山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼山旅1102号(百伝02)羅臼岳クナシリ島に橋を架けようした弁慶」

【略文】
羅臼岳は別称をラウシ(羅牛)岳、良牛嶽。ラウシは「魚の臓物を
処理した場所」だとか。ここは、アイヌ語でシル・エトク、「大地
の果て」なのだそうです。義経と一緒に羅臼にきた弁慶が間近の国
後島に橋を架けようとした伝説もあります。
・北海道斜里町と羅臼町との境。

1102号-(百伝02)羅臼岳「クナシリ島に橋を架けようした弁慶」

【本文】
 北海道の羅臼岳は「牛」の山だといいます。別名を羅牛岳、良
(ら)牛嶽と書きますが、あの「モー」の牛ではなく、アイヌ語の
「ラ・ウシ」の音訳で、その意味は「魚の臓物を処理した場所」な
のだそうです。羅臼岳(らうすだけ・標高1660m)は、北海道斜
里郡斜里町と目梨郡羅臼町との境にある山で、『日本百名山』の2
番目に記載されています。

 羅臼岳は北海道の東方へ突き出した知床半島の、国後島を飲み込
もうとして口を開けた、上あごの部分にある山です。羅臼岳も信仰
の対象になっていたらしく、ふもとの羅臼町で1998年(平成10)
年に、羅臼山大権現の文字が刻まれた釣鐘が見つかったといいます。

 それには「弘化戌申(つちのえさる)正月」の紀年で「羅臼山大
権現」へ奉納とあったそうです(『日本歴史地名大系1・北海道の
地名』)。しかしどういうわけか、弘化年中(1844〜1848年)に戌
申の年はないようです。ちなみに羅臼山大権現はいま、羅臼町峯浜
町の植別神社に、金刀比羅大神(ことひらのおおかみ)などといっ
しょに合祀されています。

 羅臼岳の南羅臼湖があります。その西の知西別岳(チニシベツ岳)
に、1850年(嘉永3)代には「ラウシ山権現堂祠」(※羅牛は羅臼
岳の別名)があった(根室旧貫誌)との文書もあるそうです。余談
ながら、1965年(昭和40)発行の10円切手に、羅臼岳の写真が採
用されています。


この地を詳しく調査・探検したのは、松浦武四郎という人。その著
『知床日誌』には、「ラウシ小川昔し鹿熊等取り必す爰(ここ)に
て屠(ほふ)りし故に其(の)臓腑骨等有(り)しとの義也、上に
羅牛岳と云(う)、神靈著しき岳有(り)」とあります。

 羅臼岳山頂からの眺望は雄大で、三ッ峰、サシルイ岳、硫黄山な
ど知床半島の山々、両側の海や、東には国後島(北方領土を返せ!)、
西にはオホーツク海、知床五湖や、眼の下には羅臼湖が控えていま
す。高山植物も300種類あまりと多く、雪渓や岩場の間に大群落が
みられます。ウメガサソウ、エゾイタヤ、コケモモ、アオノツガザ
クラ、リンネソウなど。また山頂付近には、エゾノツガザクラ、イ
ワヒゲ、チシマツガザクラ、クモマグサなどなど。

 このあたりでお節介文をひとつ。羅臼岳山ろくの羅臼町にも、あ
の「源義経」や「弁慶」の影がチラホラ出てきます。羅臼町にある
「義経しりもち岩」や「材木岩」がそれです。そもそも源平合戦で
平家をうち破った義経たち。

 ですが、兄の源頼朝に追われ、奥州藤原氏の所に(現在の平泉)
落ち延びます。しかし義経は、藤原泰衡に襲われ、1189年(文治
5)閏(うるう)4月30日、奥州平泉で自害(衣川の戦い)した
ことになっています(『吾妻鏡』)。


 ところが、義経と弁慶は生きていて、平泉から北海道に落ち延び
たという説があります。三代将軍徳川家光が、儒者の林羅山に国史
の編纂を命じて成立した『本朝通鑑』という書物があります。その
『続本朝通鑑』(巻第七十三)に、「…文治五年閏四月、「又曰(フ)
衣河(川)之役義経不(レ)死逃到(二)蝦夷(えみし)島(一)存(二)
其遺種(子孫)(一)」と、出てきます。

 その痕跡のひとつ「義経しりもち岩」という岩は、北海道のあち
こちにありますが、ここ羅臼町にも存在します。そのいわれはこう
です。知床半島まで来た義経一行は、流れ寄った鯨の肉を焼いてい
ました。うまそうな匂いがただよい、そろそろ焼けたかなと思った
とたん、串が折れて火の中に倒れました。義経はびっくりし、尻も
ちをついたというのです。(たかが串が折れたくらいで、尻もちと
はなんとも大げさな話ではあります)。

 同じような話で尻餅沢もあるのですが、肝心なその場所を特定す
るのが難しいというのですから困ってしまいます。もうひとつの弁
慶の「材木岩」というのは、羅臼灯台下の岩のこと。羅臼に来た弁
慶は、羅臼と国後島があまりに近いので、その間に結ぶ橋を架けよ
うとしました。現地にこんな話があります。

 ある日、羅臼にやってきたシャマイクル(弁慶をいうアイヌ語)は、
すぐ向かいにある大きなクナシリ島に行きたくなりました。そこで
橋を架けようと思いました。弁慶は、さっそく山へ行って、どんど
ん木を切って集めました。力持ちの彼は、一度に木材を9本も10
本も、担いできます。


 はじめは、羅臼と国後島との間に橋を架けるなんて、「まゆつば」
な話だとみていたアイヌの人たちも、だんだんその気になってきて、
弁慶の手伝いをする人が増えてきました。「あのクナシリは、魚も
コンブも余るほど穫れるゾ……」と思いを馳せる人もいます。

 一方、たくましい弁慶の姿は、村の娘たちのあこがれの的。なか
でも美人の酋長の娘は、ご飯の支度や、弁当運びなど弁慶の身のま
わりにピッタリとつきそっています。ビックリしたのは酋長です。
アイヌの娘は、アイヌ以外の人と結婚できない掟があったのです。
父は娘にこんこんと掟のことを話しました。

 しかし娘はどうしても弁慶をあきらめられませんでした。弁慶も
まんざらではなく、橋の完成を願い、娘への煩悩に負けじと、念仏
を唱えながら仕事に励んでいました。しかし、弁慶も娘の恋心にと
うとう心に火を灯もり、愛を受け入れさせてしまいました。やがて、
橋を架ける現場の海岸に材木が積み上げられ、いよいよ準備が整い
ました。

 さあ工事をはじめようとするその朝、ナント材木が全部石になっ
てしまったのです。あ然とするアイヌの村人。「これはカムイの罰
だ!」アイヌの掟を破ったからだというのです。大岩の「材木岩」
は柱状列石と呼ばれ、いまでも溶岩が固まった姿で残っています。
実際、国後島側にも同じような地形があるという記録が残っている
ということです。


▼羅臼岳【データ】
【所在地】
・北海道斜里郡斜里町と目梨郡羅臼町との境。JR釧網本線知床斜
里駅からバス、岩尾別温泉下車(木下小屋泊)、歩いて5時間30分
で羅臼岳。二等三角点名「羅臼岳」(1660.0m)がある。

【位置】(電子国土ポータル)
・三角点:北緯44度4分32.52秒、東経145度7分20.02秒

【地図】
・2万5千分の1地形図名:羅臼

▼【参考文献】
・『アイヌ伝説集』更科源蔵編著(北書房)1971年(昭和46)
・『アイヌの伝説・アイヌ語地名解・コタン生物記』更科源蔵遍
・『吾妻鏡』(巻六〜巻十):「吾妻鏡2」(岩波文庫)龍粛訳注(岩
波書店)1997年(平成9)
・『角川日本地名大辞典1・北海道上巻』編(角川書店)1991年(平
成3)
・『神々の系図』川口謙二(東京美術)1981年(昭和56)
・『古事記』712年(和銅5・奈良時代)太安麻呂:新潮日本古典
集成27『古事記』校注・西宮一民(新潮社版)2005年(平成17)
・『知床日誌』松浦武四郎(江戸・多気志楼版)文久3年(1863)刊
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝説大系・1』(北海道・北奥羽)宮田登ほか(みずうみ書
房)1985年(昭和60)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系1・北海道の地名』高倉新一郎ほか(平凡社)
2003年(平成15)
・『北海道の口碑伝説』北海道庁編(日本教育出版社)1940年(昭
和15)
・『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)第九:(続本朝通鑑・巻第七十
三・後鳥羽天皇一〜十)(後鳥羽天皇)林羅山・鵞峯著 1670年(寛
文10):(国書刊行会)大正7年(1918)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室
山のはがき画の会

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