山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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1109-(百伝09)後方羊蹄山「羊蹄山はギシギシ山」

【説明略文】
北海道の羊蹄山は、『日本百名山』に後方羊蹄山として、9番目に
記載されています。山頂は、北海道虻田郡喜茂別町にある山。羊蹄
山は、野草のギシギシの漢名の羊蹄(し)の山だという。なるほど、
ギシギシの葉(くさび形)は羊の蹄に似ています。もとは「しりべ
しやま」といったそうです。・北海道後志庁虻田郡ニセコ町と倶知
安町、京極町、喜茂別町、真狩村の境

【説明本文】下方にあります。

1109-(百伝09)後方羊蹄山「羊蹄山はギシギシ山」

【説明本文】
 北海道の羊蹄山(ようていざん・標高1,898m)は、『日本百名
山』(深田久弥)に後方羊蹄山(しりべしやま)として、9番目に
記載されています。山頂は、北海道虻田郡(あぶたぐん)喜茂別町
(きもべつちょう)にある山。円錐形で単独峰の美しい山で「蝦夷
富士(えぞふじ)」とも呼ばれています。

 山の上にはお花畑が広がっていて、高山植物が200種類以上も咲
き乱れ、1921年(大正10)に国の特別天然記念物に指定されてい
ます。この山には、父釜、母釜、子釜と呼ばれる3つの火口があっ
て、池塘(ちとう)には「羊蹄坊主」という谷地坊主(やちぼうず)
があることでも有名です。谷地坊主とは、寒い土地の湿原などでこ
んもりと盛り上がったスゲの草の塊のことです。

 ところで羊蹄(羊のひづめ)とは変わった名前です。この山は、
もとは後方羊蹄山(しりべしやま)という名前だそうです。南東に
ある尻別岳(しりべつだけ)を、前方羊蹄山(雄岳)というのに対
して、この山を後方羊蹄山(雌山)といいます。後方羊蹄山と書い
て、シリベシヤマとは読めませんヨね。また意味も分かりません。

 カタカナばかりで、気をつけていてもシリベシヤマか、シベリシ
ヤマか間違ってしまいます。そこで、いまは「後方」を取ってしま
い、ただの羊蹄山といっているそうです。でも、この山のどこが「羊
のひづめ」と関係があるのでしょう。実はここに出てくる羊蹄とは、
野草のギシギシのことなのだそうです。野原や道ばたで、スカンポ
に似た大形の緑色の草の、あのギシギシです。若芽は食用にもなっ
て、根っこにはアントラキノン類を含んでいるとかで、皮膚病の外
用薬にも利用されている、おなじみの野草です。

 ギシギシは、漢名では「羊蹄」と書き、日本では「し」と読ませ
るといいます。これは『万葉集』や『源氏物語』にも使われていま
す。『万葉集』には2首あり、「年のはに梅は咲けども空蝉(うつせ
み)の世の人我し春なかりけり(万1857)」の「我(われ)し」の「し」。
また、「耳成(みみなし)の池し恨めし我妹子(わがいも)が来つ
つ潜(かづ)かば水は涸れなむ(万3788)」の、「池(いけ)し」の
「し」がそれだという。

 『日本百名山』深田久弥も、「日本では、昔はギシギシのことを
単に「し」と呼んだ。そこで羊蹄と書いて「し」と読ませたのであ
る。……おそらくはその葉の形(くさび形の意味?)から羊蹄とい
う漢名が生まれたのであろう。だからただ羊蹄山だけでは、「し山」
ということになる」と、書いています。植物といえば、植物分類学
者牧野富太郎はあまりにも有名です。この先生も1924年(大正13)
年にエッセイのなかで、「後方」は古語で「しりへ」であり、羊蹄が
「し」であると説明しています。つまり、後方(しりへ)の、羊蹄
(し・ギシギシ)の山なのだそうです。

 「後方」を「しりへ」と呼ぶのは、1901年(明治34年)に発行
された「中学唱歌」の唱歌「箱根八里」(作詞・鳥居忱、作曲・瀧
廉太郎)にもあります。♪箱根の山は、天下の嶮(けん) 函谷關
(かんこくかん)も ものならず、萬丈(ばんじょう)の山、千仞
(せんじん)の谷 前に聳(そび)え、後方(しりへ)にささふ、
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす……の、「後方(しりへ)」なのだそ
うです。

 でも、ギシギシの葉のくさび形をしていて、羊の爪に似ていると
いうのは分かりますが、羊蹄山がくさび形をしていませんよね。ま
してやこの山がギシギシの特産地でもありません。また、このしり
べしやま(後方羊蹄山)の名は、アイヌ人たちが昔から使っていた
名前ではなく、あとから入っていった日本人がつけた名前だという
からこんがらかってきます。ちなみにアイヌ語では「マカリヌプリ」
というそうです。

 さて、「後方羊蹄」のルーツは『日本書紀』にあるといいます。『日
本書紀』巻第二十六(斉明天皇五年(659年)3月の項)に、「是
(こ)の月に、阿倍臣(あへのおみ)を遣(つかは)して、船師(ふ
ないくさ)百八十艘(ももあまりやそふな)を率(ゐ)て蝦夷国(え
みしのくに)を討つ。阿倍臣、飽田(あぎた)、渟代(ぬしろ)、二
郡(ふたつのこほり)の蝦夷二百四十一人(ふたももあまりよそあ
まりひとり)、其の虜(とりこ)三十一人(みそあまりひとり)、津
軽郡(つかるのこほり)の蝦夷一百十二人(ももあまりとをあまり
ふたり)、その虜四人(よたり)、胆振(いふり・いぶり)?(さへ)
の蝦夷二十人(はたたり)を一所に簡(えら)び集めて、大(おほ)
きに饗(あへ)たまひ(饗応し)禄(もの・物)賜ふ。……。」と
あります(岩波文庫『日本書紀』)。

 つまり、この月に天皇は阿倍臣(あべのおみ)という将軍を遣(つ
か)わし、船軍180艘(そう)を率いて蝦夷(えぞ)の国を討ちま
した。そして阿倍臣は、飽田(あきた・秋田)と渟代(のしろ・能
代)の2郡の蝦夷241人と、その捕虜31人、そして津軽郡の蝦夷112
人とその捕虜4人、胆振?(いぶりさえ)の蝦夷20人を一ヶ所に
集めて、大いにもてなし、禄(もの・物)を与えました。

 その時、問?(という・未詳)の蝦夷のイカシマとウホナという
2人が進みきて「後方羊蹄」に、役所を設置してほしいと願い出ま
した。そこで、阿倍臣はイカシマらの言葉にしたがって、そこに役
所を設置して帰ったというのです。そして「……後方羊蹄、此(こ
れ)をば斯梨蔽之(しりへし)と云ふ。…」とあります。これが、
そもそも後方羊蹄(しりへし)のはじまりだというのです。なるほ
どです。

 ただ『日本書紀』はいいのですが、この後方羊蹄(斯梨蔽之・し
りへし)という場所がどこかというのが問題になります。『日本書
紀』の、この後方羊蹄(斯梨蔽之)が、いまのように北海道の後方
(しりべし)地方に決められてしまったのは、江戸時代の儒学者新
井白石が書いた文章かららしいです。その著『蝦夷志(えぞし)』
で、白石は『日本書紀』の内容を引用し次のように書いています。

 「安倍の臣(おみ)を遣わし、飽田(あきた・秋田)・淳代(ぬ
しろ・能代)・津軽・膽振祖(いぶりのくに・道南から道央にかけ
ての地域)等の酋帥(しゅうすい・酋長)を率いて以て蝦夷を伐つ。
乃ち其の地を徇(したが)え、遂に治を後方羊蹄に置きて還(かえ)
る。(後方羊蹄は読んで「シリベシ」と云う。即ち今の「西シリベ
チ」の地なり。)……」としています。この新井白石が書いた『蝦
夷志』は、江戸時代中期の享保(きょうほう)5年(1720年)の
蝦夷地の地誌で、松前藩の情報などをもとにして作成したもの。そ
の後、書かれた蝦夷に関したものは、みなこの本を参考にしている
といいます。

 江戸時代後期、天明元年(1781)、地元で書かれた『松前志』も
新井白石の説に影響され、シリベシ地方一番の山を「後方羊蹄山」
としています。その後も『日本書紀』の「後方羊蹄」を即、北海道
の後方(しりべし)地方とする風潮になっていきます。さらに下っ
て幕末になり、蝦夷探検家である松浦武四郎という人が、安政5年
(1858)の2月に、この山に登ったというのです。この人は蝦夷地
に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名
を選定したといういうすごい人。

 ただ、後方羊蹄山に登ったというのはどうもウソっぽい。その日
記『後方羊蹄日記』には「尻別岳は、尻別岳の上にあるところから
の名前で、アイヌ人はマチネシリ、ピンネシリと呼ぶ。ピンネシリ
は傍らにあって、高さはマチネシリの半分にも及ばない。これがい
わゆる日本書紀に出てくる後方羊蹄山である」と書いています。そ
して南東にある尻別岳(前方羊蹄山・雄岳)の下に祠をまつってか
ら、後方羊蹄山に登ったとあります。

 しかし、厳寒の2月にそう簡単に山頂まで往復できるわけがあり
ません。尻別岳の下に祠を置いて後方羊蹄山に向かったかも知れま
せんが登頂したというのはどうも怪しいのです。彼の登山記の関連
資料を詳細に調査すると、記録のあちこちに矛盾がでてきてしまう
とのこと。そして結局、国威を示すためのフィクションだというの
が分かってしまったらしいのです。

 このように、いまでもここが『日本書紀』のいう後方羊蹄(しり
べし)であるかどうかはわからない状態だそうです。エッ、それは
ないヨね。これでも随分苦労して文献を調べてきたんだよ……。し
かしつまり結局、分からずじまい。謎の山「羊蹄山」ではあります
ネ。

▼羊蹄山【データ】
【所在地】
・北海道後志庁虻田郡ニセコ町と倶知安町(くっちゃんちょう)・
京極町、喜茂別町、真狩村の境。JR函館本線倶知安(くっちゃん)
駅からバス、羊蹄山登山口下車、歩いて5時間で羊蹄山。一等三角
点名「真狩岳」(1893.02m)がある。三角点より南に最高点(1898
m)がある。

【位置】(電子国土ポータル)
・三角点:北緯42度49分41.69秒、東経140度48分40.24秒
・最高点:北緯42度49分36秒、東経140度48分41.4秒

【地図】
・2万5千分の1地形図名:【三角点】「倶知安」、「羊蹄山」
・2万5千分の1地形図名:【最高点「羊蹄山」

▼【参考文献】
・『植物の世界7巻・79号』(週刊朝日百科)(朝日新聞社)1995年
(平成7)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『世界の植物巻7・78号』(朝日新聞社)1977年(昭和52)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本書紀』720年(養老4):岩波文庫『日本書紀(四)』校注・
坂本太郎ほか(岩波書店)1995年(平成7)
・『日本大百科全書・6』(小学館)1985年(昭和60)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系1・北海道の地名』高倉新一郎ほか(平凡社)

・『牧野新日本植物図鑑』牧野富太郎(北隆館)1974年(昭和49)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21)
・『山の名前で読み解く日本史』谷有二(青春出版社)2002年(平
成14)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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