山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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1084号北海道・羅臼岳

【説明略文】
羅臼岳は別称をラウシ(羅牛)岳、良牛嶽。ラウシは「魚の臓物を
処理した場所」だとか。ここは、アイヌ語でシル・エトク、「大地
の果て」なのだそうです。シル・エトクでシレトコ(知床)か。な
るほど。山頂からの眺望は雄大で、知床半島の山々、知床五湖や、
眼の下には羅臼湖が控えています。高山植物も300種類と多い。
・北海道斜里町と羅臼町との境。

1084号北海道・羅臼岳


【本文】
 羅臼岳(らうすだけ・標高1660m)は、北海道斜里郡斜里町と
目梨郡羅臼町との境にある山で、『日本百名山』の2番目に記載さ
れています。別称をラウシ(羅牛)岳、良牛嶽といいます。羅臼は、
アイヌ語「ラ・ウシ」の音訳。その意味は「魚の臓物を処理した場
所」なのだそうです。羅臼岳は北海道の東方へ突き出した知床半島
の、国後島を飲み込もうとして口を開けた、上あごの部分にある山
です。


 羅臼岳も信仰の対象になっていたらしく、ふもとの羅臼町で1998
(平成10)年に、「羅臼山大権現」と刻まれた釣鐘が見つかりまし
た。それには「弘化戌申(つちのえさる)正月」の紀年の奉納とあ
りました。羅臼岳の南羅臼湖があります。その西の知西別岳(チニ
シベツ岳)に、1850年(嘉永3)代には「ラウシ山権現堂祠」が
あった(根室旧貫誌)との文書もあるそうです。


 突然ですが、「……目梨最北の駅所なり、西北嶺をラウシ岳とい
ふ。(ラウシは低処の義、植別(目梨郡植別村)の北六里)」と書く
のは、明治の『大日本地名辞書』です。さらにつづけて「…知床半
島は羅牛以北、殊に険阻にして往来に由なく、人烟を見ず、僅に魚
樵(ぎょしょう・漁師ときこり)の民の、時を以て出入りするある
のみ(羅臼の山中一里に温泉あり)、知床岬、国後島、各直径十里
か」とあります。


 これらは、明治33年(1900年)に出版された日本初の全国的地
誌『大日本地名辞書』の解説です。ここは、アイヌ語でシル・エト
ク、「大地の果て」なのだそうです。シル・エトクでシレトコ(知
床)か。なるほど。この知床半島の北から中央に向かって知床岳(し
れとこだけ)、硫黄山(いおうざん)、羅臼岳、遠音別岳(おんねべ
つだけ)、海別岳(うなべつだけ)などとならんでいます。この蝦
夷地(北海道)を詳しく調査・探検したのは、松浦武四郎(竹四郎
とも)という人。


 幕末の浮世絵師(雅号は北海道人・ほっかいどうじん)で、三重
県松阪市の生まれの武四郎は、北加伊道(のちの北海道)という名
前を考案した御仁。安政5年(1858)、武四郎が41歳、第6回めの
蝦夷地調査探検で、知床に赴きました。この時の東エゾ地の調査で
は、アイヌに対する松前藩の悪事(不当な交易など虐政)を江戸幕
府に訴えたため、命をねらわれていたというから穏やかではありま
せん。そんななかでアイヌのために多くの記録を残しています。


 とくに『知床日誌』には、「ラウシ小川昔し鹿熊等取り必す(ず)
爰(ここ)にて屠(ほふ)り(屠殺・とさつ)し故(ゆえ)に其(の)
臓腑骨等有(り)しとの義也、上に羅牛岳と云(う)、神靈著しき
岳有(り)、麓に温泉有(り)。(……中略……)キナウシ平磯此(の)
上屏風の如き岩有(り)、(……中略……)シヘツ(シベツ)より此
(の)辺鷹多く又巣も多し。ニヲイ(木の集まる入江の)平磯上は
大岩壁に成(なり)、其(の)所へ流木打ち揚(げ)たり、故に号
(なづ)く。并て(あわせて)ヌサウシ(知床岬)第一岬、則(ち)
此所(ここ)を称してシレトコと云(う)なり。…


 …礒にはカハチリ(鷲)・イタシヘ(海?・トド)・トカリ(水豹
・アザラシ)多く、キヤアキヤアと唱(く)、其(の)聲喧く(さ
えく・やかましく)物寂敷(ものさびしい)もの也。岩には姫栂(ヒ
メツガ)一面に漫延し其(その)間に岩薺(イワナズナ?)蛇ニシ
ンの種小櫻草陸には蕕蘭(?)・米蘭(?)・紫蘭等咲(き)たり。
土人は此(この)紫蘭(シラン)の根を以(もっ)て漆器磁器の破
れを繼く(つぐ)に能(よ)く附(つく)もの也(牧野富太郎博士
もシランは糊として用うと書いています)」と詳しく描写していま
す。羅臼町には松浦武四郎の歌碑もあり、「仮寝する窟におふる石
小菅 葺(ふ)し菖蒲と見てこそはねめ」と刻まれています。


 羅臼岳には、明治時代に入ってもいろいろな呼び名があったよう
です。「釧路国地誌提要」という文書には「祖父岳」と、また「北
見国地誌提要」には「チャチャノボリ山」と記載され、「輯(しゅ
う)製二十万分一図」の地図などには「良牛岳」とも書かれていま
す。こんなバラバラな呼び方が、「羅臼岳」と統一されだしたのは、
大正時代の末ごろの地図からだそうですからまだ最近?なのです
ね。余談ながら、1965年(昭和40)発行の10円切手に、羅臼岳の
写真が採用されています。


 羅臼岳山頂からの眺望は雄大で、三ッ峰、サシルイ岳、硫黄山な
ど知床半島の山々、両側の海や、東には国後島(北方領土を返せ!)、
西にはオホーツク海、知床五湖や、眼の下には羅臼湖が控えていま
す。高山植物も300種類あまりと多く、雪渓や岩場の間に大群落が
みられます。ウメガサソウ、エゾイタヤ、コケモモ、アオノツガザ
クラ、リンネソウなど。また山頂付近には、エゾノツガザクラ、イ
ワヒゲ、チシマツガザクラ、クモマグサなどなど。


 このあたりでお節介文をひとつ。羅臼岳山ろくの羅臼町にも、あ
の「源義経」や「弁慶」の影がチラホラ出てきます。羅臼町にある
「義経しりもち岩」や「材木岩」がそれです。そもそも源平合戦で
平家をうち破った義経たちですが、兄の源頼朝に追われ、奥州藤原
氏の所に(現在の平泉)落ち延びます。しかし義経は、藤原泰衡に
襲われ、1189年(文治5)閏(うるう)4月30日、奥州平泉で自
害(衣川の戦い)したことになっています(『吾妻鏡』)。


 ところが、義経と弁慶は生きていて、平泉から北海道に落ち延び
たという説があります。3代将軍徳川家光が、儒者の林羅山に国史
の編纂を命じて成立した『本朝通鑑』という書物があります。その
『続本朝通鑑』(巻第七十三)に、「…文治五年閏四月、「又曰(フ)
衣河(川)之役義経不(レ)死逃到(二)蝦夷(えみし)島(一)
存(二)其遺種(子孫)(一)」と、出てきます。


 その痕跡のひとつ「義経しりもち岩」という岩は、北海道のあち
こちにありますが、ここ羅臼町にも存在します。そのいわれはこう
です。知床半島まで来た義経一行は、流れ寄った鯨の肉を焼いてい
ました。うまそうな匂いがただよい、そろそろ焼けたかなと思った
とたん、串が折れて火の中に倒れました。義経はびっくりし、尻も
ちをついたというのです。(たかが串が折れたくらいで、尻もちと
はなんとも大げさ。首をひねるところです)。同じような話で尻餅
沢もあるのですが、肝心なその場所を特定するのが難しいというの
ですから困ってしまいます。


 もうひとつの弁慶の「材木岩」というのは、羅臼灯台下の岩のこ
と。羅臼に来た弁慶は、羅臼と国後島があまりに近いので、その間
に結ぶ橋を架けようとしました。現地にこんな話があります。ある
日、羅臼にやってきたシャマイクル(弁慶をいうアイヌ語)は、すぐ
向かいにある大きなクナシリ島に行きたくなりました。


 そこで橋を架けようと思いました。弁慶は、さっそく山へ行って、
どんどん木を切って集めました。力持ちの彼は、一度に木材を9本
も10本も、担いできます。はじめは、羅臼と国後島との間に橋を
架けるなんて、「まゆつば」な話だとみていたアイヌの人たちも、
だんだんその気になってきて、弁慶の手伝いをする人が増えてきま
した。「あのクナシリは、魚もコンブも余るほど穫れるゾ……」と
思いを馳せる人もいます。


 一方、たくましい弁慶の姿は、村の娘たちのあこがれの的。なか
でも美人の酋長の娘は、ご飯の支度や、弁当運びなど弁慶の身のま
わりにピッタリとつきそっています。ビックリしたのは酋長です。
アイヌの娘は、アイヌ以外の人と結婚できない掟があったのです。
父は娘にこんこんと掟のことを話しました。しかし娘はどうしても
弁慶をあきらめられませんでした。弁慶もまんざらではなく、橋の
完成を願い煩悩に負けじと、念仏を唱えながら仕事に励んでいまし
た。


 しかし、娘の恋心にとうとう弁慶は心に火を灯もり、愛を受け入
れさせてしまいました。やがて、橋を架ける現場の海岸に材木が積
み上げられ、いよいよ準備が整いました。さあ工事をはじめようと
するその朝、ナント材木が全部石になってしまったのです。あ然と
するアイヌの村人。「これはカムイの罰だ!」アイヌの掟を破った
からだというのです。大岩の「材木岩」は柱状列石と呼ばれ、いま
でも溶岩が固まった姿で残っています。実際、国後島側にも同じよ
うな地形があるという記録が残っているということです。



▼羅臼岳【データ】
★【所在地】
・北海道斜里郡斜里町と目梨郡羅臼町との境。JR釧網本線知床斜
里駅からバス、岩尾別温泉下車(木下小屋泊)、歩いて5時間30分
で羅臼岳。二等三角点名「羅臼岳」(1660.0m)がある。

★【位置】(電子国土ポータル)
・三角点:北緯44度4分32.52秒、東経145度7分20.02秒(基準
点成果等閲覧サービス)

★【地図】
・2万5千分の1地形図名:羅臼


▼【参考文献】
・『吾妻鏡』卷九:「吾妻鏡2」(岩波文庫)龍粛訳注(岩波書店)1997
年(平成9)
・『角川日本地名大辞典1・北海道上巻』編(角川書店)1991年(平
成3)
・「知床紀行」松浦武四郎(江戸・多気志楼) 文久3(1863)。
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『大日本地名辞書』吉田東伍(とうご)1909年(明治42):(冨山
房)1900年(明治33)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝説大系・1』(北海道・北奥羽)宮田登ほか(みずうみ書
房)1985年(昭和60)
・『日本歴史地名大系1・北海道の地名』高倉新一郎ほか(平凡社)
2003年(平成15)
・『北海道の口碑伝説』北海道庁編(日本教育出版社)1940年(昭
和15)
・『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)第九:(続本朝通鑑・巻第七十
三)林羅山・鵞峯著(国書刊行会)大正7年(1918)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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