山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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1104号-(百伝04)阿寒岳夫婦別れした雌阿寒岳

【略文】
雌阿寒岳は女神の山と十勝連峰最北のオプタテシケ山(男神)はも
とは夫婦山だったそうです。ところがある時けんか別れ。気の強い
女神はくやしくて、もと夫の山をめがけて槍を投げつけました。そ
れに腹を立てた夫の山はその槍を投げ返すという伝説があります。
・北海道足寄郡足寄町と釧路市(旧阿寒郡阿寒町)との境。

 

1104号-(百伝04)阿寒岳夫婦別れした雌阿寒岳

【本文】
 『日本百名山』では4番目に登場するのが阿寒岳という山です。
北海道に「阿寒」というの名がつく山は3座あります。いまも活発
に噴火する雌阿寒岳(めあかんだけ・1499m)と、その南の阿寒
富士(あかんふじ・1476m)、それに雄阿寒岳(おあかんだけ・1370
m)です。しかし、単に阿寒岳といえば、雌阿寒岳を指すことが多
いといいます。

 雌阿寒岳は、釧路市(旧阿寒郡阿寒町)と足寄郡足寄町(あしょ
ろちょう)との境にある山。約2万年前から噴火をくり返し、いま
も噴煙の絶えることのない活火山です。アイヌ語でマチネシリとい
い、「女山」の意だそうです。

 このあたりは雌阿寒岳の雌山(マチネシリ)と、中雌岳(中マチ
ネシリ)、小雌山(ポンマチネシリ)、阿寒富士からなっています。
雌阿寒岳山頂には、周囲1.5キロの第一火口があり、火口原には第
二火口と溶岩円頂丘が、そしてその北西部には第三火口があります。

 最高峰のポンマチネシリはその寄生火山で、頂上には2重の爆裂
火口があり、1955年(昭和30)に起きた水蒸気爆発が、その後断
続的に続いています。直径400mの噴火口の底に赤沼、青沼があり
ます。


 頂上からの眺望は四囲に開け、眼下には阿寒湖、雄阿寒岳、西方
には大雪連峰(たいせつれんぽう)や日高山脈まで遠望できます。
雌阿寒岳の山麓は、アカエゾマツ、トドマツの樹林帯が美しく広が
っています。山にも男女があればいろいろなことが起こります。

 ここにはこんな伝説があります。雌阿寒岳は文字通り女性で女神
の山。昔は、いまある釧路からずっと西方の、石狩山地十勝連峰に
あったそうです。それに対して、十勝連峰最北のオプタテシケ山(槍
がそれるとの意味・美瑛町と新得町の境・2013m)は男神の山。

 この2座は夫婦山でした。ところが何がもとだったか大げんか。
とうとう別れることになり、女神の雌阿寒岳は、こどもを背負うと
遠く東の釧路へ帰ってしまいました。気性の荒い雌阿寒岳はくやし
くてくやしくて、いつかうらみを晴らそうとチャンスをうかがって
いました。

 ある時、女神はもと夫のオプタテシケ山をめがけて槍を投げつけ
ました。それを見ていたオプタテシケ山の前にそびえるヌプカウシ
ヌプリ(原野にある山の意・東(1252m)と西(1251m)がある
・然別湖の南)が、オプタテシケ山を助けようと飛んでくる槍を捕
まえるため立ち上がりました。


 槍は押さえられオプタシケ山は無事でしたが、ヌプカウシヌプリ
は耳を削られてしまいました。腹を立てたオプタテシケ山は、その
槍を拾い投げ返しました。槍は山の真ん中に命中。雌阿寒岳は大け
がをしたということです。いまも雌阿寒岳から硫黄が出ているのは、
その傷跡から出る膿だということです。

 またヌプカウシヌプリが槍を押さえようと、起きあがったあとの
穴に水が溜まり、然別湖(しかりべつこ)ができました。さらに飛
んできた槍で削り落とされ、飛んでいった耳は、いまの芽室町(め
むろちょう・河西郡・帯広の西)のポネオプタプコプ(小さな瘤の
山の意)になったということです(『日本の民俗1』)。

 またこの小さな瘤の山・ポネオタプコプにも伝説があります。か
つてこの山のあたりに、小人族のコロポックルが住んでいました。
平和な暮らしがつづいていましたが、ある日、アユを追ってアイヌ
の一団が美生川沿いに近づいてきました。

 コロポックル族たちは相談、断崖の上に砦を築き、敵の来襲に備
えました。やがてアイヌ族との戦いがはじまりました。砦を築いて
いたコロポックル族は地の利で優位、アイヌは退却しました。


 しかし再三のアイヌ族の来襲です。アイヌ族は、美生川を挟んで
の戦いが不利であるのを知り、こんどは密林地帯を超えて砦の背面
から攻撃してきたのです。背後から不意をつかれたコロポックル族
は大慌て、遂に全滅してしまったということです。

 それとは別に次のような言い伝えもあります。昔、アイヌの人た
ちは、雌阿寒岳の南にある山を、ユッラン・ヌプリ(シカの下る山)
と呼んでいました。阿寒の山々には、草や樹木が豊かに生える森で
ありました。


 時が移りいつのころからか、ササがはびこりはじめて草や木が、
ササにはばまれて育たなくなってしまいました。この様子を天から
見ていた「シカ族の神」は、森を救おうと、エゾシカを入れた大き
な袋をこの山に降ろしました。エゾシカは、ササの葉をムシャムシ
ャと食べて、やがて阿寒の山々に緑の森が戻ってきたといいます。

 ユッラン・ヌプリのシカは、アショロ・ヘツから十勝、日高、さ
らには北見の方まで広がっていき、先々まで緑の森ができていきま
した。それからというもの、アイヌに人たちはユッラン・ヌプリの
山中で猟をするときは、神に感謝し必ず木弊を捧げるようになった
ということです。

 ところで、この山には高山植物も多くあります。そのなかで、1886
年(明治19)に北海道大学の宮部金吾が命名したメアカンフスマ、
1897年(明治30)に川上滝弥が採集し、牧野富太郎が命名したメ
アカンキンバイが有名です。7月〜8月にはお花畑は満開で、先の
メアカンキンバイ、メアカンフスマのほか、コマクサ、タルマイソ
ウ、アカンサキスゲなどが目を楽しませてくれます。


 また幕末から明治にかけての探検家の松浦武四郎は、雪道をたど
って、「マチ子(ね)シリ」に登ったといいます。その時著した『戊
午日誌(ぼごにっし)』(1858年・安政5年)に、「頂上に到る。此
処より東を見る哉、アカン沼を眼下に見、其を越(え)てピン子(ね)
シリ、其(それ)を男アカンと云(う)。ピンは雄也、マチ子(ね)
は雌也、合わせて是(れ)を雌雄の山と云(う)」と書いています。

 さて雌阿寒岳の南方、約1キロの山腹には阿寒富士(1476m)
があります。十勝地方足寄(あしょろ)町と釧路地方阿寒町・白糠
(しろぬか)町にまたがり、名前のように、山体がきれいな円錐形
で富士山のようなところからきています。山頂に2つの爆裂火口が
あり、約2000年前の噴火でできた、阿寒湖の寄生火山だそうです。
この噴火の溶岩流でせき止められてできたのが、山麓西側の湖オン
ネトー(アイヌ語で年老いた沼、大きな沼の意味)だといいます。

 一方、雌阿寒岳北東方向には、雄阿寒岳(1371.2m)があり、釧
路地方阿寒町にあるアイヌ語のピンネシリ(男山の意)。1万年も
前から火山活動がはじまったといい、西麓には溶岩流でせき止めら
れた阿寒湖があり、北東の山麓にはパンケトー(アイヌ語の下の湖
の意味)とペンケトー(上の湖の意味)と呼ばれる湖ができたとい
うことです。雌阿寒岳頂上からは阿寒湖、パンケトー、ペンケトーを
はじめ、雌阿寒岳、斜里岳、釧路湿原などを望めます。



▼雌阿寒岳【データ】
【所在地】
・北海道足寄郡足寄町と釧路市(旧阿寒郡阿寒町)との境。JR根
室本線釧路駅からバス、阿寒湖バス停下車、雌阿寒温泉行きバスに
乗り換え、雌阿寒温泉で下車。さらに歩いて3時間で雌阿寒岳。標
高点(1499m)がある。

【名山】
・「日本百名山」(深田久弥選定):第4番選定(日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる)
・「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第3番選定
・「花の百名山」(田中澄江選定・1981年):第2番選定

【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・標高点:北緯43度23分11.47秒、東経144度0分32.73秒

【地図】
・2万5千分の1地形図:雌阿寒岳


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典1・北海道上巻』編(角川書店)1991年(平
成3)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本の民俗1』(北海道)高倉新一郎(第一法規出版)1974年
(昭和49)
・『日本歴史地名大系1・北海道の地名』高倉新一郎ほか(平凡社)
2003年(平成15)


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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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(主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会




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