山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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1087号「立山にも現れた房総唯一の大天狗・夷隅権現坊」

【説明略文】
江戸時代後期の随筆集に、房総の住人源左衛門が、天狗の世界に連
れて行かれた話が載っています。あちこちの山に行って天狗たちと
いっしょに生活。天狗道の修行をさせられ、天狗名までもらいまし
た。しかしあまりの「のろまさ」に、師匠の天狗もあきれ果て追い
帰されたといいます。その間菓子を一度食べた以外、なにも食べな
かったという。そのせいか一度も大・小とも通じがなかったという
ことです。

1087号「立山にも現れた房総唯一の大天狗・夷隅権現坊」


【説明本文】

 高い山のない房総(千葉県)では、名前のある大天狗を探すのは

なかなか大変です。天狗研究の知切光歳氏によれば、唯一夷隅(い

すみ)権現坊をあげています。しかしこの天狗、もともとの風来坊

であちこちの山に出没、どこの山がすみかかはっきりしないため、

最初に姿をあらわした千葉県夷?(いしみ:夷隅)の名をとって夷

隅権現坊としたと光歳先生はいっています。



 明治後期から昭和初期にかけて小説家・泉鏡花の未完に終わった

長編「龍胆と撫子」(りんどうとなでしこ)に「上総の国土崎村と

云ふのに、源左衛門と言ふのが居て、…此の男は天狗に攫(さら)

はれた事が二度まであって、……」と、天狗にさらわれた源左衛

門が、あちこちの山々を連れまわされた話が書かれています。



 そのもとになっているのが江戸後期の『甲子夜話』です。この

本は、肥前国平戸藩というからいまの長崎県平戸市の殿さま、松

浦静山が書いた随筆集。これにはあちこちの地方の不思議な見聞談

が収録されていて、その中に、松浦家の仲間(ちゅうげん)をして

いた子が天狗にさらわれた話が載っています。



 『甲子夜話』の「巻七十三」に、「我邸中の僕に、東上総泉郡中

崎村の農夫源左衛門、酉の五十二歳が在り。この男嘗(かつて)

天狗に連往(つれいか)れたと云。その話せる大略は、……」と

つづきます。(夷隅は昔でいうと上総(かずさ)の国夷?(いしみ)

郡のこと。江戸時代初期に「夷隅」の字が当てられ、いまはいすみ

市になっています)。



 源左衛門が、7歳の祝いに馬の模様の晴れ着を着て、村の鎮守に

お参りに出かけました。途中山伏姿の男があらわれて、源左衛門を

連れ去ったのです。さあ、村中大騒ぎ、方々を探しましたがついに

分かりませんでした。



 それから8年後、さらわれた夷隅から遠く離れた丹沢の相模大山

の不動尊近くに、迷子がひとりボンヤリとしているのが見つかりま

した。地元の人がかけつけ、いろいろ聞きますが、どうもはっきり

しません。見ると腰に迷子札がついていて、上総夷隅郡の源左衛門

とあります。



 身元が分かったので、宿駅から宿駅へと宿継ぎで送られて、中崎

村に帰ってきました。親たちは喜び、いきさつを訊ねますが、要領

を得ません。とりとめのない本人の話をつなぎ合わせ推測してみる

と、どうも源左衛門は、山伏の格好をした男に連れられて空を飛び、

どこかの山奥に運ばれ、天狗たちと生活をともにしていたらしい。



 しかし、ある日、「お前の体にけがれがついた。実家でお前が死

んだと思い、仏事を行ったからだ。一度家に帰してやる」といわれ、

そのまま気がついたら大山不動尊の近くに置き去りにされていたと

いうのです。



 みれば7歳のあの時着ていた馬の模様の着物が、ツンツルテンに

はなっていますが、あの時のままでまだ真新しいのが不思議です。

家に帰ってきた源左衛門は、それからというもの家の仕事の農作業

を手伝って暮らしました。



 それから3年、源左衛門が18歳になった時、またあの山伏が迎

えに来ました。「目をつむってしっかり捕まっておれ」というなり、

源左衛門を背負って空中に舞い上がりました。しばらく風を切る音

がしたかと思ううちに、北アルプス立山に着いたといいます。立山

には加賀(石川県)白山につづいている深い洞窟があるといいます。



 その洞窟の中ほどが10坪くらいの広場になっていて、そこに11

人の天狗がすんでいました。ただこの洞窟がどこなのか、昔から天

狗の話が多い室堂あたりか、天狗山のあたりかはっきりしません。18

歳の源左衛門を連れてきた天狗はほかの天狗たちの上座にすわり、

みんなに「権現」と呼ばれています。



 どうやら天狗たちは権現の従者のようです。源左衛門も天狗とし

ての名前をもらい、長福坊と呼ばれています。この時はじめて乾燥

菓子をもらいました。これがたった一度の食事だったといいます。



 『甲子夜話』には、「……又十一人各(おのおの)口中に呪文を

誦(しょう)する体なりしが、頓(やが)て笙(しょう)篳篥(ひ

ちりき)の声して、皆々立更(たちかわ)りて舞楽せり。かの権

現の体は、白髪にして鬚長きこと膝に及ぶ。穏和慈愛、天狗にて

はなく僊人(せんにん)なりと」とあり、権現は白髪でひげが膝

まであり温和でやさしく、仙人のように思えたといいます。



 源左衛門は権現に連れられて、京都の鞍馬、貴船(きふね)神社

にも行きました。そこの千畳敷にはたくさんの天狗がいて、参詣人

の願いごとを聞いて、協議の末、裁決を下していました。またまわ

りの山々にも連れて行かれましたが、決まって天狗が出てきて、

剣術をやり兵法を学びます。



 源左衛門も練習されましたが、持ち前の「のろま」さが邪魔を

して、少しも上達しません。また申楽(さるがく)や、宴歌、酒席

にも連れて行かれました。天狗はよく酒を飲むといいます。またあ

る時は妖術で、昔の源平合戦の「一の谷の合戦」を見せられたまし

たが、それは人馬の群れ、ときの声など、まるでその場でおこって

いるようでした。



 また木葉天狗というのもおり、ハクロウと呼び、年を取って白い

毛が生えた白狼だといいます。天狗も必要なものは買わなければな

りません。そのお金は、この白狼天狗が薪を売ったり、働いて人間

からもらった駄賃で賄っているといいます。源左衛門の長福坊が19

歳になった時、あまりの間抜けぶりに、師匠の権現もあきれかえり、

ついに人間の世界に帰されてしまいした。



 その時、天狗の世界を去る証明書と、兵法の巻物のふたつをもら

い、脇差を差して袈裟姿で帰ってきたというのです。そのふたつと、

源左衛門が7歳の時着ていた馬の絵柄の着物といっしょに、上総(か

ずさ)の氏神に奉納しました。



 ある日、神社の社司がその巻物をこっそり見ようとしましたが、

眼がくらんで見られなかったといいます。そのため、いまでもその

まま納められているのこと。ちなみに巻物は梵字だけで書かれてい

るそうです。ということは、誰か見た人がいるんでしょうね。さら

に源左衛門がこの天狗の世界にきてからというもの、立山の洞窟で

食べた菓子以外、一度も物を食べたことはありませんでした。その

せいか、両便(大便、小便)の通じがなかったといいます。



 この物語は、先に書きましたように、泉鏡花の「龍胆と撫子」

にも出てきます。「……維新前だが、上総の国土崎村と云ふのに−

−−名も分かって居る−−−源左衛門と言ふのが居て、五十余歳

で江戸へ出て、肥前(ひぜん・いまの九州の西北の半島部、佐賀

県と長崎県とに分属する)の国主、松浦の邸(やしき)に奉公を

した。…



 …此の男は天狗に攫(さら)はれた事が二度まであって、幽(か

す)かに狗賓界(ぐひんかい)の消息を漏らしたのを、其国主が

記録に留めて置いたことなのである。七歳の時、氏神の宮に遊び

に行った、村はづれで、馴染(なじみ)みの栗柿を売る小母(を

ば)さんの顔を見ながら、大きな山伏に手を曳(ひ)かれて誘は

れたまゝ、行方(ゆくへ)が知れなく成った。……と大体同じよ

うな記述です。



 ただ源左衛門の出身地が、「上総の国土崎村」となっています。

いまの地名を調べましたが、『甲子夜話』の中崎村は「いすみ市」

と分かりましたが、「竜胆と撫子」の土崎村は、小説のため名前を

変えてあるのか、分かりませんでした。



▼【参考文献】
・『甲子夜話』松浦靜山著:東洋文庫「甲子夜話・全6巻」校訂・中
村幸彦ほか(平凡社)1989年(昭和64)
・『図聚天狗列伝・東日本編』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭
和52)
・『図聚天狗列伝・西日本編』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭
和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本歴史地名大系12・千葉県の地名』小笠原長和ほか(平凡社)
1997年(平成9)
・「龍胆と撫子」(りんどうとなでしこ)泉鏡花:『鏡花全集巻・21』
(岩波書店)1988年(昭和63)

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【とよだ 時】山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【時ゆ-もぁ-と】
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