伝説伝承の山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

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1081号「丹沢大山・修験道と役行者小角」

【略文】
大山は奈良時代、良弁僧正が開山した山。役行者も40歳のとき、
雨降(丹沢大山)に来たと『役行者本記』にあります。こんな山
ですから大山は修験道に関係の深いのももっともです。大山の修験
は、古くからこの山を行場としてきた大山修験(当山派)のほかに、
大山東方山中の日向修験(本山派)と、東北東山ろくの八菅修験
(本山派)があります。
・神奈川県伊勢原市と厚木市・秦野市との境。

【本文】
 丹沢の山には仏果山(ぶっかさん)、経ヶ岳、木ノ又大日岳、行

者岳、不動ノ峰、権現山など、仏教にちなんだ名前が多いようです。

そういえば最高峰の蛭ヶ岳(ひるがたけ)も、別名は薬師岳だし、

塔ノ岳も尊仏山(そんぶつさん)の名もあります。それもそのはず

でかつてここは修験道の盛んな山域だったそうです。とくに大山

は、古くから信仰の山として崇拝された山。



 雨降(あふり)山、阿夫利(あふり)山ともいわれ、山頂には

大山祇(おおやまずみ)神をまつる阿夫利神社本社があります。


また中腹には同下社(しもしゃ)があり、その下には関東三大不

動尊(成田山新勝寺、高幡山金剛寺、大山寺(別の説も)の大山

寺があります。



 太平洋戦争後、大山山頂の発掘調査で縄文土器のほかに、土師

器と須恵器が出土、これにより大山の信仰は縄文時代後期からは

じまっていたらしいことが分かります(『古代山岳信仰遺跡の研

究』)。奈良時代の天平勝宝7年(755)、華厳宗の第二祖・良弁が大

山寺(だいさんじ)を開いてからは、修験道場として栄えていきま

す。



 次第に施設を拡充させた大山寺は、やがて、華厳(けごん)宗、

天台(てんだい)宗、真言(しんごん)宗の山宗兼学の道場に発展

します。蓑毛村の大正坊、円教坊、光宝坊、長福院などや、坂本村

の笹之坊、藤之坊、繁盛坊などなど、12の僧坊がつくられ、周辺

にも多数の修験の修行者が住みつきました。



 修験道の祖・役小角(えんのおづぬ・役行者)は、いまの奈良県

御所市茅原(ごせしちばら)の吉祥草寺(きちじょうそうじ)とい

うお寺の生まれ。近くの葛城山(いまの金剛山から大和葛城山など

の一帯)で修行、やがて「蔵王権現」を感得し、修験道をあみ出し

ました。



 役行者の伝記を著した室町時代の本『役行者本記』に、「天武天

皇元年(673)、癸酉(みずのととり)、小角は四十歳。……駿州の

富士、相州の足利(矢倉岳)・雨降(丹沢大山)・箱根、伊豆の天城、

常陸の筑波、信州の浅間岳、甲斐の駒ヶ岳、鳳凰山、近江の息吹山

(伊吹山)などを巡って、四十数日の後、八月上旬に葛城山に帰っ

てきた」とあり、大山にも来たことが記してあります。有名な伊豆

の大島に流された話は、それから26年あとになります。



 そもそも修験道とは、山岳修行を通して、超自然的・霊的能力を

獲得しようとする宗教。遠く奈良時代には、多くの優婆塞(うばそ

く)(国家試験を受けずに、自ら僧侶になった者)(役行者も優婆塞

です)たちが、山に入って修行をしています。平安時代になると、

いままで都市での仏教の「天台宗」・「真言宗」のような密教の行

者たちも山の中で修行するようになりました。



 熊野三山・金峰山・大峰山など各地の名山が、修行の山として知

られています。この新しい宗教は、神仏混交(しんぶつこんこう)

の「修験道」と呼ばれ、その行者を修験とか山伏といいました。

そして天台宗は、和歌山県の熊野山を「本山派」の根拠地に、真言

宗は、奈良県の金峰山を「当山派」の根拠地にしたのでありました。

そして全国各地に大和金峰山に対する、それぞれの「国御岳」(く

にみたけ)をつくって、それぞれの地域へ信仰の浸透を計ってい

たのでした。



 相模国(神奈川県)でも「大山」、「箱根山」、「八菅山」、「日向

山」、「石老山」、「高麗寺山」、「河村山」などを、それぞれ中心と

して発展していきました。なかでも大山は、相模国の中心道場の

「国御岳」として、全国各地に知られるようになりました。修験

の山として、山頂の石尊社に「神」をまつり、中腹の不動堂は「仏」

をまつり、僧侶・神官・修験者がこの運営にあたっていました。



 文明18年(1486)(室町時代後半・戦国時代)、全国山伏の総元

締め、聖護院藤原道興准后(どうこうじゅごう)というエライ人

が、100人あまりの山伏を引き連れて大山に礼拝するためにやって

きて、大山寺に泊ったりしているそうです。また天台宗寺門派の

僧で歌人、大僧正・大阿闍梨隆弁(りゅうべん)という人が、『夫

木和歌抄』(ふぼくわかしょう)という資料として貴重な歌集に、「相

模国御岳山」奉納の歌として、「古の吉野を移す御岳山 黄金の花

もさこそ咲くらめ」と詠まれています。



 このように大山は、相模国の山岳修行の中心道場として、大い

に栄えました。大山はもともと大山で修行する修験たち、日向修

験、八菅修験がありましたが、行場である大山は、華厳、真言、

天台と三宗の兼学道場とされていました。



 しかし、近世に入ると幕府の政策により、強制的に本山派、当

山派の2派に配分されていきます。結果、大山修験は当山派、大

山東方山中の日向修験は本山派、東北東山ろくの八菅修験は本山
派になりました。



 日向修験(本山派)は、日向薬師とよばれる日向山霊山寺を本

拠とした修験です。霊山寺は「縁起」に行基開山と伝える古刹(こ

さつ)。大山と同様、源頼朝の尊崇を受けたという。先述のように、

室町(戦国時代)の文明18年(1486)に、聖護院の道興准后(ど

うこうじゅごう)(室町時代の僧侶で聖護院門跡・皇族貴族が出家

して住んだ格式の高い寺院僧)が、大山と霊山寺に立ち寄っていま

す。



 その『廻国雑記』(道興准后著)には「宿(二)相州大山寺(一)。


寒夜無(レ)眠(大山寺での夜は寒くて眠れなかった)。而閑寂之余。

和漢両篇口号」、「北山を立出て霊山という寺(日向山霊山寺)にい

たる。本尊は薬師如来にてまします」と出てくるほど格式の高い山

なのです。



 1962年(昭和37)に発見された『峯中記略扣(控)』(ぶちゅう

きりゃくひかえ)という古文書に日向修験の峰入りのコース(4泊

5日かけての奥駈け)が書かれています。



 それによると、入峰は3月25日より、日向薬師から山に入り札

所薬師末社、および各所に札を納めお祓いをし、大山山頂石尊まで

は八菅山修験と日向山修験が同行。日向山修験はここから奥駆け行

場の大天狗小天狗に札を納め、閼伽(あか)ノ水(仏に手向ける水)

のあるところを経て、護摩屋敷の水の先の門戸橋がある場所・門戸

口へ出る。ここで里人の見送りを受けた修行者の一行は、辺りの小

屋に一泊する。雨具以外は一切なく、筵(むしろ)1枚だけである。





 …ここから出発して烏ヶ尾(烏尾山)に登る。烏尾山は、2羽の

「ミサキガミ」ともいわれるカラスが案内してくれたという伝説か

らその名がある。この山の上には蔵王権現の石仏があり、これに札

を納めてお払いをする。向ノ峰(向こうの峰)に移りスズタケの中

を行くと前尊仏(場所不明)に出る。ここで札を納めお祓いをして

一泊する。……。



 この部分についてはこんな説もあります。『丹沢の行者道を歩く』

城川隆生氏によれば、「ここでいう烏ヶ尾はいまの烏尾山ではなく、

三ノ塔(1204.8m)を指していると考えた方が自然である。三ノ塔の

北東に延びる尾根から三ノ塔の北側斜面に出ると、「向ノ峰」の烏

尾山(1136m)が視界の正面に飛び込んでくる。…



 …日向の山伏はこの日、明日からはじまる厳しい修行に備えて水

で身を清め、これから向かう聖地への遥拝を行う必要があった。「尊

仏」とは表尾根の中でも重要な聖地 塔ノ岳の別名でもある。烏尾

山から水無川の谷に向かって尾根をしばらく下ると、かつてはヒゴ

ノ沢へ降りる道が通じていた塔ノ岳の遥拝地がある。いまは植林に

囲まれて遥拝もままならず塚と馬頭観音がひっそりと立っていると

いうものです(『丹沢の行者道を歩く』)。



 さて、『峯中記略扣(控)』に戻ります。烏尾山から北へ行くと大

きな岩(行者岳)の上に役ノ行者像がある。これより下ると「新客

覗」の岩がある。新客(初めて峰入りした者)は腰に縄をしばり、

奈良山上ヶ岳「西の覗き」のように、崖から宙づりになって下を覗

かされる。そこから茅の尾根を登り、大日尊(木ノ又大日)に札を

納める。…



 …ここから峰に登ると「塔ノ岳」である。ここには大きな平地で、

弥陀薬師の塔がある。すぐ西の方には富士山が見え、北に行くと黒

尊仏の岩がある」。ここから山伏は主脈を通って、いまの相模原市

津久井の青根に下山するのです。山中の修行は筆舌尽くしがたいほ

ど厳しく、子供や老僧などの入峰はとても無理だという。行者は一

人一升の焼米を携帯、宿泊も野宿が多かったというもの。



 「檀家ト申ハ七ケ年目ニ入峰ノセツ檀廻致ス邑 郡内 青根村 

青野原村鳥屋村 煤ケ谷村 七沢村 日向村 メ六ケ村入峰先達相

勤候ニハ振舞以外諸邑ニ而金子弐拾両程相拭各々薄稼故延年ニ相成

申候漸ク一代ニ四度カ五度位也」とあり、入峰ルートと各村への「檀

廻」が記されています。



 一方、八菅修験(本山派)は、愛川町の八菅山を拠点に活動す

る修験。八菅神社の境内から発掘された遺物から、八菅山成立の年

代上の上限は平安末期と考えられているようです。かつては「春の

峰」と「秋の峰」の入峰があったそうです。「春の峰」は、2月20

日から4月8日まで。



 「秋の峰」は7月20日から9月8日までで、いずれも49日間の

修業でしたが、弘治3年(1557)に35日間に短縮され、その後、

永禄3年(1560)に「秋の峰」は途絶えてしまいました。しかし「春

の峰」は、明治5(1872)年に修験道が廃止されるまで続けられて

います。



 八菅から大山までの30ヶ所の行所(修行の場)を拝しながら、

修行行脚を行います。30の行所というのは、(1八菅山禅定宿(八

菅山頂)、(2幣山(へいやま・荼吉尼天岩屋)、(3屋形山(舘山)、

(4平山、多和宿、(5滝本(塩川滝)、平持宿、(6宝珠岳、(7山

神、(8経石岳、(9華厳岳、(10寺宿、(11仏生谷、(12腰宿、(13

不動岩屋、(14五大尊岳、(15児ヶ墓(いまの辺宝山)、(16金剛童

子岳、(17釈迦岳、(18阿弥陀岳(いまの三峰の北峰)、(19妙法岳

(いまの三峰の中央峰)、(20大日岳(※いまの三峰の南峰)、(21

不動岳、(22聖天岳、(23涅槃(ねはん)岳、(24金色岳、(25十一

面岳、(26千手岳、(27空鉢岳、(28明星岳、(29大山寺本宮、雨降

山(大山山頂)、(30大山寺白山不動(大山不動堂)の30ヶ所(『山

岳宗教史研究叢書8』)。



 行者たちは最後の大山寺で行を終えると、平地を通って八菅山に

帰り幣山に弊を納めました。八菅山では男子は13歳になると、峰

入りすることが義務づけられていたという。また峰入りの時は水盃

(みずさかずき)をして家族と別れ入山。家族や親類に死者が出た

ような時以外は下山できなかったという。



 こうした丹沢の修験道も明治に入り、神仏分離令・廃仏棄釈で大

山寺は取り壊し引き下ろされ、来迎院が建っていた跡地に明王院と


して再建。さらに大正4年(1915年)に観音寺と合併、再び「大

山寺」を呼ぶようになりました。



 そして、村々の修験も、神仏判然令による修験道廃止を受けて、

帰農化・僧侶(天台・真言)化・神職化。八菅の修験も全員が神職

になり、その後全員が帰農、また日向の修験も、一部を除き帰農、

浄発願寺の檀家となったのでありました。



▼大山【データ】
【所在地】
・神奈川県伊勢原市と厚木市・秦野市との境。小田急小田原線伊
勢原駅の北6キロ。小田急伊勢原駅からバス、大山ケーブル駅か
らケーブル利用下社駅下車、さらに歩いて1時間30分で丹沢大山。
三等三角点(1251.7m、現地確認)と写真測量による標高点(1252
m・標石はない)と阿夫利神社奥社と電波塔がある。地形図に山名
と三角点の標高、標高点の標高、阿夫利神社の建物の記号と電波塔
の記号の記載あり。
※「地図閲覧サービス」と「電子国土ポータルWebシステム」地形
図には三角点と標高点があるが、「基準点成果等閲覧サービス」地
形図には両方とも記入がない。

【ご利益】
・阿夫利神社:御利益:豊作祈願・無病息災・家内安全・防災招
福・商売繁盛などの祈願。とくに水に関係のある火消し・酒屋、
またご神体の刀に関係のある大工・石工・板前などの商売繁盛の
祈願)。

【名山】
・「日本三百名山」(日本山岳会選定):第235番選定:日本百名山
以外に200山を加えたもの。
・「花の百名山」(田中澄江選定・1981年):第47番選定

【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・大山標高点:北緯35度26分27.09秒、東経139度13分52.22秒
・大山三角点:北緯35度26分26秒.9251、東経139度13分53秒.1146

【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)1
984年(昭和59)
・『神奈川県史』(各論編5・民俗)神奈川県企画調査部県史編集室
(神奈川県)1977年(昭和52)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『山岳宗教史研究叢書・8』(日光山と関東の修験道)宮田登・
宮本袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書17』(修験道史料集・T)五木重編(名著
出版)1983年(昭和58)
・『修験道の本』(学研)1993年(平成5)

 

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 漫筆画文・駄画師・漫画家
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