸は、丹後国由良(京都府宮津市由良)の山椒太夫に売られ
て奴隷のような生活を送ります。

 津志王丸は何とか逃げ出しましたが、安寿姫は弟を逃がした罪で、
山椒太夫に惨殺されました。その後「津志王は上洛し、帝の助け
を得て世に出る。安寿は岩木山の神にまつられた」とあります(同
『和漢三才図会』)。こんな物語から、安寿姫を責め殺した山椒大
夫の国・丹後国の人が岩木山の支配地に入ると神が怒り天気が荒
れるのだという。

 この山にはほかにも伝説があります。青森市の東に、東岳とい
う山頂の首のないような山があります。また、弘前市の西には岩
木山があり、ふたつの山の中間に八甲田山が控えています。しか
し困ったことに、昔から東岳と八甲田山が仲がよくないのです。
ある時、なにがあったのか八甲田山が怒り出し、刀で東岳の首を
はねるという事件がありました。

 首は血潮をふきながら西の方に飛んでいき、岩木山の肩のあた
りに落ちました。そしてそのまま、岩木山にひっついてしまった
のです。いま岩木山の肩にコブがあるのは、その時の東岳の首な
のだそうです。そしてこのあたりの土が肥えていて、作物がよく
実るのは首が飛んだ時、したたった血潮のおかげだということで
す(『日本伝説集』)。

 さらにもう一話「巨人伝説」です。弘前市の鬼神社のある鬼沢
村の弥十郎という男が、ある日、岩木山に薪を採りに入ったとこ
ろ、突然、見上げるばかりの大男に出会いました。大男は「薪な
どいくらでも採ってやるから、おれと相撲をとれ」といいます。
弥十郎は仕方なく相撲をとったあと、から身で家に帰りました。

 するとその夜、大男が薪を山のように家の裏に積んでくれてあ
りました。弥十郎と親しくなった大男は、村のための開墾や、ま
た水不足のために水路まで造ってくれました。このあたりに水源
などないのに、どこからくるのか水路をたどっていくと、ナント
岩木山の赤倉の深い谷底から、水が汲み上がっているのでした。

 そんなある日弥十郎の行動を怪しんだ女房が、こっそりあとを
つけ、赤倉堰まで来ました。大男はこれに気づき、「自分の姿まで
見られるのは困る。もうこれからは来ないことにする」と告げる
と、そのまま山に入ってしまいました。弥十郎ものちに山に入り
大男になったなどの伝説があります(『山岳宗教史研究叢書16』)。


▼岩木山【データ】
【所在地】
・青森県弘前市(三角点)、同県鰺ヶ沢町との境。奥羽本線弘前駅
の北西15キロ。JR奥羽本線弘前駅からバス−スカイラインシャ
トルバス−八合目駐車場前−リフト、さらに歩いて40分で岩木山。
1等三角点(1624.6m)と、岩木山神社と鳳鳴ヒュッテがある。

【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・三角点:北緯40度39分21.31秒、東経 140度18分11.09秒

【地図】
・2万5千分1地形図名:岩木山(いわきさん)

▼【参考文献】
・『江戸百名山図譜』住谷雄幸(たけし)(小学館)1995年(平成
7)
・『角川日本地名大辞典2』竹内理三偏(角川書店)1991年(平成
3)
・『山岳宗教史研究叢書7・東北霊山と修験道』月光善弘(がっこ
うよしひろ)編 (名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重
編(名著出版)1983年(昭和58):『岩木山縁起』(土岐貞範撰)江
戸時代・文化8年(1811)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝説集』高木敏雄(ちくま学芸文庫・筑摩書房)2010年(平
成22)。
・『日本伝説大系・1』(北海道・北奥羽)宮田登ほか(みずうみ書
房)1985年(昭和60)
・『日本の民俗2・青森』盛山泰太郎(第一法規)1976年(昭和51)
・『日本歴史地名大系2・青森県の地名』虎尾俊哉ほか(平凡社)
1982年(昭和57)
・『柳田国男全集・4』柳田国男(ちくま文庫)1989年(昭和64・
平成1)
・『和漢三才図会』寺島良安著(:『和漢三才図会9』(東洋文庫481)
島田勇雄ほか訳(平凡社)1988年(昭和63)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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